6-9 信じてみたい

 膠着状態を終えたのを契機に、薫さんも一つ息をつくと、私とカナに交互に目を向けながら口を開く。

「さて。じゃ、アタシからも一つ相談してもいいかしら?」

「……何ですか?」

 直前のやりとりの疑心もあって、私はすぐには返事をできなかった。代わってカナが、低い声で相槌を打つ。

「アナタたちのお家の話ヨ。まだ、傑ちゃんのところに住むつもり?」

 そう言われ、その問題があったことを思い出した。

 当然、いつまでも『すいせん』で暮らし続ける気は、今の私にはなかった。多少家賃が高かろうが、新しい住まいを探すことになるだろう。無論、最終的なところはカナとの相談になるが。

 ただ、現時点で次のアテがあるわけではない。となると、もうしばらくは『すいせん』で暮らすことになるだろう。気が進まないのは事実だが、『暴力屋』とのやり取りを見る限り、すぐにまた変な事をしてくることは無さそうな気がする。家賃は上がるだろうが。

「なるべく早く次を見つけたいとは思ってますけど」

 カナとも目配せを交わしながら、私は答える。呼応するように頷くカナは、薫さんと対峙するその顔に一際強く緊張感を走らせた。考えるより先に、私も警戒心を立ち上がらせる。

 そんな私たちの意思疎通をまるで待っていたかのように、一旦口を噤んでいた薫さんが再び語りかけてきた。

「提案なんだケド、ウチに住み込みで働く気、なぁい?」

 またも呆気に取られる提案に、言葉を失ってしまう。そんな私の隣では、カナがすぐさま反応を返していた。

「わたしたちが住むようなスペースあるんですか?」

「気づかなかったァ? お店のフロアは一階だけだけど、建物は二階まであるの、外からでも分かるでしょ。上に空き部屋が幾つもあるのヨ」

 カナの投げた疑問に、薫さんも淀みなく答える。何となく小馬鹿にするような一言目が気にはなった。

 私は気づいていなかった。けれど、ひょっとしたらカナは察しがついていたのかもしれない。薫さんが「家の相談」と言ったときに覗かせた緊張が、今になって私にそう思わせた。

「お店を改装したときから、そういうこともできるようにって作ってあったのよォ。一応、アナタたちを紹介してくれた傑ちゃんの顔を立てて、今まで声かけないでおいたんだケド」

 そう続けながら、薫さんは片目を閉じてみせる。カナは渋い顔。その目が一瞬だけ、私の方に向けられた。

 カナの意図は通じた。薫さんの提案に難色を示している。だけど、その理由が私には分からない。

 渡りに船、と安易に飛びついて良い話だなんて思ってはいない。だけど今、他の選択肢と比べて即座に切り捨てる理由が何なのか、私には分からなかった。

 私がすぐに応えなかったためか、カナは口惜しげに口の端を曲げて、

「サラ。わたしは嫌だな」

 そう、率直に伝えてきた。

 薫さんは少し意外そうだ。眉を持ち上げて私たちの方を注視している。それを横目に、私はカナに向き直って尋ねる。

「どうして?」

「信用できない」

 続く言葉は、あまりに明確な敵愾心に満ちていた。思わずぎょっとして、薫さんと『暴力屋』の方に意識を向けた。

『暴力屋』は全くの無反応。店に着いた直後から全く変わらぬ様子で椅子に腰かける姿は、私たちのやり取りに関心を持っているようには見えない。一方で薫さんは不快感ではなく驚きを露わに、眉根を寄せて顎に手を当てていた。それだけ見て取った私は、改めてカナと正面から向き合った。

 カナの瞳を覗き込む。深く、深く。カナの方も真剣に私の視線を手繰り寄せてきた。

 薫さんの提案を断って新たな住まいを探すにしても、結局のところ「信用できる」とはっきり言える環境を見つけることはほぼ不可能だろう。にも拘らず、カナがここまで強く反発するのには理由があるはず。

 それを誤りだと正す必要はない。だけど理解する必要がある。それも、私自身の手で。

 夕方からここまで、あまりに大きな変化に晒されてロクに働かなかった頭を、必死で回転させる。カナがここまで警戒する理由を読み解くべく、これまで私たちの周りで起きた変化をつぶさに思い浮かべ、並べていく。

 気になるシーンは幾つも見つかった。

 大河内さんが私に言い寄ってきたときに、私と彼の間に割って入ったカナの背中を思い出す。

「私たちの今後に興味がある」と薫さんが言ったときに、既に警戒心を剥き出しにしていたカナを思い出す。

 背を向ける直前に、「君を気に入った他の人たちは知らない」と嘯いた大河内さんを。

 私を名指しして「珍しい」と言った薫さんを。

 その挙句に、薫さんの提案を「嫌だ」と言ったカナを、思い出す。

――ああ、気づいてみれば簡単だ

 カナはずっと、私に近づこうとする者を警戒していた。ただそれだけなのだ。

 そして気づいた上で、今度はカナにかけるべき言葉を考え始める。どうすることがカナの、そして私たちのためになるのか、じっと考える。

 その間に、どれだけの時間が流れただろう。少なくとも、その場の全員が黙って待っていてくれる間に、私は結論を得た。

「……カナ、聞いてくれる?」

 ゆっくりと呼吸をして、柔らかく語りかける。ぴくりと一度肩を揺らしたカナは、私の顔に改めて焦点を結んだ。

 そんなカナから、私は一度目を離し、『暴力屋』の方を見た。ヘルメット越しにその顔は窺えない。ただ、私がそちらに目をやったことには特別な意味を感じたのか、小さく身動きをしたのが見えた。

 それを確認してから、私は視線をカナに戻し、

「前、初めて漆原さんに会ったときに言われたこと、覚えてる?」

「……? 何だっけ?」

 私がそんなことを言い出すなんて思っていなかっただろう。カナは大きく瞬きして、首を傾けて応えた。

「ヤバいと思ったら逃げろ。ただし、相手が逃がしてくれるとは限らない」

 私は、あのときに教わったことを繰り返したあと、

「もし店長が本気なら、きっと私たちに逃げ場なんてないわ」

 言うと、カナは痛みを堪えるように口元を歪めた。

 言われたことそのものを覚えていなくても、カナが見落としていたとは思えない。無視していた懸念を突きつけられたようなものだろう。彼女は目を眇めて私を睨み、押し殺した声で言う。

「だからって諦めるのは、違うんじゃないかな」

「うん」

 それを、私はあっさり肯定する。頷き、それでも微笑を絶やさないまま、カナの手にそっと触れ、握る。緊張のせいかいつもより冷たいその手が、触った瞬間に短く震えた。

「でもね、逆に私たちが店長の提案を蹴って、ここを離れられるとしたら、それは私たちが勿体ないことをしたってことにならないかしら。それを強制する必要がなかったってことなんだから」

「それは……」

 私の指摘に、今度こそカナは言い淀んだ。どうやらその考えはなかったらしい。

 私としても、それは本心だ。ただ一方で、それ以上に重要なこともあった。伝えなければいけないことが。狼狽えるカナの瞳を今一度しっかり捉えて、私は息を吸い込んだ。

「じゃあカナ、私たちが最初から信用できる相手っていると思う?」

 再び問いを投げる。私の言葉に、カナは驚いたように息を呑んだ。

「私はいないと思う。どこにも、どこに行っても。会って話してみるまで分かるわけないし、ちょっと一緒にいただけで信用できないのは当たり前だわ」

 言葉を重ねる私に、カナは丸い目を向けたまま、ただ黙っていた。カナだけじゃない。私以外の誰もが、私の言葉を遮らないでいてくれた。

 胸の内だけで感謝の言葉を述べながら、私は続けた。

「だからこそ私は、いつかその人を信用できる可能性を見限りたくないの。だってそうじゃなきゃ、私たちは孤立してしまうから」

 そう自分で口にした瞬間、すごく微かに、朧げに、疑問の一端が解けたような気がした。

 薫さんが私たちを指して、私をより特別と言った理由。少なくとも、薫さんが見出した、私とカナの間にある違い。それが何だったのか、図らずも私は、自分で紐解いたような気がした。

「カナ」

 呼びかける。手を握る。カナはもうずっと私を見ていた。それを知っていて、なお私は彼女の名前を呼ばずにはいられなかった。特に理由はない。ただ愛おしいから。

『特区』に来た日、入居手続きの待ち時間に交わした言葉を思い出す。私を支えてくれて、互いに支え合えるところが好き。頼りにしてる。そんなやり取りをしたのを覚えている。

 カナは私を守ろうとしてくれた。だから私は、立ち止まろうとしているカナの背を押して、膝を折ろうとしているカナを支える。そうしたい。

 だって、私はカナが好きだから。

「私は店長の提案、受けたい。店長のこと、信じる努力をしてみたいと思う。ひょっとしたら、またそれで痛い目を見るのかもしれない。それでも、誰も寄せつけようとしないよりいいと思うの。きっとここで進まなきゃ、私たちの未来は袋小路だから」

 そう告げて、伝えたいことを伝え切って、私はようやく口を噤んだ。カナの目を見つめ手を握ったまま、彼女の返事をじっと待つ。

 カナは白紙のような表情をしていた。肌色は白く、しかし青白いほどではない。目の焦点はどこにも結ばれていないようでありながら、確かな意思の光を宿している。そんなカナの顔を見つめ、私は不安よりも安堵を感じていた。

 私と意見を異にしたカナが、それを拒絶するでもなく、ただ私に従うでもなく、自らの意見を改めて再編している様を見て、私は紛れもなく安堵していた。

「……サラは」

 長い長い沈黙を経て、か細い声でカナが零す。慌てずに小さく頷いた私に、カナは僅かに瞼を落としながら、

「サラは、わたしたちに未来があるって、思う?」

 細い吐息とともに零れ落ちたような問いかけ。とても不安そうな、縋るような視線が私に張りついて震えていた。

 無責任な答えなんて許されない。私は一度深呼吸をする間、これまでにない速さで思考を往復させた。そして、カナの手を握っていた手を彼女の肩に移し、抱き寄せながら囁く。

「きっと、見通しは悪いと思う。苦しいこともあるかもしれない」

 そう言いながら、耳元に唇を寄せ、

「それでも私は、カナと一緒に幸せな未来を探したい」

「……ずるいなぁ、ホントに」

 返ってきたのは苦笑だった。震える声音にもしやと思って顔を離し、正面からカナの顔を覗き込む。薄く覗いた瞳から、涙をぼろぼろ零しているカナの姿がそこにあった。

 一瞬、胸が締めつけられたような気分になる。だけど、カナの口の端に確かに浮かんだ笑みを見つけ、私は胸を撫で下ろした。カナの心境を悟ったことをカナもまた察し、こくりと頷いてくる。

 それを認めて、私は息を整えながら薫さんに向き直った。

 一部始終を見守っていた薫さんは、やれやれと言わんばかりに肩を揺らす。そんな彼に、私ははっきりと頷きながら、

「店長。さっきの住み込みの話、受けさせてください」

「そう言ってもらえて嬉しいわァ」

 一息つきながら薫さんが応えた。

 同時に背後で、大きく長い溜息。振り返ると、四肢をだらりと弛緩させた『暴力屋』の姿があった。無駄な時間に飽き飽きしたと全身で主張する様相だが、意外なことに威圧感はあまりなかった。

 と、後方に引っ張られた注意を、慌てて正面の薫さんに戻す。もう一つ言わなければならないことがあるのだ。

「ところで店長、その住み込みの話なんですけど」

「? 何かしら、そんなに慌てて?」

 承諾したあとに改めて尋ねようとする私を、薫さんは怪訝そうな目で見る。

 私はそんな彼の眼を食い入るように覗き込み、問うた。

「私たち以外にも、まだ住めますか?」

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