5-5 恋人

「ふゥ、これで四人。営業開始も見えてきたわァ」

 二人の面接を終えたあと、キッチンの片づけをしながら、薫さんは安堵したようにそう零した。

「いよいよとなると緊張するなぁ。実際にお客さんの相手をしたりとか、まだ不安です」

 と、こちらはカナ。同じ不安は私にもある。一応、漆原さんをはじめとした常連客の方々に手伝ってもらって接客の練習はしているものの、入れ代わり立ち代わりでやってくるお客さんを相手にきちんとした対応を続けられるかは自信がない。

 注文の対応にしても不安はある。何せ、複数人のお客さんを同時に捌いた経験が、店長にすらないのだ。ノウハウなどあったものではない。そこら辺は営業を続けながらの勉強になるだろう。

「勿論、時雨ちゃんや小雪ちゃんの教育もあるから、今日明日ってわけにはいかないケド。ま、とはいえ近々だとは思って頂戴」

『はーい』

 声を合わせて私とカナが返事した。薫さんがクスリと笑い、私たちも笑みを見交わし合う。

 談笑のうちに片づけを終えた頃、私は何気なくその話題を口にした。

「そういえば、時雨さんと小雪さん、ちょっと不思議でしたよね」

「不思議って?」

 カナがきょとんと尋ね返してくる。薫さんも同じような表情だ。

 たまに思うのだが、この三人で会話をしていると、しばしばこんな風に二人の反応が揃うことがある。口したことはないが、本音を言うとあまりいい気分ではない。

「ほら、二人とも井端って名乗ってたじゃないですか。なのに自分たちのこと、『夫婦』じゃなくて『恋人』って言ってたな、って思って」

 胸のもやもやを噛み潰して、私はそう言った。

 二人の反応は鈍かった。カナはきょとんとした表情のまま、薫さんは無表情で、私の方を見て動きを止めていた。予想していなかった沈黙の重さに、浮かべた笑みが錆びていくのを感じる。

 ふいに、フッと薫さんが息を吹いた。

「まぁ、アタシも答えを知ってるわけじゃないから、単なる予想だけどネ」

 そう前置きをしてから、カナの方へ視線を滑らせた。

「カナちゃんは分かる?」

 問いかける声に、カナは無言のまま薫さんを見る。ニヤリと細い笑みを刻んだ彼に、カナは微笑み返した。

 口元に浮かんだその笑みのあまりの苦さに、胸がざらつくような気分になった。

 理由も分からず一人青ざめる私に構おうともせず、カナは一言でその問いに答えた。


「兄妹、じゃないですか?」


「え……」

 私の手から何かが滑り落ちた。それが何かを認識する余裕もない。私の目はカナに釘付けになっていた。

 それが正しいかを確かめる術はここにはない。だが、少なくともその答えに矛盾はなかった。常識や倫理観以外に、その仮定を阻むものは何もなかった。それを理由に疑問を持つ者は、ここには私以外にいなかった。

「アタシも同感。経験的にはアタリだと思うわ。流石、いい勘してるわねェ」

 乾いた音を立てて手を叩き、薫さんがそんなことを言っていた。カナの苦笑がさらに深くなる。

 言われてみれば、思い当たる節は幾つもあった。苗字のことも勿論そうだし、どことなく顔立ちも似ているところがあったような気がする。それに、小雪さんが店に来た直後のあの不安がり方。自分と時雨さんの仲に余程の後ろめたさがあったのなら、あれだけ取り乱すのも納得はいく。

 けれど、一方で信じられない思いも強かった。兄妹で、恋人。そこに感じる強烈な矛盾、許されるはずがないという当然の認識を、私はどうしても覆せない。

 自分独りが取り残されるような感覚が嫌で、私は慌てて口を開いた。

「ちょ、ちょっと待ってくださいっ。いくら『特区』でも、兄妹で結婚なんて……」

「えぇ、できないわヨ」

 私が最後まで言い切れず途切れてしまった言葉を、薫さんは悠々と頷きながら補完した。同時に向けられるのは、憐憫にも似た眼光だ。竦み上がる私に、カナがそっと声をかけてくる。

「サラ。初めて『特区』に来た日に話したこと、覚えてない?」

 そう言われてから思い当たるまで、少し時間を要した。気づいた瞬間、思考が凍りつく。

 無意識に息すら止めて硬直した私の姿を見て、私が思い出したことに気づいたか、或いは何も思い出せなかったと思ったのか、カナはやはり静かな、湖の水面を思わせる声で囁く。

「本人たちが恋人だって思ってるなら、それは誰にも否定できないんだよ」

「……けど、だからって……」

 認めたくない。唇を噛んで、私は俯いた。

 認めたくない。認めてしまえばそれは、自分たちがそんな人たちと一緒だと認めることになってしまう。だから、どうしても認められない。

――あそこは犯罪者の巣窟だ

 そんな言葉が蘇る。誰に言われたのだったか。ああそうだ、父が言っていた。彼の言葉が正しかったなんて思いたくはない。だけど、これは――

「たとえ結婚はできなくても、恋人だって認めてもらえることが、あのコたちにはそれだけ魅力的だったんでしょ。よくあるとは言わないケド、ない話じゃないわ」

 薫さんの声が聞こえる。足元がぐらりと揺れる感覚がした。

 膝から力が抜けていた。くずおれかけた身体がそのとき、カナに抱き留められる。有無を言わさず私の腰と背中に腕を回したカナは、がっちりと私の身体を押さえ、倒れないようにしてくれた。

 今日一番の熱い抱擁。なのに、私はそれを喜べずにいた。カナから伝わってくる熱も、柔らかさも、まるで間に壁があるような感覚だ。

 そもそも抱き留められる前から、カナがもっと遠くにいるような気分でいた。ちょっと手を伸ばせば届く場所にいると思えなかった。今もなお残るその距離感が怖くなって、私はカナを抱き返す腕に力を込めた。

「サラ?」

 戸惑った声。私は構わずカナに縋りついた。胸が潰れ、脚が絡む。

 それでも、カナの存在は遠いままだった。

「……アナタたち、今日はもう帰りなさい」

 私たち、というよりは私の様子に、何か感じるものがあったのだろう。薫さんがそう告げた。

「ちゃんと休んで、また明日来て頂戴。忙しくなるわよォ」

 気遣うような穏やかな声で、それでも発破をかけるのは忘れない。カナが彼に頷く気配がする一方、私はカナに縋りついたまま動けなかった。

 ふと思い出した。カナが時雨さんと小雪さんを「兄妹だ」と言ったとき、私は何かを取り落としたような気がしていた。けど、何かが落ちるような音を聞いた覚えはない。

 あのとき私が手放したのは、カナの手だったんじゃないだろうか。

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