4-3 新生活の準備をしよう

「さて、と……」

 家に着いた私たちは遅めの朝食を摂る傍ら、例の『特区』に関する冊子を見下ろしていた。これからの生活を考えるに当たって、欲しい情報を探すためだ。

「日用品とか家具とか、どこで買えるんだろうねぇ」

 のほほんとした口調ではあるが、軽く眉根を寄せた表情からは、必要十分の緊張感が感じられる。どこかにそういう場所があることは間違いないのだから、確かに不安になり過ぎるのも良くない。とはいえ、現状は最低限のものさえ揃っているとは言い難い。今日中にある程度の目途は付けておきたいとなると、あまり余裕がないことも事実だ。

 この冊子に今少しの良心があれば、そういった新米『特区』住人向けの情報は載せていて然るべきだろう。が、文字は小さいものの厚さは大したことのない冊子を十分以上かけて精査した結果、悲しいかな、他に分かったのはせいぜいバスの路線図くらいだった。時刻表すらない。

 思わず渋い顔になってしまう。腕を組んで顔を上げた私は、苦笑を浮かべたカナと目を合わせ、

「早速で申し訳ないけど、これは大河内さんに頼るしかないかな。せめてちょっとした情報だけでも」

「わたしもそれがいいと思うわ。多分大河内さんの方も、そういう質問されることは想定してるんじゃないかなぁ?」

 どうやら考えることは同じだったらしい。小気味の良い一致に、自然と微笑みが零れる。

 そしてさらに折よく、外のドアを控え目にノックする音が届いた。直感的に大河内さんのような気がした。カナも私と同時に立ち上がり、玄関まで歩いてくる。魚眼レンズ越しに外を見ると、予想通りの姿がそこにあった。

「おはようございます、大河内さん」

 チェーンを外してドアを開け、挨拶する。大河内さんは昨晩と同じ、温厚そうな笑みを湛えてそこに立っていた。ただ、幾らか気まずそうに眉を下げ、手にした何かを私たちの方へ差し出す。

「おはよう、済まないね、朝から突然」

「いえ、そんなことはないですけど」

 確かに昨日も終始丁寧な印象はあったが、それにしても今日はまた一段と腰が低い。不思議に思いつつ、私は彼が手にしたものに目を落とした。

「これは何です?」

 一見して何か分からず、ついそう口にしてしまう。私の肩越しに見ていたカナも首を傾げる気配がした。

 大河内さんが持っていたのはコピー紙の束だ。私がそれを手に取ると、大河内さんは紙を手放して私の問いに答える。

「一つはバスの路線図と、各停留所の時刻表。あった方が便利だろうと思って。それともう一つは、どういうものがどこで買えるかのリストだよ」

「!」

 驚きのあまり、無言で目を見開いてしまった。カナも背後で息を呑む。あまりの間の良さに、これはどういうことかと思いもしたが、一方で大河内さんの表情は晴れないままだ。

 彼は苦笑を見せ、

「本当は昨日のうちに渡しておけばよかったのに、うっかりしてたよ」

 背中を丸める姿には、どことなく哀愁さえ漂っている。どうやらそのことを気にするあまり、ここまで申し訳なさそうにしているらしい。

「気にしないでください。わたしたちだって、ついさっきまでそんなことに気を回せる余裕なんてなかったですから」

「はい。むしろいいタイミングでしたよ。丁度、今後の生活に向けての準備について、大河内さんに相談したいと思ってたところだったんです」

 元気づけようとするカナの言葉。私もすかさずそれに続いた。一度瞬きした大河内さんは、少し顔色を良くして私たちをまじまじと見る。

「本当かい?」

 まるで子犬のような目で見上げてきた。背後に揺れる尻尾を幻視するような光景に笑い出しそうになっているカナを咄嗟に背中に隠し、私は一際大きい声で、

「勿論! それで早速なんですけど、家具とか日用品とか、どういうところで揃えるといいとかのお薦めってあります?」

 無論、今しがた受け取った資料にそういった内容の載っているのかもしれないが、聞いた方が早い。ついでに、頼りにしているアピールも兼ねていたのだが、流石に要らない気遣いだっただろうか。

――直前の表情を思い出すと、そうとも言い切れない気はしたが。

 私の問いかけに、果たして大河内さんは一転して晴れやかな顔で頷いた。

「あるよ。というより、そういう新生活需要に応えてくれるお店がある。東区だけどね」

 彼は答えながら、私の方に軽く手を差し出した。意図を汲んで、私は受け取ったばかりの資料を一旦返す。ぺらぺらと何枚かページをめくって、大河内さんはその中の一枚を私たちに示した。

「家具にキッチン用品、もちろん日用雑貨も。冷蔵庫みたいな一部の家電もある。質に拘らなければ衣類も扱ってるよ。色々ある分、あまりニッチな需要には応えてくれないけどね。通販もやってるし、そっちも便利だけど、特に家具類は一度実物を見て選ぶのを薦めるかな」

『へぇ~』

 大河内さんの説明に、私とカナは揃って感嘆の声を上げた。

 つい先ほどは『特区』の良心を求めたものだが、これはまさしくそうと言えるだろう。何件かの店を回ることを覚悟していただけに、その手間が省けるのは正直とても嬉しい。

 私たちの反応が良かったからだろう、大河内さんはさらに表情を緩めて肩の力を抜いた。紙の束を再び私の方へ手渡しながら、

「もし良ければだけど、今から行ってみるかい? 急ぎで欲しいものだけまずは買って、それ以外は見るだけ見てまた後日、ってこともできるし」

「ええっと……」

 申し出に、一瞬答えに窮してしまった。願ったり叶ったりな一方、あまりに虫が良過ぎて申し訳ない気持ちはやはりある。とはいえ、折角の気遣いに遠慮し過ぎてしまうのも逆に失礼かもしれない。特に、彼の立場や本人が口にした心意気を鑑みるのなら。

「じゃあ、お願いします。ね、カナ」

「うんっ」

 確認を取るように背後を振り返ると、カナも笑顔で首肯した。

「よし。じゃあ準備ができたら言ってくれ。車で待ってるから」

「分かりました。ちょっとだけ待って下さい」

 大河内さんにそう応え、私たちは一度家に引っ込んだ。

 とはいえ、持っていくものはあまり多くない。財布とキャッシュカードと携帯くらいのものだ。それらを手早く集めている最中、カナが安堵混じりの笑い声を漏らした。

 何事かと私が目を向けると、カナは嬉しそうに言う。

「順調なら、今晩にもサラの料理が食べれるなぁって」

「あぁ、そういうこと」

 カナの期待に、じわりと胸が熱くなった。私だって、少しでも自分たちの手で生活を作れるようになりたいところだ。料理はその最たるものでもある。

 とはいえ、そこまで楽観できるかはまだ分からない。

「そこまで上手くいくといいけどね。実際どうかしら、食材もどの程度自由に買えるか分からないし、調理器具も良いものがあるかどうか」

 率直に懸念を口にする。悲観ばかりする気はないし、拘り過ぎるつもりもないが、だからといって一切拘らないわけにもいかない。値段との相談になる部分もあるだろうが、さっきのコンビニのごとく足元を見た値段をつけられていたりしないか心配だ――

「包丁なら家から持ってきたよー。ほら」

「えっ」

 と、玄関に足を向けかけた私に、カナが妙なことを言ってきた。拍子抜けしながら振り返る私の目の前で、バッグの中に手を突っ込んで、がさごそと弄り回す。ほどなくして、彼女は薄いハードケースを誇らしげに掲げた。

 蓋を開けると、中には数本の包丁が。パッと見、真新しい質感だ。ひょっとしたら一度も使ったことさえ無いかもしれない。

「……どうしたの、これ?」

 色々と疑問が湧く中、とりあえずそう尋ねてみる。するとカナはどこか照れくさそうにしながら、

「いざってときに役立つかなぁ、って思って」

「いざ」

 一昨日から昨日にかけての逃避行に「いざというとき」という言葉を掛け合わせても、前向きな方向に包丁が役立ちそうな場面が一切思い浮かんでこないのだが。硬い口調でおうむ返しに呟く私の背中を、一筋の冷や汗が伝い落ちていく。

 内心の戦慄をどの程度感じ取ってくれたのかは分からないが、もう一度「えへへ」と笑って、カナはケースを閉じた。

「あっ、勿論サラが気に入ったのがあったら買ってもいいと思うけど。でもこれ、多分結構良いやつだよ。お母さんが通販で買って、一か月くらいそれっきりになってたの。あの人、使いもしない調理器具とか美容グッズとか、平気で高いもの揃えてたから」

 つらつらと説明するカナは、母親の話題に触れても以前のように表情を曇らせはしなかった。『特区』へ来たことでかつてのしがらみを気にせず済むようになったからか、死蔵していたとはいえ母の物をかっぱらってきた優越感からか、或いは私の元にちょっと立派な包丁を届けられたことが得意なのかもしれない。

 いずれにせよ、不思議なもので、カナがこうも嬉しそうに笑顔を見せてくれていると、それだけで不安が薄れていく。形の定まらない不安にやきもきするより、カナの笑顔を大事にしたかった。

「……ありがとう。じゃあ、有り難く使わせてもらうわ」

「美味しいもの、いっぱい作ってね」

 私のお礼に、カナは笑顔で返してきた。軽い足取りで私の隣に並び、袖を引いて促してくる。

 これ以上大河内さんを待たせるのも悪い。私はカナに頷き返して、ドアに向かった。

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