3-6 我慢の限界

「もし後から不具合に気づいたら、遠慮なく言ってよ。今日のところはお休み」

「ありがとうございます。お休みなさい」

「お休みなさい~」

 玄関まで大河内さんを見送って、小さく手を上げながらそう挨拶をして別れる。彼が出ていた扉が閉まり、少し待ってから鍵を閉めた。少し迷った末、チェーンロックも一応かける。

 途端、ここまで段階的に緩めてきた緊張の糸が音を立てて切れた。どっと疲労の波が押し寄せ、咄嗟に廊下の壁に手を伸ばして体を支える。気づけば脚も震えていた。我ながら情けない。声もなく苦笑が漏れる。

「サラ……」

 と、蚊の鳴くような声がしたかと思うと、背中に寄りかかる重さを感じる。危うく踏み止まった私はすぐに振り返れずにいたが、相手が誰かなんて疑う余地もない。

「カナ、どうしたの?」

 理由はともかく、頼られている確信があった。私はもう一度自分を鼓舞して、ゆっくりと振り返りながらカナの手を握った。俯く顔を、下から見上げるようにしながら名前を呼ぶ。

 カナは泣いていた。唇をキュッと結び、目尻から止めどなく流れ落ちる涙を拭おうともしない。何より印象的だったのは、その表情だ。

 安堵があり、不安があり、悲しみがあり、そしてそのいずれもが自分の手に余る大きさであることへの困惑があった。堰を切ったように噴き出した感情にもみくしゃにされたような、混沌とした泣き顔だった。

「あ……」

 そして、その感情は私にも伝播してきた。カナの泣き顔を見た瞬間、私も胸が熱くなり、壊れた蛇口のように涙が、嗚咽が漏れ始める。カナと手を取り合ったまま膝から崩れ落ち、私と一緒になってカナもへたり込んだ。

「……カナっ」

「うん……」

 廊下で膝立ちになったまま、私たちはどちらからともなく抱き合った。互いの肩に顔を埋めるようにして、大きな声で慟哭した。

 何かが大きく変わった実感、変わってしまった実感に、きっと私たちの心は押し潰されそうになっていた。それでも、初めて会う人たちを前に、弱みをみせまいと去勢を張っていた。でも、もうこの場には弱みを見せられない人はいない。自分の弱さを曝け出せる相手と二人きりになって、ようやく私たちは息苦しさから解放された。

 どれだけの間そうしていたか分からない。やがて涙も声も枯れた頃、私はゆっくりと顔を上げた。カナの方は私より先に立ち直っていたらしい。目元には涙の残滓を残し、それでも淡く微笑んで、私の目を覗き込む。

 そして私と目が合った瞬間、不意を突いて啄むようなキスをしてきた。

 短い接触にしばし放心した後、私はぼそりと、

「えっ、狡くない?」

「えへへ」

 狡いと評するのもどうかと思ったが、カナはカナでそれに抗議もせず、得意げに笑ってたりなんかする。はにかんだ笑顔で小首を傾げる姿は可愛らしいことこの上ないのだが、一方で何だか無性に腹立たしい。

 今までカナとキスをしたのは、僅かに二回。『特区』入りを決めてからは、以前にもまして人目を気にしていたせいもあって、一度もしていなかった。故に、『特区』入りを果たして最初のキスは特別なものだと、私もカナも暗黙のうちに承知しているものと思っていた。それがこんな不意打ちで、主導権を奪われてしまうなんて。

 先を越された悔しさはあった。私からもキスしてやりたい、とは思ったものの、カナからしたら予想外でも何でもないだろう。それでもすべきか、短い時間で黙考した。

 結局私は溜息を一つ。両脚に力を込めると、ちょっと前の脱力感が嘘のようにあっさり立ち上がることができた。カナを見下ろした私は、彼女に手を差し出して言う。

「はぁ……まあとにかく、いつまでも玄関で座り込んでるのも間抜けでしょ。一旦リビングに戻ろ」

 私の言葉に、カナはちょっとだけ残念そうに眉を下げてから、私の手を取って立ち上がる。そして背後を振り返り、リビングの白光に少しだけ目を細めた。

 一歩足を踏み出したところに、私は背中から柔らかく抱きついた。これには意表を突かれたらしい、カナは顔だけでこっちに振り返る。いや、振り返ろうとした。

 その顎が、私の頭に引っ掛かった。カナが目を瞠る。そのとき既に私は、目の前にあるカナの首筋に口づけていた。そのまま、真っ白な柔肌を強く吸い上げる。痛みにか快感にか、カナの鼻から甘い息が漏れた。

 少ししてから顔を離すと、そこには白い肌にくっきり映える朱色が。髪を下ろしたならともかく、いつものように後ろで纏めている限り、衆目から逃れることはできないだろう。

 肌に痕を残すのは初めてだ。まして、人目に触れる場所になんて、以前は考えもしなかった。それを今、カナに先駆けて実行した。

「ずる~い……」

「お互い様でしょ」

 恥ずかしさ半分、悔しさ半分といった風に赤らんだ顔で睨むカナに、してやったりと微笑んでみせる。私の腕から逃れ、私と正面から向き合うと、カナは膨れっ面で睨んできた。

「私だって、サラが私のものだって印付けたかったのに」

「やってもいいよ」

 私は幾分上機嫌で、自分の首筋を示した。『特区』へ来る前に纏めた髪はそのままだ。カナ以上に、邪魔になるものは少ない。

 カナがどんな反応を示すだろうと思っていた私だったが、果たして彼女はすぐに私の首にかぶりついてきた。驚く間もなく、肌が吸い上げられる感触。唇が触れた部分がじわりと熱くなる。

 ただの触れ合いとは違う、自分自身がカナに吸い込まれるような酩酊感が、私の意識を容赦なく蹂躙していった。心臓が唸りを上げて、体中が昂っていくのを感じずにはいられない。

 今まで満足に触れ合えなかった反動に加えて、張り詰めていた緊張が途切れたことを、ついさっきまざまざと自覚したことで、今度は愛情のやり取りに貪欲になっているのかもしれない。自分でも制御し切れない高揚に戸惑いを覚えつつも、それを決して嫌とは思えなかった。

「これ、すごいね」

 カナの唇が離れ、熱っぽい吐息に肌を擽られながら、私は呟いた。自分でも驚くほど蕩けた声だ。私に抱きついたカナがぶるりと身を震わせた。

 首筋にかかる息は荒く、彼女も同じように興奮していることが感じられる。それでもカナは、ぎこちない動作で私の身体を放した。

 熱病に冒されたような弱り切った表情で、カナは私を見ていた。

「ホントすごい。ぜんぜん治まんない……」

 トロンとした目が、爛々と妖しく光を放っている。焦点の合わない瞳は、何かを耐えているようにも見えた。

「ぜんぜん足りない。もっとサラが欲しい。もっともっと欲しい」

 我慢できない、という風に欲望を口にする一方で、自制するように手を強張らせている。片方の手で私のシャツの裾を摘まみながら、もう一方の手がその手を押さえこんでいる。相反する心情を瞳に移したカナは、まるで何かの選択を迫るように私を見ていた。

 彼女の口にするような欲は私にだってある。そんな気持ちを私に向けてくれるのも嬉しいと思う。それでも、私はカナとの距離を詰めないまま、その両手をそっと握った。

「私だって、カナともっと色んなことしたい。これまで私もカナも、ずっと我慢してきたから。だけどカナ、私たち、そんなに焦らなくってもいいと思う。だってこれから沢山、沢山時間があるのよ」

 自分の両手で包んだカナの手を、自分の胸元に引き寄せる。ともすれば、カナの劣情をいっそう煽りかねないことは分かっていた。だけど同時に、私の言葉が届くはずだという確信もあった。

 色とりどりの感情が揺れるカナの瞳は、まるでシャボン玉のようだ。綺麗であり、同じく脆さを感じさせるカナの目に自分の視線を重ねて、私は続けた。

「私は大事にしたいな。カナと一緒に手に入れた『特区』での時間も、カナ自身のことも。もっとずっと時間をかけて、その分沢山愛したい」

 握った手が痙攣する。カナの表情が揺れ、驚いたように私を見る。

「だから、今は我慢できない?」

 締めくくるように懇願。逃げ場を奪うように、私の視線がカナを絡めとる。

 色々な感情が胸の内で暴れているようだ。カナはすぐには答えず、小刻みに眉や口の端を震わせていた。それでもやがて、カナはあらゆる鬱屈した感情を吐き出すように大きく溜息をついて、

「……じゃあ、一つだけお願い聞いて?」

「うん。いいわよ」

「今日、一緒に寝たい」

 小さな声で恥ずかしそうに、そんな願望を口にしてきた。聞いていたこっちまで照れてしまうような姿だ。予期せず言葉に詰まってしまう。もつれそうになる舌を、私はどうにか動かして言葉を紡いだ。

「ふ、布団、汚しちゃ駄目よ」

「だ、大丈夫。我慢する……」

 大河内さんの発言が咄嗟に思い浮かぶ。私の問いに、ちょっぴり頼りない返事が返ってきた。

 本当に大丈夫だろうか――と、カナだけでなく、自分自身にも問うてみる。自分のすぐ隣、一緒の布団の中にカナがいる、その光景を想像してみる。少し考えて結論が出た。

 もう一度真剣に理性の帯を締め直さないと、大丈夫ではなさそうだ。

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