Interlude02 正樹と日向の場合(前)

 時間になっても、上杉たちは姿を現さなかった。

 いくら連絡してもあいつらから返事はなく、仕方なく俺と雛見は、二人だけで神社の集合場所へ向かった。当然先生たちは声を荒げて俺たちを叱った。ただ、その場では一言二言文句を言われただけだ。もう半分の当事者でもある上杉たちが揃ってから、本格的に説教を垂れるつもりだったんだろう。

 けど、十分待っても二十分待っても、上杉たちは現れなかった。連絡すらなかった。近隣を探し回っていた先生たちも、その姿を捉えることはできなかった。

 生徒たちも騒然としていたし、先生たちの焦りようはそれ以上だった。警察にも早々に相談していたらしく、やがて神社には警官らしい人が現れた。その時点で、何人かの先生と、同じ班を組んでいた俺と雛見以外の生徒は、ホテルへと帰っていった。

 上杉たちと別れるに至った状況の説明や、行き先に心当たりがないかなどの受け答えをしているうちに日没となった。その直後のことである。

 上杉からメッセージが届いた。

 その内容は至極簡潔に、

『カナと『特区』へ行きます。今までありがとう』

 それを確認した直後には、警察はほぼ撤収の準備に入っていた。先生たちが警官たちに尋ねつつ、『特区』への入居者確認手続きを行っていたが、回答まで少しかかるらしい。一方で俺たちはすぐさまメッセージに対する返信を送ったが、既読マークはつかなかった。

 結局、正式な回答があるまで明確な判断は保留しつつも、二人は『特区』へ行ったものとして扱うことがほぼ決定したようだった。俺たちは先生たちと一緒にホテルへと戻り、さらにそこで、他の生徒たちとは別の部屋に呼び出された。

 どうせ、俺たちの勝手な行動を改めて咎めるつもりだろう。考えてみれば、修学旅行中に生徒が『特区』入りを果たしてしまったのだ。学校としてはこの上ない醜聞だろうし、その責任を俺たちに求めるのは至極当然といえる。

 もっとも、『特区』へ向かうという確固たる意志が初めから存在したのなら、俺たちに阻止する余地があったのかは疑問だが。

「失礼します」

 指定された部屋のドアをノックして、一声かけながら開ける。俺の後ろに雛見も続いた。

 入って気づいたが、俺たちが泊まっていた部屋とは違って、そこは小さな和室だった。決して広くはない部屋の中央に低いテーブルがあって、手前には二人分の座布団。そして奥側には担任である坂本が座していた。

「座れ」

 俺たちの姿を認め、坂本は短く告げた。気難しげな顔つきはいつも通りだが、意外にもその声音は落ち着いている。命じられるまま、俺は座布団に正座した。隣に雛見も腰を下ろす。

 俯きっぱなしで足取りも覚束ない雛見の姿は、明らかに落ち込んでいる様子だ。坂本も痛ましそうに雛見を見た後、俺の方へその目を移す。俺も坂本の方へ顔を向けてはいたが、正直、いつものように反発する気力はない。雛見よりは少しマシ程度にしか見えなかっただろう。

「栄生。班行動の最中に勝手に別行動することが、規則違反だったことは理解しているな?」

 おもむろに坂本が言う。予想していた言葉だった。ただ、その口調は不思議と穏やかだった。強い詰問であったなら、神妙に「はい」と頷いただろうが、俺は驚きのあまり目を瞬いてから、

「はぁ……」

 と我ながら間の抜けた返事をしてしまった。

 それでも、坂本が怒る気配はない。彼は相変わらず不愛想な面構えで、砂を噛んだようにむっつりと俺たちを睨んでいた。

 やがて坂本は溜息を一つついて、

「分かっていればいい」

 と告げた後、俺と雛見を――主に落胆の深い雛見の方に注意を向けながら、

「あまり、気に病むな」

 と付け加えた。

「……怒ってないんスか、俺たちのこと」

 鼻白みながら、俺は思わずそう問い質していた。

 生徒が『特区』へ入ったことは学校の醜聞、とさっきは言ったが、さらに言うなら担任である坂本に向けられる批難は一際大きいものになるだろう。当事者である俺たちに対して、内心穏やかならざる思いがあるのでは、と勘繰ってしまう。

 果たして坂本は、小さく肩を上下させて視線を下げる。苦笑とも自嘲ともとれる表情は、いつものゴツい彼の印象からは程遠かった。

「誰かがどうにかできた問題だとは思えんな」

 気のせいだろうか、言下に「それでも誰かが責任を取らねばならない」と含んでいるように聞こえたのは。

 苦い顔で押し黙る俺と無言で俯く雛見の前に、坂本は唐突にルームキーを置いた。どういうことなのか分からず顔を上げる俺へと、坂本は細い目を向けて、無言の問いに答える。

「栄生はこの部屋を、雛見は隣の部屋を使え。荷物は後で、俺と尼ヶ崎先生が届ける。夕食も部屋まで運んでもらえるよう頼んでみる」

「いや、何でそんな……」

 いきなりそんなことを言われて、困惑するなという方が無理だろう。尋ねようとする俺だったが、坂本は皆まで言うより早く、

「今他の生徒に会えば、色々と問い詰められることになりかねん。落ち着くまでに時間は必要だろう?」

 そう言って、俺たちを残したまま腰を上げた。

「お前たちは悪くない。少なくとも、上杉と小鳥遊が『特区』へ行ったということに関してはな」

 気遣うように、坂本が囁くような声音で告げた。

 胃の辺りが重たくなるような感覚。咄嗟に俺は目を伏せ、唇を噛む。俺のそんな反応を見てどう思ったのか、坂本は小さく鼻を鳴らして歩き出した。恐らくは本人が言った通り、尼ヶ崎先生と二人で俺たちの荷物を回収したり、食事をこっちへ運んでもらえるよう手配しに行くのだろう。

「……坂本先生」

 そんな坂本の背に、これまでずっと黙っていた雛見が呼びかけた。ぼそりと低く抑揚のない声に、坂本は足を止めてゆっくりと振り返る。俺も、少し驚いて横を見ていた。

「しばらく、正樹と二人で話をさせてください」

 まるで予想していなかった台詞に、俺は訝る心情も露わに顔を歪めた。坂本も幾らか動揺したようではあったが、何か思うところがあったらしい。

「どのみちしばらくかかる。その間に話したらいい」

 そう言い残して、部屋を後にした。

 足音が遠ざかり、無音の時間が訪れる。俺の隣で雛見は未だ俯いたまま、茫洋とした眼差しを机に落としていた。

 こいつが何を話したがっているのか、俺には分からなかった。こちらから水を向ける気にもならず、時折雛見の横顔を盗み見ては、居心地の悪さに辟易するより他になかった。そんな時間が終わりを告げたのは、坂本が消えて一分以上経ってからのことだった。

「なんで……」

「あん?」

 ぼそりと雛見が漏らした声に、俺はつい剣呑な相槌を打ってしまった。焦らされた分、自分でも意識しないうちにストレスが溜まっていたのかもしれない。

 次の瞬間、雛見がキッと俺の方へ振り向いた。鋭く絞られた双眸には涙が浮いていた。思わず怯んだ俺の顔面に、雛見は躊躇なく平手を叩き込んだ。乾いた音と、ひりつくような痛み。完全に不意打ちだった。

 頬を張られてかしいだ俺の身体に、雛見の手が伸びる。俺の胸倉を掴み、引っ張り寄せると、こいつは怒りの形相で俺の目を覗き込んできた。

「何で止めなかったんだよ。知ってたんだろ!」

 いきなりそんなことを言ってきた。白けた目で、俺は雛見を見つめ返す。

「何言ってんだお前。俺が何を知ってたってんだよ」

「惚けんな!!」

 苛立ち混じりに俺が言い返しても、雛見は聞く耳を持たなかった。

「ねぇ、どうしてっ。カナちゃんも紗良ちゃんも最初から決めてて、正樹もそれを分かってたんだろっ。分かってたから二人と合流しようとしなかったんだろ!?」

「どういう言いがかりだテメェ。いい加減にしろっ」

「三人はどうなるか知ってて、ボクだけ知らなかったなんて……何にも知らずに、ボク一人だけ馬鹿みたいに浮かれて、こんなの酷いじゃないか! ねえ、何で止めなかったの!?」

 俺が制止しても、雛見は頑として俺が知っていたと主張するばかりだ。ぐいぐいと胸倉を掴んで引っ張られ続けて、咄嗟に俺の手も雛見に掴みかかっていた。

 俺がされているのと同じように、セーラー服の胸元を捉えて引っ張る。途端に開いた首元から露わになる肌。もう少し視線を下げたら、下着まで見えてしまうかもしれない。そんな状況下でしかし、俺は羞恥心を働かせる余裕すら失っていた。

 烈火の眼差しから涙をぼろぼろ零しつつ、自分の格好を気にする素振りさえなく、雛見は半ば叫ぶように言った。


「好きだったくせに! 紗良ちゃんのこと、好きだったくせにッ!!」


「……は」

 変な笑いが口を突いて出た。

 雛見は言い終えた直後には力を失い、俺から手を放していた。俺の方も一気に気が抜けて、セーラー服を手放している。

 直前までの怒りで頬を紅潮させた雛見は、今や気力を使い果たしたかのように、生気のない顔でへたり込んでいる。乱れた服を直そうという様子さえない。普段なら決して似合わない色っぽさが、このときばかりは仄かに薫っていた。

 だけど、そんなことはどうでもいい。何で。好きだったくせに。その二つの言葉が胸に刺さって、何度も何度もがなり立てる。

 俺は知っていたのか。

――ああ、知っていた

 俺は上杉を好きだったのか。

――ああ、好きだった

 全部、雛見の言う通りだ。こいつはどの程度確信を持っていたのか知らないが、確かにそれらの指摘は全て正鵠を射ていた。

 勝手に唇が曲がる。乾いた声が漏れる。

「そうだな……」

 その声が自分のものでないような錯覚。眼前の雛見を睨んでいるのも、暴れそうになる拳を押さえているのも、愕然とした雛見の視線を受け止めているのも、全て俺じゃない誰かのような気さえしていた。

 力が抜ける。肩が落ちる。何かが、或いは何もかもがどうでもよくなった気分で、俺は言葉を吐き出した。

「好きだったんだろうな、あいつのこと」

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