第七章 激戦

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 JRけいようかいひんまくはり駅で下車をした。


 人込みや、不慣れな都会的雰囲気の不安の中、わらみなみ高校女子フットサル部の部員たちは、どうにかこうにか駅構内の出口まで辿り着くと、ICカード定期券をかざし、自動改札を抜けた。


「ついに来たぞ、幕張!」


 部長のやまゆうは、迷惑なくらい大きな声で雄叫びを上げた。


 女子部であるが、男性も一人。

 今日はオジイこと顧問のきたおか先生が、この遠征を引率しているのだ。


 男子部が二敗一分で予選敗退したおかげで手が空いたということもあるが、一番の理由としては、成田での地区予選でゆうが倒れてしまったことだろう。


 引率、といっても、とりあえずついて来ているというだけで、いてもいなくても実質のところなんら変わるものではなかったが。


 ここは幕張埋立地。

 とり市と違って、海に面した街だ。


 いま立っている場所から徒歩数分で海だ。

 だというのに裕子には、佐原以上に潮の匂いを感じない。


 周囲が人工建造物ばかりで、その匂いに消されてしまっているからだろうか。

 実際、香取市近郊に慣れていると、ここは高層建築物に囲まれており、まるで大都会である。


 同じ千葉県なのに、こうも違うものなんだなあ。当たり前といえば当たり前のことなのだが、裕子はしみじみとそう感じていた。


 都会的とはいうものの、グレー一色といった広大で人工的な景色は、通る人間の少なさもあって寂しい感じ。


 催し物で賑わう街であるため、当日の催事内容により混雑具合が相当に異なるのだ。

 まだ朝九時前だからというのもあるが、イルミネーションスポットとおぼしき風景も、なんだか冷めた、味気ない感じに思える。


 でも、この幕張でこれから、熱い戦いが始まるのだ。


 一行の先頭に立つ裕子は、力強く拳を握った。


 拳を握ったまま、目の前の道路を通り過ぎていく無数の自動車の流れを見つめている。


 裕子は首を右に左に向けると、また視線を正面へと向けた。

 頭をかいた。

 ふー、っとため息をつくと、今度は尻をかいた。

 もう一回、ため息をついた。


「王子さあ、ひょっとして、体育館へのいきかた、分かってないだろ」


 たけあきらが、疑惑の表情を裕子へと向ける。


 裕子は、くるり晶の方へ向くと、笑顔で自信満々に頷いた。


「なんだよ、任せとけなんていっといて。まったくもう。分かってたら、あたしが調べたてたのに」

「いや、だいたいの位置は頭に入れて来たつもりだったけど、こんな高い建物びっしりと思ってなかったから」

「幕張が田んぼだらけだとでも思ってたって? なにが、あたし小学生までハマっ子だったから、だよ」

「横浜の山奥だったし」


 東京どころか横浜駅にすら、ほとんどいったことがない。


「はいはい、分かった分かった」

「バカにしやがって、くそ、ムカつくな。ジャガイモ顔のくせに。北岡先生、知りませんよねぇ」


 裕子は北岡先生に擦り寄った。

 こう聞いたけど、まさか調べてないわけないだろう。


「知らん。自分たちで調べて行動するのも社会勉強というものだよ。ただ試合のための部にあらず、ただ試合のための遠征にあらず」


 屁理屈いってんなよこのジジイ! 引率役ならしっかり引率しろや! 裕子はそう思ったが、もちろん口には出さなかった。いや、少しくらい漏れてしまったかも。


「駅に周辺案内板あるでしょ、それで探そうよ、春奈、サジ。うちの部長様じゃあ役に立たん」


 と、晶は案内を探しはじめる。

 佐治ケ江も、晶のいう通り案内を見つけようと、くるり後ろを振り返った。そして、


「晶、あれ……」

「見つけた?」

「そうじゃなくて」


 晶も振り返り、佐治ケ江の視線の先を追った。


 駅の改札を抜けて出て来た、白いジャージ姿の女子生徒たちの姿があった。みな、大きなスポーツバッグを肩にかけている。


 関サル優勝候補といわれている、千葉県立ひがし高校の部員たちだ。

 引率の女性教師とともに、こちらへと歩いて来る。


 何度か練習試合を行ったこともあり、佐原南の部員たちは、彼女らの顔をよく覚えていた。


「王子」


 晶は裕子に声をかけた。


 裕子も気付いていたようで、我孫子東の部員たちへと真っ直ぐ視線を向けていた。


「分かってる。対戦すっか分からないけど、挨拶しとかなきゃ」


 我孫子東の部員たちが、ゆっくりとこちらへ近付いてくる。


 裕子たち佐原南の部員たちは、千葉屈指のエリート集団の姿を無言で見つめていた。


 裕子は、まったく見た記憶のない顔が一人いるのに気が付いた。

 主力級の二年なら、まず顔を知っているはずだから、おそらく一年生だろう。


 背は小さく、痩せていて、童顔。

 肩までの、緩くウエーブのかかった髪の毛がなければ、可愛い顔をした小学生の男の子のようにも見える。

 不敵、と思われてもおかしくない、明らかな笑みを浮かべている。こちらに気付いてから浮かべた笑みなのかは、分からないが。


 先頭に立っているのが、主将の中島祥子だ。

 裕子たちに気付いたようで、軽い会釈をしてきた。


 中島祥子と山野裕子は、向かい合い、いくつか言葉をかわし合った。


「もし当たることになったら、その時はお手柔らかにね」


 中島祥子の、これは社交辞令であろうか。


 我孫子東相手に手柔らかに挑んだ日には、何百失点するか分かったものではないからだ。


「きっと、いい試合になるよ」


 裕子は社交辞令に対して、強がりとも本心とも取れない、他人からは胸中を計りにくい言葉を返した。


 二人は握手した。


 と、その瞬間である。

 先ほどの背の小さな、一年生と思われる部員が、ぷっと吹き出していた。

 いい試合になる、という言葉に反応したのだろうが、裕子は別に気にしなかった。


 我孫子東の部員たちは、また、それぞれに小さく会釈しながら、会場に向けて歩いていった。


「王子、随分の余裕発言じゃんかよ」


 晶は、裕子の背中を肘でつついた。


「いや、勝ち負けは分からんけど……つうか、こっちが虐殺される可能性が圧倒的に高いとは思うけど、でも、思い出に残る、いい試合にはなるよ。きっとね」


 そう。いい思い出にしなきゃいけないんだ。サジのためにも。


 裕子は思った。


 だって、サジと一緒に戦えるのは、たぶんもう……


「なんだかさあ、こうして優勝候補とばったり会っちゃうと、現実味が出てきて緊張感が増すね。決勝大会なんだあって」


 と、きぬがさはるの言葉である。

 緊張といいながらも、しのと二人、無邪気そうな顔で笑いながら話している。

 これがこの二人なりの、気持ちの高めかたなのだろう。


「当たるなら決勝でか。最高に盛り上がるね」


 かじはなが、隣の生山里子に語り掛ける。


「そう? あたしは最初っから気分はクライマックスだからなあ。常に盛り上がっているから、決勝とか関係ない」


 にべなく返される花香。


「徐々に盛り上がって、ずばーんと、どかーんと爆発するのがいいのに。もったいない」

「もったいないもなにも、決勝までいかなきゃ意味ないでしょ。やることは一つ」

「そうだけどさあ」


 地区予選はリーグ戦方式だったが、この決勝大会からはトーナメント方式である。

 ブロックが別れているため、花香のいう通り、佐原南と我孫子東が当たるとすれば、お互い勝ち上がった最後の試合、つまり決勝戦以外にない。


 我孫子東とは、練習試合での手合わせ経験はあるものの、公式戦ではまだ一度もない。


 春奈ら部員たちが、それぞれに戦意を高めている中、裕子は一人静かだった。

 目標とすべき、遥か彼方の存在だった我孫子東であるが、自分たちが決勝大会という舞台へと進んだことにより、なんだか、あとちょっとで手の届きそうな位置まで来た気がする。と、感慨に浸っていたのである。


「ね、王子。あとを追おうよ。せっかくだから、道案内してもらおうよ」


 という晶の言葉に、裕子ははっと現実に戻った。

 そうだった、会場までどういけばいいか分からず立ち往生していたのだった。


「確かに、向かう先は同じなんだからな。ジャガイモみたいな顔なのに、よく気付いた」

「王子が間抜けなんだよ。それに顔は関係ないだろ。さ、いくよみんな」


 晶の提案に、みんなあたふたとバッグを拾い上げ、すっかり小さくなった我孫子東フットサル部員たちの背中を早歩きで追いかけはじめた。


 若者の早足についていかれず、北岡先生がどんどん引き離されていく。佐治ケ江が気付いて、一人残って先生を引率してあげている。


 篠亜由美が、早足でぼやいている。


「我孫子東って、やっぱり凄く貫禄があるけどさあ、さすが強豪というべきか、高校生のくせに妙に落ち着いていて大人っつうかさあ。でも、さっきのあいつ、あの、ひさ先輩よりもちっちゃそうな奴、なんかふてぶてしい感じでちょっと腹立ったよ。仏のあたしも、さすがに。特に、ずっとサジのこと見てニヤニヤ笑っててさあ。王子の言葉に吹き出したりなんかしちゃったりしてさあ。わざとあんな態度とって、心理戦に持ち込もうとしてんだよ、きっと。チビで自分に自信がないもんだから。久樹先輩よりチビなもんだからさあ。補欠じゃないの、どうせ。ああ、そんなのに舐められてほんと腹立たしい。で、王子、誰よあいつ」


 篠亜由美は、重い荷物を持って早歩きをしているのであるが、しかし足以上に舌のほうがまあ遥かによく回ること回ること。


 その質問を受けて、裕子は苦笑した。


「補欠どこじゃないよ。背番号を見てみないとはっきりとは分からないけど、多分、はやしばらかなえ、前の部長の妹だよ。まだ一年生だけど、秘めている能力は半端じゃないってさ。久樹先輩みたく自分のちっちゃなことを徹底的に利用して、ちょこまか素早く動くし、意外に馬力もあるし、ボール扱いもムチャクチャ上手だし、試合でのかけひきも上手。でも性格が悪くて和を乱すとこがあるから、姉ちゃんには徹底的に嫌われていた。って、先輩のお友達情報」


 裕子はすらすらと答えた。

 今日、対戦する可能性のある相手の入手出来たデータについては、完全に頭の中に入れてあるのだ。


 勉強もそれくらいやればいいのに、とよく晶にいわれるが、人間向き不向きがあるのだ。


「ええっ、そうなんだあ。うへえ、そんなのが出てきたら嫌だなあ。いまの部長にも嫌われまくってて、ずっとベンチにいればいいのに」

「そんな気にしなくていいよ。どの選手も同じくらい凄いから」


 裕子のさらりという一言に亜由美は、むむ、と複雑な表情を浮かべた。


「一年生で実力あるけども性格悪くて和を乱す、って、うちにもいるよね。誰とはいわないけど」


 と、なしもとさきがみんなに聞こえるような声でいった。


「そこまで自己分析出来てるんならその性格、直せばいいのに。ねえ、花香」


 生山里子は、隣を歩く梶尾花香に、バカでっかいヒソヒソ声で耳打ちをした。


 咲がむっとした顔で、また口を開きかけたとき、


 突然ビルとビルの間から、大きな建物の屋根が姿を見せた。

 試合会場である体育館だ。


「なんだ、すぐじゃん!」

「ほんと役に立たない部長だよなあ。いるだけ番長だよ」

「王子先輩を責めるのやめましょうよ。先輩信じてたあたしたちが救いようのないバカだっただけなんだから」


 などとボロクソいわれた裕子は、だんと地を蹴りながらぎゅっと拳を握って、怒りの形相。


「晶、亜由美、里子、てめえら、ちょっと道が分からなかった程度で、いいたい放題好き勝手抜かしやがって。だいたい今日はオジイがいるだろが! あたしにばっか頼ってんじゃねえよ!」


 顧問の先生をついあだ名で叫んでしまい、慌てて口をおさえた。

 やべっ、と後ろを振り返ると、北岡先生は信号待ちの間に追いついて来たようで佐治ケ江に誘導されながら数メートルほどの距離にまで近づいて来ていた。しかし、いわれた本人は、まったく気付いていないようで、裕子はほっと安堵の一息。


「頼るなもなにも、あんたが、あたしに任せなさいって胸を張って自ら役割を買って出たんでしょうが。貧弱な胸を張ってさあ」


 と、晶の呆れ顔に、裕子は再び激高。


「おっぱい貧弱なのと今回の件となんの関係もねーだろ! お前の胸だって、あたしよりはマシだけど、そんなたいしたことないじゃんかよ、バーカ! いわれて悔しいならぶるんぶるん揺すってみやがれ!」


 ツバを飛ばしまくる祐子に、晶はますます呆れ顔に。


「……なにどうでもいいとこでムキになってんだか。なっさけない部長」

「副部長も、ほんと大変だねえ」


 亜由美は、同情したように晶の肩に手を置いた。


「せんせえ~~、女子たちがいじめますうう」


 裕子は目を潤ませ後ろを振り返ると、先生の方へ向かって走り出したのであった。


 さて、一行はさらにビルの間を三分ほど歩き、千葉県国際グラウンドへ到着した。


 様々なスポーツ施設が存在する、海沿いの広大な敷地だ。


 この敷地の中に、先ほどから屋根が見えていた千葉国際アリーナという体育館がある。

 遠くから眺めていた時には、とてつもなく巨大な体育館に見えたが、実際には西館と東館、双子のように対になった二つの建物だ。


 裕子たちが地区予選を行なった成田市立山陽台中央公園第一体育館よりも、遥かに近代的といった外観だ。実際は、こちらの方が十年ほど古いらしいが。


 それぞれ、二階観客席は二千五百席。


 バレーボールやバスケットなどの大会でよく利用されている施設だ。


 この西館と東館、二つの体育館を使って、これから関東高校生フットサル大会の千葉県決勝大会が行われるのだ。


     2

 ゆうたちは、体育館の東館へと入った。

 事務室が東館にあり、参加校は全てここで手続きを行う必要があるのだ。


 なお佐原南は、試合自体も東館で行なう。

 もしも最後である第三戦まで進めた場合にだけ、西館を使うことになる。


 二階観客席には、すでに結構な人が座っている。

 三百人以上は、いるのではないか。


 収容人数二千五百人なので、かなりまばらであり、プロスポーツの興行しか見たことない者には少なく思えるかも知れない。


 しかし、女子高校生のフットサル大会ということを考えれば、三百人は相当な人数だ。

 成田での地区予選のときなど、二十人ほどしかいなかったが、裕子はそれでも多いなと思ったくらいだ。


 裕子は、中学時代ソフトボール部にいた頃に、県大会決勝でこのくらいのギャラリーの前で試合をしたことがあるが、それ以外では初めての経験だ。

 おそらく、うちの部員全員が初めての経験なのではないだろうか。


 さすがに決勝大会ともなると、注目度が違うということなのだろう。


 開会式もまだなのに、既にしてこの人数である。試合開始までにはもっと増えるだろう。


 裕子ときたおか先生は、係の人を探して事務室の場所を聞いて、手続きを行なった。


 手続きを終えて戻ってくると、既に部員たちは全員ジャージを脱いでユニフォーム姿になって、それぞれにストレッチを行なっていた。


 裕子もジャージを脱いだ。


 シャツ、パンツ、ソックス、全て深い青色、これが佐原南のユニフォームだ。


 列になってストレッチを行っている佐原南の選手たち。

 その中で、真砂まさごしげは、隣にいるしのの袖を引っ張った。


「なに?」


 亜由美は眉を寄せ、茂美に顔を寄せる。


 茂美は、あれあれ、とばかり、無言で二階にある客席を指さした。

 その指の示す先には、フットサル部の先輩であるむらが座っていた。ブラウスに長いスカート。こざっぱりと、おしゃれに着こなしている。

 かわいい後輩たちの成長を見にきたのだろう。


 亜由美がぶんぶんと大きく腕を振ると、梨乃も小さく手を振り返してきた。


「なになに? お、梨乃先輩じゃん」


 裕子は梨乃の方を向いて、袖をまくって力こぶを見せ付けるようにガッツポーズを作った。

 続いて、いきなり股を広げてコマネチのポーズ。

 二発、三発、と素早くシャカシャカ連続しているところ、たけあきらに後ろ頭を容赦なくぶん殴られた。


「痛いわねえ、もう! おバカになったらどうしてくれるのよ! ……梨乃先輩、受験終わったのかな。試験早いっていってたもんな」

「まだでしょ。十一月だし。決勝大会だから、勉強の合間をぬって時間作って応援に来てくれたんだよ」

「そっか。おうおう、可愛らしく手なんか振っちゃってさあ。あのガサツで凶暴な木村の梨乃ちゃんが、まあ色っぽくなったもんだよね」

「オヤジか、お前は。でも、確かに性格、変わったよね。明るくなったというか」

「まあ根暗なお前からすれば、誰もが眩しいくらいなんだろうけどね。いや、梨乃先輩はもともと明るくはあったんだけど、ギスギスしたところも結構あったんだよ。それが最近すっかり抜けたんだな。なんか、女の子っぽくなった」

「そうそう、女の子っぽくなった。私服姿ほとんど見たことないからよくは分からないけど、でもなんか、おしゃれになった気がするよね」

「そりゃ、彼氏もいるんだし、オシャレにもなるでしょ。って、晶、何様だお前コラ。せっかく応援に来てくれた先輩つかまえてさっきから好き勝手、ガサツだなんだって」

「王子がいい出したんじゃないか!」


 などという二人の漫才もやがて落ち着いて、選手一同ウォーミングアップを始めようとした時であった。

 けたたましい声が場内に轟いたのは。


づき! 頑張れよ! 葉月~! そして、佐原南のみなさん! ファイト五百ぱああああつ!」


 みんなびっくりして、声のする方を見てしまう。

 二階観客席、梨乃の座っているそれほど遠くないところで、づきのお父さんが「佐原南」と書かれた大きな旗をぶんぶんと振り回している。


「葉月ィ!」


 旗を置いて、足元の太鼓を手に取って、バチで叩き始める。


 ドドンドドンドン さわ~らみなみ!

 ドドンドドンドン さわ~らみなみ!

 ドドンドドンドン は~~~ずき!


 周囲にいる観客の人たちも、驚いてその様子を見ている。


 注目されている当の本人の娘は、顔を真っ赤にして俯いていたが、我慢限界に達したか顔を上げて、


「お父さん! 来ないでっていったでしょ!」


 葉月は泣きそうな顔で、声を裏返らせて怒鳴っていた。


 彼女は普段とてもおとなしくて口数少なく声も小さく、人前で叫ぶような性格ではない。それがつい、かあっとなって叫び声をあげてしまい、はっと我に返ると、ただでさえ赤くなっていた顔が、さらに赤くなっていた。


 それを見て、裕子たちは大笑いした。


 穴があったら飛び込んで死んでしまいたい。

 というくらいに恥ずかしそうに俯いてしまっていた葉月であったが、なんだか急におかしくなったか、ぷっと吹き出すと、声をあげて笑い始めた。


 裕子は、初めて見る葉月の笑顔に驚いていた。

 お父さんからは、葉月は家ではよく笑う子であると聞いていたが、実際のところお店を訪れてもいつも表情カチカチだったので。


 こんな、無邪気な顔で笑うんだな。


 一人大騒ぎをしまくっていた葉月のお父さんであるが、なおも太鼓のリズムで葉月のことや、お店の商品宣伝活動などを叫びまくると、気がすんだようで太鼓を片付け始めた。


 葉月のお父さんはここでようやく、近くに木村梨乃がいることに気が付き、挨拶しながら隣に腰を下ろした。

 梨乃と葉月のお父さんは、知った仲なのである。


 まあ、部活のジョギング中にバンでやってきて、葉月をよろしくとお菓子を配り出すようなお父さんである。ちょっとでも葉月と関わりのある者であれば、知らないはずがないというものだ。


 太鼓の音が止んで相対的にしんと静まり返った中、佐原南の部員たちは山野裕子の指示のもとウォーミングアップを開始した。


 まずは、体育館の内側を軽いペースで二周。


 続いて、踊りのような前後に動きながらのストレッチで、フットサルの試合に適した身体へとほぐしていく。

 ブラジル体操という名で知られている動的ストレッチ方法の一つである。

 前進、後退をしながら、腰を捻り、右足を上げ、左足を上げ。

 みんなで動きが揃っていて、本当に踊りのようで見ていても面白いが、一人調和を乱しているのがゆうである。

 足が腰までしか上がらない。足を上げるのに精一杯で、その後の捻りもおろそかになってしまっている。

 関節がとても硬いためで、これでも入部したときに比べれば随分とまともになったのだ。


「試合開始十分前です」


 場内アナウンスの女性の声が、会場中に響きわたった。


 佐原南の部員たち全員が、山野裕子の前に集まった。


 初戦の相手は決まっているので、この一週間でさんざん対策を伝えているし、そのための練習も行なっているが、裕子はあらためて簡単に作戦を伝えた。


 そして、全員で円陣を作り、肩を組んだ。


「佐原南、勝つぞ!」


     3

 いちはらほうおうのベッキはまは、味方の攻め上がりで守備が薄く分が悪いことを瞬時に悟ると、素早くボールをタッチラインの外へと蹴りだしていた。


 わらみなみボール。

 やまゆうのキックインだ。


 ボールはゆうに渡り、再び裕子へ。


 だが、動いて受けたつもりの裕子であったが、それ自体を読まれており、インターセプトを許してしまった。


 裕子は心の中で舌打ちした。


 こいつら、かなりの試合巧者だ。

 先ほどから、いいようにいなされて、攻撃が空回りしてばかりだ。

 さすが決勝大会に進出しただけある。市原豊桜は、強い。


 私立市原豊桜学園高等学校。千葉県いちはら市にある臨海の高校で、きみ会場での地区予選を二勝一分で勝ち上がり、この決勝大会への進出を決めた。


 突出した選手はいないものの、全体的に個人技のレベルが高い。

 戦術的にもよく統率されており、攻撃に迫力があり、守備も堅い。

 経験の長い者が多いので、パス回しも早くて的確。

 なによりも、相手の長所を消すのが巧みで、牙を立て食らいつこうとしても牙そのものをふんわりした布で包みこまれてしまう。


 と、聞いてはいたけれど……だから、対策を充分練ったつもりだったけど……しかし、まさかこれほどとは。

 いや、うちらだって決勝大会に出ているじゃないか。向こうとなにが違うってんだ。

 自信を持て。自分を、そしてみんなを信じろ。


 裕子は心の中で自分の弱気を叱咤し、気合を入れた。

 だが、裕子の気持ちとは裏腹に、試合は相変わらず市原豊桜のペースで進んでいく。


 現在、前半六分、まだ得点は動いていない。


 佐原南のピッチ上のメンバーは現在、いくやまさとやまゆうゆう真砂まさごしげたけあきらの五人である。


 あわや、というボールを、茂美が好判断で飛び出してクリアした。


 だが、市原豊桜の思い切りのよいパス回しに翻弄されて、ボールはあっという間に佐原南の陣地へと戻って来た。


 相手の背番号三番、ピヴォのたかおかが、茂美をフェイントで揺さぶると、一瞬でトップスピードに乗って、武田晶の構えるゴールへドリブルで迫った。


 高岡加奈は、素早く足を後ろに振り絞り、振り抜いた。


 ゴール間近からの弾丸シュートであったが、武田晶は、持ち前の優れた反応速度を発揮し、パンチングで弾き上げていた。


 茂美と、市原豊桜の主将である佐々さつさとが、落ちて来るボールの所有権を掴み取るべく跳躍した。


 ボールに先に触れたのは佐々久美子であるが、だがそれは頭で跳ね上げただけになった。一瞬先に着地した茂美が、ボールの落下地点に走り寄り、腿で勢いを殺して足元に収めたのである。


 茂美はすぐに、佐治ケ江へとパスを送った。


 トラップした佐治ケ江は、パスの出しどころを作ろうと一人かわそうとするが、佐々久美子が横から伸ばしてきた足にボールを奪われてしまった。


 奪い返そうと追いかけ、後ろから強引に身体を入れる佐治ケ江であるが、しかしそれは単に相手を転ばせてしまうという結果を招いたのみだった。


 笛が吹かれた。


 市原豊桜のFKだ。


 主将の佐々久美子が、グラウンダーのボールを蹴った。


 混戦の中にボールが入り込み、佐原南としてはヒヤリとさせられるものであったが、裕子が掻き出してなんとかことなきを得た。


 ふう、と息を吐き、額の汗を拭う裕子。


 ちらり、と佐治ケ江の顔を見た。


 この流れの悪さ自体は、サジが原因でもなんでもない。

 単に相手が強いだけだ。

 でも、それはそれとして、やはりどう見てもサジの調子も悪いよな。

 本来のサジならば、一対一でそうそう負けるものではないのに。

 相手の一人一人が、これまでの対戦相手にくらべて技術力が高いというのもあるだろうけど、でも、そこまでではない。

 やっぱりサジ、成田予選の時からまったく復調していないよ。

 まあ、予想はしていたけどね。

 だって……


「サジ、後ろ!」


 晶の叫び声が響いた。


 市原豊桜主将の佐々久美子が、佐治ケ江を追い抜くように体を入れていた。

 先ほどと、反対の立場だ。

 そして先ほどと異なるのは、佐々久美子はファールにならないよう見事に相手からボールを奪っていたということ。


 ボールを奪うと、彼女はそのままドリブルに入った。


 茂美がボールを奪おうと迫るが、佐々久美子は真横にボールを転がし、そこへ走り込んでいた高岡加奈がシュートを打った。


 ゴレイロの晶が反応し、パンチングで防ごうとしたが、ボールはその手をすり抜けて、ゴールネットに突き刺さった。


 佐原南 0―1 市原豊桜


 前半九分、高岡加奈のシュートが決まって市原豊桜が先制点を上げた。


 手を叩き合い、喜びを爆発させる市原豊桜の選手たち。


 佐原南は、下を向いてしまう選手はいなかったが、やはり落胆の色は隠せるものではなかった。


「切り替え切り替え! まだ一点差。まずは追いつこう!」


 裕子は手を叩き、声を張り上げた。


 一試合でも多く、一分でも多く、サジと一緒に試合をしたいけど……でもこのままじゃ、ダメだ。

 裕子は、意を決して選手交代の指示を出した。


 佐治ケ江優 アウト 衣笠春奈 イン


 裕子は、「頼む」と、春奈の背中を叩いた。


 地区予選ローカルルールでは、選手交代には審判への申請が必要だった。正確な記録を残すことと、審判の質を考えてのことだ。だが、この決勝大会からは、一般的なフットサルルールと同じで申請は不要、流れの中でどんどん交代しても構わない。


 分析能力の高い春奈には、ピッチの外から見ていた感想をピッチに立つみんなに伝えて貰いたいが、もう前半のタイムアウトは使ってしまっているため、それはハーフタイムだ。


 いま春奈を入れたのは、選手個人としての能力を期待してのものだ。


 その効果はあり、佐原南のチームとしてのまとまりは若干修正された。

 しかし市原豊桜の、相手の長所を全部無力化してしまうようなチームワークは相変わらずで、結局のところ、佐原南は押され続けた。


 そして、裕子のトラップミスを突かれ、そのまま全員に攻め上がられ、再び点を失った。


 ゴール前の見事なパス交換に、武田晶一人では対処のしようがなかった。


 前半十一分。


 佐原南 0―2 市原豊桜


 得点者は、またもや高岡加奈だ。

 一発勝負のトーナメント戦、勝利の可能性を大きく引き寄せるゴールに、彼女は飛び上がって喜んでいる。


「みんな、ごめん」


 裕子は力無く謝った。


「王子先輩、落ち込まないでください。一点づつ返してきゃいいんだから」


 生山里子の予想外な台詞に、裕子は思わず微笑んだ。


 しかし、自分の個人的なミスもあったとはいえ、堅守が自慢の佐原南が、前半のうちに流れから二失点とは。

 まさかの展開だ。

 でも、里子のいう通りだ。

 くよくよしてても、しょうがない。


 前半十二分、選手交代。


 真砂茂美 アウト かじはな イン


 基本フォーメーションをボックスに変更。

 前が衣笠春奈、生山里子、後ろが山野裕子、梶尾花香。

 裕子がベッキだが状況により柔軟に花香が、または二人がベッキにもなる。

 ダイヤモンド型以上に、各ポジションの名称が「その時点での役割名」になるフォーメーションだ。


 選手たちのプレーの一つ一つに対し、春奈が短く指示を出していく。


 それは実に的確で、その都度それぞれの動きが目に見えてよくなっていく。


 そうした個々の修正によりチーム力が向上したためか、はたまた個人の頑張りか、入ったばかりの花香が素晴らしい仕事をした。

 パスと見せかけて身体を反転させて前を向くと、ドリブル突破で一人かわし、中央へと切り込んだのである。


 相手のベッキとゴレイロに対し、勝負にいくべく抜こうとする仕草を見せたその瞬間、ボールを真横へと転がしていた。


 後ろから駆け上がっていた里子が、そのボールを豪快に蹴り込んだ。

 ゴールネットが揺れ、佐原南が一点を返した。


 佐原南 1―2 市原豊桜


 ピッチの外と中、それぞれで抱き合う佐原南の選手たち。


 だがまだリードされている状態だ。みなすぐに気の引き締まった表情に変わった。


 この勢いを継続させるべく、佐原南はなおも攻め続けた。


 市原豊桜の主将、佐々久美子は選手たちが失点により動揺していると判断すると、少し守備的な布陣に変化させて、対応した。


 佐原南はよりボールを持てるようになり、圧倒的に攻めるものの、相手の守備に穴がなく、しばらくして、前半終了の笛が鳴った。


     4

 十分間のハーフタイムだ。

 両校の選手たちは、それぞれピッチの外へと出ていった。


 と、やまゆうの耳に、信じられないような言葉が飛び込んできた。


さと、見違えた。本当に凄くよかった。この調子で頑張ってよ!」


 なんとなしもとさきが、戻ってくる里子にそのような声をかけたのである。


「あ、ああ、ありがと」


 天敵とも呼べる存在に、存在否定どころかお褒めの言葉をいただいてしまい、いったいどう返せばいいのかわからずに、里子は見るからにどぎまぎしてしまっていた。


 咲はふらふらとコートの隅まで歩いて、誰にも顔を見られないところまでいくと、いきなり、ぷっと吹き出し、笑い始めた。


「からかっただけなのに、あいつ、真っ赤になって照れてやんの」


 という咲のニヤニヤ顔を、たけあきらがじーっと見ていた。


「な、なに見てんですか! こっそりと、いやらしいなあ!」

「知るか。ストレッチしてたら、あんたの方がこっち歩いて来て、みっともない顔で笑いはじめたんじゃんかよ」

「みっともない顔なんてしてませんよ!」

「どうでもいいよ」

「どうでもいいなら、そういう余計な一言を付け足さないで下さい。二点とられたくせに」

「それこそどうでもいいだろ。いや、よくはないけど、咲の不気味な笑顔とあたしの二失点は関係ないだろ!」


 などと、それこそどうでもいい争いをするゴレイロの二人。


 遠目からその様子を眺めていた裕子は、もっとそのおもろい漫才を見ていたい気もしたが、


「おーい、咲、晶、こっち来い。作戦会議やっぞ」


 やっぱり試合が大事。気を引き締め、二人を手招きした。


 裕子の前に部員全員が集まったところで、後半戦に向けての作戦会議開始だ。


 部員たちの顔を見回すと、裕子は口を開いた。


「基本的な戦術については、変更するつもりはない。焦って変なことしようものなら、それこそちぐはぐになって、相手の思うツボだからね。相手個人個人に対しての注意点だけど、これは……はる、頼む」


 と、きぬがさはるにバトンタッチ。


「まず、背番号五番、主将の佐々さつさ。右アラの選手だけど、彼女に対しては……」


 春奈は、ピッチの外から見ていてはっきりと特徴を掴めたいちはらほうおうの選手について、一般論と独自解釈を交えての対策を語り出した。

 一人、また一人。


「……以上。ま、そんな感じかな。とりあえず、この四人が要注意だから」

「だそうだ。注意するように。それと、基本戦術は変えないっていったけど、前半までのやり方を中心に、もう少し遊びを入れようよ。相手だって、こっちの手が複数ある方が読みにくくなるだろうしね。でもそれで失点しちゃしょうがないし、仕掛ける時には、他がしっかりとフォローやカバーをすること。あと、一人一人がもう少し判断を早くしていこう。作戦会議は以上で終了!」


 と、裕子はきっぱりいい切ると、ゆうへと視線を向けた。


「それと、サジさあ」


 少し俯き加減にぼうっとした表情であった佐治ケ江は、自分の名が出たことに驚いて顔を上げ、裕子を見た。


「あえて、いまこんなところで、いうけどさ……広島に、帰ろうと思ってるだろ」


 その言葉に、みんなが一斉に佐治ケ江の方へ視線を向けていた。


 視線を一身に浴びる佐治ケ江は、数秒間の沈黙の後、首を小さく縦に振った。


「えー!」


 春奈とが、驚きの声を上げた。


「うちから、サジ先輩がいなくなっちゃったら……」


 はなが不安そうな表情を作った。


 そうなったら、どれだけの戦力低下であろう。


 里子は、口元をきつく閉じ、黙って佐治ケ江の顔を見つめている。一見冷静そうであるが、普段の里子を知る者ならば、それは明らかに動揺している表情であることが分かるだろう。


「なんか最近のサジが、試合に出ることに固執しているのも、でもなんだか空回りしちゃっているのも、練習で注意力が乱れちゃっていたのも、成田予選で胸おさえて倒れちゃったのも……全部そのせいなんだ。広島に帰ろうと思ったのはいいけど、昔の嫌な記憶が甦って、正常な精神状態でいられなくなってしまう。でもどうしても帰りたいから、だから、その抱えている過去を、強くなって乗り越えようと思っている。……そうだろ」


 その問いに、また佐治ケ江は黙って頷いた。


 裕子は張り詰めていたような顔を少し緩め、笑みを作った。それはとてもぎこちない笑みであったが。


「バカだなあ。一人で抱えなくたっていいんだよ。人間なんて、弱くたっていいんだよ。……それに、広島に戻ったって、どこに住んでたって、あたしたち、仲間じゃん。だから、そんなに気負わなくたっていいんだよ」


 裕子は口を閉ざし、佐治ケ江の顔を見つめる。


 誰も言葉を続ける者はおらず、場に静寂が訪れた。

 向こう側で市原豊桜が車座になってミーティングをしているが、その声がはっきり聞こえるほどに。


 静寂を破ったのは、佐治ケ江であった。

 彼女はゆっくりと、口を開いた。


「前に、王子がいったでしょう。これからも続いていく人生、自分なりの、楽になれる方法を見つけないと辛いって。それには、王子がいまいった通り、自分が強くなって、広島に帰ること。それが出来れば、あたしの今後の人生は大きく変わるんじゃないかと思う。今後だけじゃない、これまでの、過去の記憶だって、大きく変えることが出来る。……なにをやってもダメなあたしが、成長を実感出来るのって、フットサルだけだから。だから、この大会を頑張ることで、強くなったという実感を得たいんだ。……それに、あたしなんかのせいで、いつまでも両親を離れ離れにはしておけない」


 佐治ケ江は自分にいい聞かせるように、柔らかな口調ながらも力強くそう語った。


 ああ、


 裕子はあらためて納得していた。


 やっぱり、成田で試合中に倒れてしまったのも、そういう決心をしていたからだったのか。

 子供の頃に受けたいじめのせいで出るようになったパニック障害、千葉に来てからは収まっていたというのに……戻る決心をしたことで、過去の様々な思い出が、それをぶりかえさせてしまったんだ。

 でもサジは、そんな自分と向き合い、戦い、そんな自分を越えようとしている。


 きっとそうだろうなと思ってはいたものの、それが真実であることを知ると、あらためて胸の奥が締め付けられるような気持ちになる。


 でも、それだけじゃあ、壊れちゃうよ。

 弱くてもいいんだ、って知ることだって、強くなるってことなんだよ。

 真面目すぎるんだよなあ、もう。

 A型のわたしが、こんなにふざけて適当だってのにさあ。


「もう一回いうぞ。どこにいたって、あたしたち、仲間だからな。自分は一人きりだなんて思うなよ。そのうちに、みんなで広島に遊びにいくからな。……でも、サジなら、向こうでも仲間たくさん出来るよ。優しいし。強いし。そう……サジはもう充分に強いんだから。自信、持ちなよな」


 裕子はそういうと、佐治ケ江の背中を強く叩いた。


「ありがとう、王子」


 かぼそく小さな声であったが、しかしその小さく短い言葉には、気持ちのすべてがこもっているような、そんな、佐治ケ江の表情であった。

 本当に、この部に入ってよかった、と。裕子や、他のみんなと出会えたこと、佐原南に転校してきたことを、心から有り難く、嬉しく思っているような、そんな表情であった。


「よし、じゃあ後半、絶対逆転しようぜ!」


 裕子が叫ぶと、誰からともなく肩を組んで、円陣を作った。


「よし、佐原南ィ、頑張ってえ、いきまーーーーっしょい!」

「それ、なんて返せばいいの、王子?」

「妙なことしないで、いつも通りにやれよバカ王子」


 みんなにボロボロにいわれる山野裕子。


「女子はほんとに、つべこべつべこべうるせーな。んじゃ、改めて……佐原南! 勝つぞお!」


 裕子が叫び、部員たちが叫ぶ。


 円陣が解かれると、佐原南の選手たちは小走りでピッチ内外へと散らばった。


     5

 そして、後半戦が開始された。


 わらみなみは、すぐに選手交代を行ない、いくやまさときぬがさはるゆう真砂まさごしげたけあきらの五人になった。


 前半終了間際は佐原南の時間であったが、それ以上に、佐原南のパスが繋がるようになっていた。


 ゆうとしては、いちはらほうおうがどう修正してくるか不安だったが、勢いはまだこちらにあり。


 相手が、一点のリードということもあって前に出ないこともあろうが、それだけではない。


 春奈がハーフタイムにもたらした相手への対策修正。


 茂美が少しピッチ外から試合を見ていたことで、相手の攻撃パターンを上手く読めるようになったこと。


 なかでも一番大きいと裕子が感じるのが、佐治ケ江の復活であった。


 ハーフタイムにかけられた裕子の言葉により、重かった気持ちが相当に吹っ切れたようで、これまでの不調が信じられないくらいに、ピッチの上をいきいきと躍動している。


 そして後半七分、佐治ケ江が二人を抜き去ってのゴール前への浮き玉パスに里子が頭で合わせて、ついに佐原南は同点に追いついた。


 佐原南 2―2 市原豊桜


 喜び爆発の佐原南であるが、点を取った里子ではなく佐治ケ江が囲まれ揉みくちゃにされたのは、ある意味自然な成り行きか。

 里子も苦笑しながらその輪に加わり、佐治ケ江の背中をバシバシと叩いた。


 この得点により流れは完全に佐原南のものになったが、しかし後半九分、篠亜由美がファールで相手を転ばせて、イエローカードを受けてしまった。


 直接FKの対象となるファールが後半で六つ目ということで、相手に第二PKを与えることになった。


 キッカーは主将の佐々久美子だ。

 彼女は、祈るような顔で第二ペナルティマークにボールをセットすると、立ち上がり、武田晶の守るゴールを見つめた。


 第二PKは、ゴールまで十メートルという長い距離を蹴るPKである。長いといっても、あっけなく決まってしまうことも多く、守る側として決して油断のならないものだ。


 キッカーの佐々久美子は、ゆっくりボールに走り寄ると、爪先で勢いよく蹴った。


 ボールが、ぐんと伸びる。その弾道は、ゴールの隅を、完全に捉えていた。


 入ってもおかしくないコースであり、球威であったが、武田晶は冷静にパンチングで弾き上げた。


 真上に跳ね上がったボールを目掛けて、市原豊桜の選手たちが必死の形相で詰め寄ったが、晶は高くジャンプすると、落下してくるボールを両手でキャッチした。


 突き放す好機を逸し、市原豊桜の選手たちは一様に落胆の色を顔に浮かべた。


 反対に佐原南の選手たちは、この第二PK阻止により、それまで掴みかけていた自信を確固たるものにした。

 怒涛の攻撃が、また始まった。


 市原豊桜は、焦りが焦りを呼び、得意とする相手を包み込むような守備も攻めも出来ず、個人の頑張りでボールを跳ね返すのが精一杯の状態になっていた。


「同点なんだよ! びくびくしてんじゃないよ!」


 佐々久美子がひとり大声を発し、ひとり踏ん張っているが、焼け石に水といった有様だった。


 フットサルは基本的にはパスを繋いで侵攻していくゲームで、ドリブルはパスを繋ぐためのアクセントに過ぎない。ピッチが狭く、あまりスペースがないためだ。

 だが、この試合は違っていた。

 佐原南が攻めれば攻めるだけ、市原豊桜は個々の動きが乱れて、いたるところにスペースが生じる結果になっていた。

 市原豊桜は、佐原南のドリブルにかき回されて大混乱に陥っていた。


 現在は後半十一分、スコアは2―2のまま。

 残り時間を考えれば、次の一点を争うゲームになるだろう。


 佐治ケ江は、裕子からのパスを受け取ると、ドリブルで駆け上がった。

 滑らかな曲線を描き、まったく速度を落とすことなく市原豊桜のよしふみを抜いた。

 佐治ケ江はさらにドリブルで上がろうとしたが、吉田千史に背中を引っ張られて、転倒した。


 第一審判の吹く笛が鳴った。


 吉田千史にイエローカードが出された。

 市原豊桜が犯した直接FKの対象となるファールは、これで後半六つ。

 佐原南は、第二PKを得た。


 裕子は、佐治ケ江へと歩み寄ると、手を差し出し引っ張り起こした。


「サジ、第二PK、自分で蹴りな」


 佐治ケ江は、少しの沈黙の後、小さく頷いた。


 第二ペナルティマークにボールをセットした佐治ケ江は、ちらりと観客席に視線をやった。

 裕子も、同じ方向を見てみる。

 佐治ケ江が見ていたのは、梨乃先輩であった。


 梨乃先輩と、葉月のお父さん、その間に、いつ来たのかはまむしひさ先輩とあぜけい先輩も座っているのが分かった。


 遠目からではあるが、梨乃が小さく頷いたのが、裕子には見えた。


 きっと、佐治ケ江へのエールだ。


 自分を信じて、ただ精一杯やれ。


 通じたのだろう。その気持ちが。

 佐治ケ江は、こくりと頷いた。

 そして、ゴールへと身体を向けた。


 審判の笛が鳴った。


 佐治ケ江は、ゆっくりとボールに近寄っていく。

 そして、素早く足を後ろに振り上げると、勢い良く振り下ろしていた。


 技巧に走らず、ただ真っ直ぐ、力強く。

 佐治ケ江には珍しい、トゥーキックによる豪快なシュートであった。


 ゴレイロのなだゆうは、佐治ケ江優のことを技巧派であるとよく対策していたのだろう。

 それだけに、それが裏目に出ることになった、ということだろうか。

 完全に意表を突かれて、判断が遅れてしまったようであった。

 驚いた表情をその顔に浮かべた瞬間には、ゴールネットが揺れていた。


 佐原南 3―2 市原豊桜


 ついに佐原南は、二点差をひっくり返したのであった。


 里子、晶、裕子は、佐治ケ江の身体をばんばんと叩いて、この大会初ゴールの彼女を手荒く祝福した。


 市原豊桜のボールで試合再開。

 試合の残り時間は、もうほんの数分。

 市原豊桜としては、攻めなければ負けであるというのに、打開するためのなにをすることも出来なくなっていた。

 佐原南のパス回しに、ついていくことが出来なくなっていた。

 最後のところで守るのが精一杯だった。


 時間稼ぎをしようという逃げのパス回しであれば、市原豊桜もガムシャラに攻撃に出る気力を奮い立たせていたかも知れない。

 しかし佐原南が見せているそれは、明らかに攻撃のため、点を取るためのものであり、それが市原豊桜の選手たちから気力を奪ってしまっていたのである。

 「守備は攻撃、攻撃は守備」いま観客席から見てくれている、前部長である木村梨乃、彼女がよくいっていた言葉だ。裕子は、それを実践していたのである。


 市原豊桜は、攻めねばと思うほどに焦り、守ろうとするほどに焦り、いたずらにファールが多くなるばかりだった。


 そして、里子がドリブル突破からのシュートを惜しくも打ち上げてしまったところで、長い笛が鳴った。


 試合終了。

 佐原南は3―2で、決勝大会初戦突破を決めた。


「サジ、やった!」


 裕子は佐治ケ江に走り寄り、飛びつくと、彼女の華奢な身体をぎゅっと抱きしめた。


「……苦しいよ」

「ごめん」


 裕子は、佐治ケ江の身体から離れた。


 二人は、見つめ合った。


 やがて裕子は、ふうと小さく息を吐くと、佐治ケ江の顔を見つめたまま柔らかく微笑んだ。


     6

 振り切られそうになったところ、しのはつい手を出してしまいくらもとけいのシャツを引っ張って転倒させてしまった。


 笛が鳴った。


 第一審判が、イエローカードをかかげた。


 亜由美は前の試合でも警告を受けているため、これで累積二枚目。この試合に勝利しても、次は出られない。


 八街やちまただいに、FKが与えられることになった。


あきら、王子、ごめん。……ゴレイロのドリブルをとめられずに倒しちゃうなんて、みっともない」


 亜由美は謝った。


「気にすんなって」


 やまゆうは、亜由美の肩を叩いた。


 倉本慶子は、幼少より中学卒業までサッカーのMFミツドフイールダーをやっていたと聞く。上手なのは当たり前だ。

 ただ、それをいっても、経験の差に亜由美のような者が余計に落ち込むだけかも知れないので、裕子は黙っていた。


 亜由美が与えたFKであるが、たけあきらがエリアの外まで大きく飛び出して、ヘディングで大きくクリアした。


 現在、前半十一分。

 先発のいくやまさとゆうが前半六分で交代し、現在のメンバーは、

 づきしのやまゆう真砂まさごしげたけあきら、の五人だ。


 対戦相手は、八街やちまただい高等学校。千葉県八街やちまた市にある私立高校だ。


 両校ともに、まだ得点は生まれていない。


 力は、一見すると五分五分。ようは、拮抗した好ゲーム。


 しかし、見るものが見れば、予定の戦術通りやりたいようにやっている八街富士見台に、不本意ながらもそれを受けてしまっている佐原南という構図がはっきりと見えたことだろう。


 そう、佐原南は、苦戦していたのである。

 相手の、硬い守りに。


 硬いだけではなく、隙を突いては頻繁にゴレイロが攻め上がって来る。


 ゴレイロの倉本慶子は、前述の通りサッカーFPフイールドプレイヤーとしての経験が長いため足元の技術が秀逸で、彼女がボールを持つとなかなか奪うことが出来ない。


 人数をかけて奪おうとしても、すぐボールを他の選手に渡して、自陣ゴールに戻ってしまう。

 直前まで倉本慶子にマークが集中してしまっていた分だけ、佐原南は他が手薄になってピンチを招いてしまう。


 ゴレイロ倉本慶子の自由な攻め上がりが作り出すペースに、佐原南はすっかり狂わされてしまっている。


 自由といってもチームを無視して好き勝手に動いているわけではなく、そうした戦い方がもう基本戦術として組み込まれているのだろう。練習に練習を重ね、骨身にまで染み込んでいるのだろう。


 ゴレイロが頻繁に攻め上がるだけあって、FPは集中して守りを固めており非常に堅く、かと思えば焦れるこちらの心理を見通しているかのように突き刺すような鋭いカウンターが来る。


 あまり目立たないが、試合を影でコントロールしているのは、主将のえのだ。


 と、あらかじめ先輩に聞いていたから分かったけれども、確かにゴレイロ倉本慶子の攻め上がりがより効果的になるように、また、そのリスクをカバー出来るように、榎木恵美はこまめに自身の動きや周囲への指示でたえず微調整をしている。


 裏方なだけでなく、個人技、特にシュートの決定力は抜群で、地区予選ではばらふじから彼女一人で三点奪っている。


 乱雑ではない、計算された大胆さ。

 裕子は、八街富士見台にそのようなものを感じた。

 さすが、地区予選でともえかずの率いる茂原藤ケ谷に大勝しただけあるな、と。


 だんだんとその戦法に慣れては来たものの、もし一失点でもしていたら、前掛かりになったところをたたみ込まれて大量失点していたかも知れない。

 前もって対策を考えていなかったら、どうなっていたか。

 情報通の、梨乃先輩の親友に感謝だ。


 葉月の小さな身体による精一杯のポストプレーから、裕子はボールを受けた。

 フェイントで相手をかわし、シュート!

 地を這うような低空のシュートは、上手く枠を捉えていたが、運悪くゴレイロの足に当たり、そのまま大きくクリアされてしまった。


「くそ。ごめん、葉月。いいのくれたのに」


 悔しがる裕子。

 しかし、葉月をここまで使うことになるとは、そして、ここまで応えてくれるとは、大会前には思いもしなかった。


 突出した何かを持っているわけでもない、個人技だけを見ればなににおいても「悪くはない」というレベル、葉月はそんな選手だ。


 性格面も実におっとりしており、ファール覚悟でガツガツ当たっていくようなことも決してしない。


 ただ、自分がどんなレベルなのか、そんな自分になにが出来るかをしっかりと理解しており、チームのために献身的に働いてくれる。


 以前は、少しは里子のような負けん気の強さを見習った方がいいのにと思っていたが、現在の裕子は、こういう選手がいてもいいんだ、こういう選手もいてこそのチームなんだ、と思うようになっていた。


 さて佐原南、ここで選手交代である。


 真砂茂美 アウト ともはらりん イン


 交代理由は、茂美の体力温存と、少し外から試合を見て相手の動きを俯瞰的に感じてもらいたいから。


 それと、来年に向けての貴重な選手である鈴に、このような舞台を経験してもらいたいから。


 ただ、余談ではあるが、この時、裕子は知るよしもなかった。


 この大会を通して自分を信じること、やり抜くことの達成感を覚えた鈴が、今度こそ絶対にやり抜いてみせる、と、フットサル部を退部して、自分が一番最初に選んだ部活であるバスケットボール部へ戻ることになるとは。


 それはまた、別のお話である。


「普段通りやりゃいいから」


 裕子は、緊張しているであろう鈴の気持ちをほぐそうと、笑顔で肩を叩いた。


「はい」

 

 鈴は弱々しい笑みを裕子に返すと、茂美に代わってピッチに入った。


 基本的にはアラ向きの選手である鈴だが、茂美に代えてのベッキというのも何度も経験しているから、連係は何も問題ないはずだ。

 裕子は、そう考えて鈴を投入したわけだが……


 八街富士見台の右アラ、よこかわがドリブルで駆け上がって、ピヴォのへとパスを出す。


 そのパスを鈴は読んでいた。軌道上に走り込み、スライディングで奪っていた。


 お、上手い! と、裕子は感心しながら、手を上げてボールを要求。しかしその鈴のパスは、コントロールが甘いどころか、まったく違う方向に転がしてしまって、相手へのプレゼントになってしまった。


 再び、横川智佐にボールが渡った。


 鈴は駆け出した。自分のミスで相手に渡してしまったボールを自ら奪おうと、横川智佐へと迫っていく。


「鈴、そんな上がんなくていいよ!」


 裕子は叫んだ。


 そんなあちこち好き勝手に駆け回られたら、連係や守備がムチャクチャになってしまう。


 決勝大会という舞台に、すっかり畏縮しちまってるんだ。そう気付いた裕子は、すぐ自分と鈴のポジションを交換した。


 ミスが失点に直結するようなポジションでは、焦りで自ら潰れてしまうから。鈴が自信を失ってしまうから。


 だが、ポジションを変えても鈴は相変わらずだった。


     7

 負けたくない。


 相手に、負けたくない。

 自分に、負けたくない。


 絶対に。


 でも……


 緊張に頭が半ば真っ白になりながらも、ともはらりんは心に叫び、ピッチを走っていた。


 八街やちまただいの攻撃を、なんとかたけあきらが飛び出しから弾いた。


 ゆうが拾い、鈴へ送る。


 しかし、せっかく受けたボールだというのに鈴は、出しどころを探してもたもたしている間に、またもやよこかわに奪われてしまっていた。


 横川智佐、確か自分と同じ一年生のはずなのに、とても自信に満ちた、躍動感のあるプレーで……と、鈴はますます焦りを感じていた。


 負けたくない。

 負けたくない。

 ここで負けたら、せっかく好きになりかけていたフットサルが、また辛いものになってしまう。


 鈴は横川智佐の背中を追いかけ、強引にボールを奪おうとするが、無意識に激しく手で押し倒してしまった。


 笛が吹かれ、鈴にイエローカードが出された。


 負けたくない……だけなのに……

 自分の思いが空回りし、あまつさえこのような結果になってしまっていることに、鈴は呆然と立ち尽くしていた。


 山野裕子が近づいて来た。


「王子先輩、すみません。あたし……」


 鈴は、頭を下げた。

 叱られても、小突かれても、文句はいえない。と、罵声罵倒程度は覚悟していたが、しかし、裕子の口から発せられたのは、鈴の思いもよらない言葉だった。


「そんなにあたしらって、頼りにならないかな?」


 裕子は、笑顔でそう尋ねたのである。


「え?」


 きょとんとした表情で、その笑顔を見つめる鈴。


「後ろにあたしや、晶がいるんだから、もっと伸び伸びやんなよ。せっかく大会に出てんだから、もっと楽しんでやろうぜ。勿体無いよ」


 裕子は、鈴のおでこを人差し指でつついた。


「……はい」


 といってくれるのは、ありがたいけど。

 でも、ここまで来たというのに、あたしなんかのせいで負けたら、もっと勿体無いじゃないか。


 ……だいたい、なんでこんな大切な場面であたしなんか使うんだよ。

 何点もリードしていたり、逆に大量リードされているならまだしも、こんな拮抗した状態でさあ。


「さ、セットプレー、絶対に守るよ」


 裕子は鈴の肩を叩くと、踵を返して佐原南のゴール前へ。

 鈴も、後を追った。


 先ほどの鈴のファールにより、八街富士見台に直接FKを与えてしまったのである。


 キッカーは、主将のえのだ。


 八街富士見台は地区予選で茂原藤ケ谷と対戦し、六点を奪って圧勝したのだが、そのうち三点は彼女の得点、さらにそのうちの一点は直接FKを直接決めての得点だ。

 佐原南としては、このセットプレーは絶対に集中切らさず守りたいところである。


 佐原南の選手は壁を作った。

 攻撃側である八街富士見台の選手とで、ゴール前はごちゃごちゃとひしめき合う状態になった。


 審判の笛が鳴った。


 榎木恵美は短く助走し、ボールを蹴った。


 FKを直接決めたというくらいだから、速く鋭いボールが襲って来るのだろうと裕子は想像していたが、来たのは想像を裏切る、ふわふわっと宙高くに浮かせるボールだった。


 それが狙い通りであったことを、次の瞬間に裕子は覚った。


 身長百六十八センチのが、裕子と葉月の間に割り込むように入ってきて、長身を高く跳躍させながらボールに額を叩き付けたのである。


 余りに緩くともゴレイロに対応されるからある程度の球威は必要だが、とにかく制空権を握れるならば球威のない方がしっかり合わせわすい、ということだろう。

 そうして天高くからシュートが放たれ、まるで稲妻のような急角度と速度をもって、ゴールネットへと襲い掛かったのである。


 決まっておかしくない、それは素晴らしい矢野麻衣子のシュートであった。


 だが、決まらなかった。


 ゴレイロの武田晶が、小さく腰を落としてバレーのレシーブのように両手でボールを大きく打ち上げ、弾き飛ばしたのである。


「よっしゃあ!」


 ベンチから、なしもとさきの叫び声。


 鈴は宙高く舞うボールを追いながら、先輩のファインプレーに拳を振り上げている梨本咲にちらりと視線を向けていた。


 咲が、あんなに熱くなるなんて……

 そもそも晶先輩のこと、あんなに嫌っていたのに。


 晶が弾いたボールは、葉月が落下地点へと素早く駆け寄って、胸で受けた。

 だが、足元に落ちて小さくバウンドしたボールを、横殴りの風にさらわれてしまった。

 奪ったのは、ゴレイロの倉本慶子であった。

 ゴレイロの身であるというのに、なんとハーフウエーラインにまで上がって来ていたのである。


 倉本慶子は身体を反転させて、ドリブルで敵陣へと入り込もうとした。


 だが、これ以上の進撃をすることは出来なかった。

 佐原南の選手が、ぴったりと密着して、行く手を阻んでいたのである。

 ゴレイロのユニフォーム、武田晶であった。

 そう、晶もまたハーフウエーラインにまで上がって来ていたのだ。


 ボールを奪おうとする晶に、そうはさせまいと粘る倉本慶子。

 そうそう見られるものではない、ハーフウエーライン付近でのゴレイロ同士の攻防戦、それに勝利したのは晶であった。


 倉本慶子の、一瞬のタッチミスを逃さず、身体を入れてボールを奪い取ったのである。


 晶は、細かいながらもスピードのあるドリブルで駆け上がった。


 お株を奪われた格好になった倉本慶子は、恥と思ったか怒ったような表情で晶の背中を追いかけた。


 前方から、相手主将の榎木恵美が飛び込んで来る。晶は小さなフェイントモーション、寸分の無駄もない動きでかわし抜いていた。


 背後から倉本慶子が全力で突進してくるのを感じたのか、晶はボール保持には固執せず、裕子へとパスを出し、自らは自陣ゴールへと走って戻る。


 裕子は、ベッキのなかを引きつけると、ひらりとかわして、前方へとパスを出した。


 葉月が走り込んで、そのボールを受けた。


 ゴレイロ倉本慶子がまだ戻れていないため、無人のゴール。距離は、約十メートル。

 決定的なチャンスに、葉月は迷わなかった。

 素早く足を上げ、振り下ろした。


 だが、葉月の足がボールに触れようかというその瞬間、戻って来た倉本慶子に肩をぶつけられた。

 葉月はバランスを崩し、半回転して、尻餅をついて転んだ。


 ころころと転がるボールは、ゴールポストのすぐ脇を通り過ぎて、ラインを割った。


「ああ、惜しい!」


 ピッチの外で悔しがる里子と花香。


 倉本慶子にイエローカードが出された。おそらく警告を覚悟で、わざとぶつかり、葉月を潰したのだろう。でなければ、高確率で失点というシーンであったからだ。


 佐原南に、直接FKが与えられた。

 キッカーは篠亜由美だ。


 ズドン、と力強く真っ直ぐ伸びるボールが、上手く壁の隙間をすり抜けてゴールへ向かった。


 だが弾道はゴレイロ倉本慶子の正面で、ブロックされてしまう。

 床に落ちたボールへと、葉月が素早く駆け寄るが、間一髪の差で、ゴレイロ倉本慶子がボールに飛びついて、かろうじてゴールを死守した。


「惜しかった!」

「この調子でどんどん攻めよう!」

「いいぞ葉月!」


 得点の匂いに、盛り上がる佐原南の選手たち。

 無言で、その様子を見ている鈴。


 みんな、熱くなっていて、羨ましい。

 楽しんでいて、羨ましい。

 自分は……


 と、彼女はなんともいえない、みじめな気持ちを感じていた。

 ふと、観客席の方を見ていた。

 はまむしひさ先輩の姿が見える。


 先日、彼女と公園で練習したことを思い出していた。

 あのなんともささやかな嬉しさ、じわじわと身体を包み込む気持ちよさを思い出していた。

 鈴は、苦笑していた。


 ……そうだよな。羨ましいもなにもないよな。

 あたしにだって、誰にだって、出来ることじゃないか。

 熱くなって、楽しんで、なんて。

 簡単だろう。

 子供でもやっている。

 ただ、一所懸命にやればいいだけじゃないか。

 ただ、一所懸命にボールを追えばいいだけじゃないか。

 さっき、王子先輩がいっていたじゃないか。

 信頼出来る仲間たち、先輩たちがいるんだから。

 やってみよう。


 それでダメだったら、

 その時は……思い切り後悔すればいい!


 鈴は、走り出した。


 横川智佐は、ながだいからのパスを受け、ドリブル体勢に入ろうとしたが、その前に友原鈴が立ちはだかった。

 鈴が奪おうとして足を伸ばすが、見るも簡単にかわされて、ボールは横川智佐から矢野麻衣子へと渡った。


 矢野麻衣子がほんの少しトラップにもたついたところ、裕子が横に走り抜けてボールを奪っていた。


 鈴は、裕子からのパスを受け取った。

 正面を向くと、横川智佐が迫って来ていた。攻と守、先ほどと逆の立場だ。


 プレッシングをかけてくる横川智佐。


 鈴は軽く腰を落とすと、肩や腕、背中を使って相手からボールを隠し、守りながら、身体を回転させた。


 無我夢中のままに、ボールをちょんと前に出して走り出していた。


 はっと我に返り振り返ると、後方で横川智佐がバランスを失いよろめいていた。


 客席から歓声が上がった。


 え?


 ルーレット、いきなり成功しちゃった……


 鈴はドリブルで前へ進みながら、なんだか不思議な感覚に包まれていた。


 なんか……

 とても、気持ちがいい……

 久樹先輩と公園で練習した、あの時よりも、ずっと、ずっと。

 身体が溶けてしまいそうなくらい、気持ちいい。


 特技、といえるものかは分からない。

 とにかく鈴の胸中にあったのは、陰で隠れて練習してきた技で相手を抜き去ったという、むず痒くなるような心地よさだけであった。


 鈴は、葉月へとパスを出すと、そのまま駆け上がり続ける。葉月からすぐにボールが戻って来てそれを受けたが、ワンツーを読んでいたベッキの中井真子がすぐさま鈴へ寄せボールを奪おうとする。鈴は咄嗟に身体を反転させると、中井真子を背負った……と、その瞬間に再度素早く反転して、シュートを打った。


 完全に意表を突いたシュートは、運も手伝いジャストミート、ぐんと鋭く伸びて八街富士見台のゴールへと襲い掛かった。


 だが、せっかくの素晴らしいシュートも倉本慶子の反射神経には通じず、ワンハンドでキャッチされてしまった。


「鈴、いいよ! その調子!」


 後方から、裕子の嬉しそうな大声が響いて来た。


「はい!」


 鈴も負けないような大声で返していた。

 こんなに大きな声を出したのは、久しぶりだった。


 試合は続く。

 鈴は、走り続けた。

 攻め続けた。

 仲間たちと一緒に。


 鈴はさして足元の上手な選手ではないが、掴みかけた自信がチャレンジ精神を呼び、仕掛け続けた。浜虫久樹先輩と練習した、ルーレットを核にして。


 たかだかルーレットだけれども、一度感触を掴むと色々と応用がきくことに鈴は気付いた。

 途中で止めて後ろにパスしたり、逆方向に戻って相手を惑わせたりイラつかせたり。


 相手が構えてしまうためか、他のフェイント技も通じるようになっていた。

 相手の先読みの裏を突いて、ただのドリブルで抜けたり。


 フットサルって……楽しい……


 簡単なことなのに、いま、気付いた。

 久樹先輩に、感謝しないと。

 フットサルなんか向いてない。これまでそう思っていたけど、そうじゃない、自分の通じるところ、自分のよいところ、そういうところを探せばいいだけだったんだ。

 いままで、頑張っているふりだけして、結局、楽な立場を探して逃げ回っていただけだったんだ。フットサルだけじゃなく、どんなスポーツに対しても。いや、生きるということに対しても。

 でも、いや、だからこそ、これまでの分だけ走ってやる。


「いくぞお!」


 鈴は叫んだ。


 走り、受け、蹴った。


 そんな彼女に調子を狂わされたか、八街富士見台は自慢である変幻自在の攻めをまるで発揮出来なくなっていた。


 さすがにもどかしくなったのか、八街富士見台はピヴォを矢野麻衣子からみなみやまに交えて来た。


 矢野麻衣子も身長百六十八センチと長身であるが、南山恵美子はなんと百七十五センチもある。

 その分というべきか、機動力に欠ける選手のようであるが、とにかく八街富士見台は、ロングボールを徹底的に前線の長身選手に当てるという、サッカー的な戦術へと切り替えて来たのである。


 実際、高くても百六十センチ前後という、上背のある選手がいない佐原南に対しては、この戦法は有効だった。


 投入されたこの長身のピヴォは、ロングボールの落下地点に走り込むと、軽く跳躍をして、頭にボールを当てては、佐原南の選手たちが競ろうにも決して届かないような高さから、味方選手の走り込む場所へと的確に落としていく。


 南山恵美子、高身長ながらほっそりとしており、顔も丸っこく、あどけなさの多分に残る一年生。

 足元の技術には不安があるようだが、この試合における自分の役割は、充分過ぎるくらいにこなしていた。


 しかし、佐原南も柔軟性のあるチーム。段々と、その戦法に慣れて来て、対策出来るようになっていた。

 マンマークをより徹底させて、ハイボールを簡単に上げさせないようにしたのだ。

 守備の落ち着きから、また佐原南が攻勢を強めていく。


 最初は自信なさげにボールを回していた鈴も、いつしかすっかりチームに欠かせない一員になっていた。

 とにかく走り回り、守備をし、機会あらば迷うことなく攻め上がる。


 また、鈴が魅せた。

 横川智佐を、右と見せて左という実に単純なフェイントで抜いたのである。


 少し前の鈴ならば、運よく抜いても周囲がまったく見えずにまた相手ボールにしてしまっていたのだが、気持ちに少し余裕の出来た彼女には、中央で走りながら前方を指さしている九頭葉月の姿が見えていた。

 その、指し示す先へと、鈴は強くボールを蹴っていた。


 葉月はベッキの中井真子をするりかいくぐると、足の回転を上げて、ボール落下地点へと全力疾走。


 ゴレイロの倉本慶子は、慌ててゴール前から飛び出すが、しかし間に合わなかった。


 落下してくるボールを、葉月は器用にも走りながら振り返り確認すると、身体を倒しながら上手く右の爪先を合わせていた。


 ぽーんと跳ね上がったボールが、倉本慶子の頭上を越えて、ゴールネットに吸い込まれた。


 笛の音が響いた。

 佐原南が、ついに均衡を破った瞬間であった。


 倒れている葉月は、床に手をついて上体を起こした。

 ゴールネットへと、顔を向けた。

 中にボールがあるの見ると、ほっと安堵の表情を浮かべた。


「なに冷静にしてるんだよお!」


 鈴は走っていた。

 大声で叫びながら、葉月へと、走っていた。


「やった、葉月!」


 せっかく上半身起こしかけた葉月であるが、興奮した鈴に飛び掛かられ押し倒されてしまった。


「やった、やった! 葉月、やったよ! ありがとう。決めてくれて、ありがとう!」


 なおも鈴は興奮気味に、葉月を抱き締めた。


 他の部員たちも、ようやく均衡を破ったことに、それぞれ歓声をあげていた。


 客席からも歓声や、拍手が起きていた。

 観客席からドンドンドンと響く太鼓の音は、葉月のお父さんであろうか。


「鈴が、いいボールを上げてくれたからだよ。決めるだけだった」


 そういうと、葉月は優しく微笑んだ。


「ほおら、いつまでもそんなとこでコチョコチョやってんじゃないよ。お前ら、そういう関係かよ」


 山野裕子は手を差し出して、二人を立ち上がらせた。


「でもほんと、よくやってくれた。二人とも」


     8

 失点を喫した八街やちまただいは、慌てたようにボールをセンタースポットに置き、試合を再開させた。


 ゴレイロのくらもとけいが、またどんどん上がってくるようになった。


 小さいけどとても大きな自信を得たともはらりんであったが、しかしよこかわの必死の突破を今度はとめることが出来なかった。


 ボールは倉本慶子へ繋がった。そこから、えの主将とのワンツーでを抜き去ると、クロスボールを上げた。

 ゴールへと走る南山恵美子が、百七十五センチの長身を跳躍させた。マッチアップする山野裕子に余裕で競り勝つと、凄まじく高い打点からのヘディングシュートを放った。


 ゴール間近からの、地に突き刺さるような急角度のボール。さすがの晶も反応が間に合わず、バウンドしてゴールへ吸い込まれた。


 同じようなシュートを先ほどは上手く弾いた晶であるが、そう何度も幸運は訪れなかった。

    

 佐原南 1―1 八街富士見台


 こうして試合は、一瞬にして振り出しに戻ったのである。


 裕子は悔しそうな顔で、ぺたんと座り込んでしまった。

 実際、悔しかった。

 先制したことで油断が出たなどとは、思っていない。

 ただ、運が悪かっただけだ。

 あんな見事なクロスボールをあんな長身の選手に当てられたら、そう簡単には防げない。

 でも、自分が競り負けて決められたのは間違いのない事実。

 鈴と葉月とで取ってくれた先制点を守れなかったのは事実。

 裕子は力なく、床を殴った。


「王子!」


 武田晶が裕子に駆け寄り、横っ面に容赦のない回し蹴りを浴びせた。いや、少しは加減したのかも知れないが、とにかく裕子の身体はごろんと転がった。


「あたしだって防げなくて落ち込んでんだよ! ぼけっとしてる暇があったら、走り回って点を取って来いよ! バカ王子!」

「くそー、いってえええ。悲劇のヒロインごっこしてんのに蹴飛ばしてくんじゃねえよ、アホウ! ムード台無しだろ! もう、点取りゃあいいんだろ、点取りゃあ」

「分かればいいんだよ」

「絶世の美女を、ぽんぽん平気で蹴飛ばしやがって。まったく。このクソジャガイモ。アイダホ女が。いつか茹でるぞ、チクショウ」


 裕子はゆっくりと立ち上がった。

 ゴールへと戻る晶の背中を見て、小さく笑みを浮かべた。


 ありがとうな、晶。


 へらず口ばかりの裕子であるが、心の中では素直に感謝していた。何故ならば、実は本心から相当に落ち込んでいたからだ。


「よし、じゃあ点でも取るか。里子、カムヒア!」


 裕子は里子を手招きした。

 佐原南、選手交代。


 九頭葉月 アウト 生山里子 イン


「お疲れ」


 里子は交代ゾーンで葉月の肩を軽く叩くと、ピッチへと入った。


「鈴、あたしにどんどんパス出しなよ」

「仕切ってんじゃねえよ。でも、それでいこう。戦術は変えず、ピヴォ当て継続で。どんどん里子に預けてこう」


 戦術は変えず、といっても、葉月から里子ピヴォの性格が百八十度変わるわけで、果たしてどうなることか。と、みな不安そうな面持ちでピッチの里子を見守っていた。


 その不安は杞憂に終わった。


 里子は、謙虚には程遠いもののしっかり仲間に気を配り、全体の歯車としては問題なく噛み合っていた。


 鈴からのパスを受けた里子は、フェイントを仕掛けて横川智佐をかわした。だが、少しタッチが大きくなったところを中井真子に大きくクリアされてしまった。


 だが、佐原南の攻勢は止まらない。

 ベッキである裕子からのロングパスを受けた里子は、迷いのないドリブルで永台不美江を一瞬にして抜き去った。

 続いてベッキの中井真子をかわす。いや、かわしたつもりが、肩がぶつかりあってしまった。

 でもまあ丁度いい、とばかりに里子はよろけながらも強引にシュートを打った。


 ボールはゴレイロ倉本慶子の腰に当たり、ゴールネットに突き刺さった。


 喜ぶ佐原南の選手たちであったが、しかしゴールは認められなかった。

 先ほどぶつかりあったのを、審判は里子の守備妨害とみなし、佐原南のファールをとったのだ。


 FKを倉本慶子が蹴り、裕子が頭で跳ね返したところで、前半終了の笛が鳴った。


     9

 これから十分間のハーフタイムだ。

 選手たちはピッチを出て、ベンチへと向かう。


りん。いい感じじゃん。この数分間で、すっかり自信つけたんじゃない? ルーレットなんかやるとは思わなかったよ」


 ゆうは、鈴の天然チリチリ頭の上に手を置くと、軽くかき回した。


「この間、久樹先輩に教えて貰ったんです」

「なあに、内緒で特訓してたんだ?」


 といわれた鈴は、しまったという表情になったが、


「実はですね」


 と、開き直り、公園でよく一人練習していること、たまたま久樹と会って教えて貰ったことなどを白状した。


「へえ。鈴、えらいなあ」


 裕子はチリチリ頭をさらにかき回すと、ポンポンと叩いた。


「王子先輩、あたしのことは褒めてくれないんですか?」


 生山里子が近付いてきて、裕子と肩を並べた。


「里子、だからお前はさあ……」


 裕子は不満を口に出しかけたが、すぐ言葉を飲み込んだ。

 里子は相変わらず勝手で強引なところがあるけれども、それはそれで、なんだかんだと上手くチームに溶け込め、歯車も噛み合って来ているようだから。

 本当に大切なこと、里子がそれを掴んで、不器用なりにチームのことを考えてプレーするようになったからだろう。

 生山里子と九頭葉月という、とことん対照的な二人のピヴォ。それぞれの良いところを伸ばしていったら、来年にはどんなチームになるのだろう。

 想像するだけでワクワクする。


 ただし公約の通りであるならば、里子は一年生のうちにゆうを追い抜き、フットサル部をクリアして、来年からは違う部にいってしまうわけだが。


 それは後のこと。

 いま大事なのは、この大会をどう勝ち進むか。この試合をどう勝つかだ。


 ハーフタイムの流れは、いつもの通り。


 まず、裕子による前半戦総括。

 続いて衣笠春奈による、相手選手の押さえるべきポイントを解説。

 それを元に、裕子が後半戦の戦い方を打ち出す。


 裕子は、相手が戦術を変えてくるであろうことを予想して、手短に三パターンの指示を出した。


「多分、最初にいったやり方で来ると思うけどね。マーク、フォローをはっきりして、相手の動きには絶対に惑わされないように。練習通りやれば、絶対に勝てる。つうか、絶対に勝つ!」


 右腕を突き上げ、叫んだ。


     10

 そして、後半戦が始まった。


 わらみなみのメンバーは、

 いくやまさとゆうやまゆうしのたけあきらの五人である。


 八街やちまただいであるが、やはりというべきか基本戦術を変更してきた。


 前半途中に投入されたピヴォみなみやまの、天を突くような長身を徹底的に生かすという、前半終わり際に見せたやりかたはそのまま継続。

 変わった点は、ゴレイロのはずのくらもとけいがFPのシャツを着ているということ。代わりにゴールを守っているのは、控えゴレイロであるはしもとだ。


 やっぱり、この手で来たか。


 裕子の手には、じっとりと汗が浮いていた。

 想定していたことによる安堵よりも、これから始まるであろう激闘、気分は落ち着かなかった。


 この作戦は地区予選で、先制された八街富士見台が使った手であるらしい。


 ゴレイロの身ながらチーム内で一番足元の技術が優秀な倉本慶子がFPフイールドプレイヤーの選手として入り、決められたポジションにはつかずに縦横無尽に駆け回り、対戦相手をかく乱するのだ。


 当然、大きく空いた穴が出来るわけだが、そこはゴレイロの橋本多恵が状況に応じて上がったり下がったり、ベッキと連係をとりながら埋めるのだ。


 橋本多恵は、反射神経や飛び出しのタイミングなど、いわゆる対人守備能力には少々の難があるらしいが。


 ある意味で、捨て身の戦術といえる。

 相手つまり佐原南に対応されるようになる前に、点を奪ってしまおうということだろう。


 前半戦以上に、倉本慶子が自由に動き回れる戦術だ。

 フットサルはマンマークが基本なので、相手の選手が好き勝手に動くということは、佐原南にとって相手の守備な三枚しかないという状況も多くなるわけで、つまりは得点チャンスも増えるということ。

 そうした面もあるが、厄介であることに変わりはない。


 両チームともに失点の危険性が高まるが、そうであれば、自分らの意思で戦い方を選択している側が精神的には有利というものだろう。


 ピヴォの南山恵美子にどんどんハイボールを送る八街富士見台の作戦は、それぞれにがっちりマークについてハイボールを上げさせないことで封じるつもりだった。

 しかし、想定していたとはいえ自由に動く倉本慶子が、非常にいやらしい動きで、佐原南の死角を突いての奪取や飛び出しから、どんどん精度の高いハイボールを送り込んでいく。


 南山恵美子が頭で受けたその落としを、よこかわえのがどんどん拾っては飛び出し、シュートを狙う。


 素早いモーションからの思い切りのよいシュートながらも、二回に一回はしっかりと枠を捉えており、佐原南のゴレイロが武田晶でなかったならば、何点か決まっていたかも知れない。


 八街富士見台、奇襲奇策の引き出しが豊富で、こんな面白いチームもあるんだな。


 裕子は、素直に感心していた。


 でもね……こっちも負けないよ!


 裕子は、倉本慶子の動きを読み、横からボールを奪い取った。ドリブルで上がり、そして佐治ケ江へと繋いだ。


 信頼出来る仲間にボールを預けた裕子は、そのまま走り続け、榎木恵美の脇を抜け、前へ。


 佐治ケ江も、一瞬で横川智佐をかわすと、ゴール前へと遠目から、浮き球を上げた。裕子が感じてくれること、間に合うことを信じて疑っていないかのように、寸分の躊躇もなく。


 裕子は、佐治ケ江の期待通りに飛び出していた。

 ボールの落下地点をめがけ、全力で


 裕子の前にいるのはゴレイロだけ。あのボールに追いつくことさえ出来れば、決定的な得点チャンスを作れる。


 しかし、次の瞬間、がっと肩に衝撃を受け、よろめいていた。

 敵ではない。

 同じように佐治ケ江の上げたボールを追って飛び出していた生山里子と、肩をぶつけ合ってしまったのだ。


 里子は倒れ転がり、裕子はよろめきながらもなんとか前へ走ろうとする。


 その、よろめいた山野裕子の姿に、八街富士見台ゴレイロの橋本多恵は、一瞬で決断をし、ゴール前へから飛び出していた。


 ボールの落下地点まであと数歩というところで結局、裕子はバランスを失い、前方へと倒れてしまった。


 だが、結果的にはそれが奇跡の一撃を呼んだのである。


 床に胸から激突して、勢い余って逆エビのような体勢になった裕子の、その足の裏に、落下したボールが当たった。大きく跳ね上げた格好になった。


 飛び出した橋本多恵であったが、紙一重の差で間に合わなかった。彼女の頭上を、山野裕子が蹴り上げたボールが飛んでいく。


 枠の上を大きく越えていくかに見えたボールは、突如ドライブがかかったように急失速急降下。ワンバウンドし、無人のゴールに突き刺さった。


 佐原南 2―1 八街富士見台


 後半三分。佐原南は、山野裕子の意表を突くゴールにより八街富士見台を突き放した。


「うしゃあああ!」


 裕子は飛び起きるや、片手を天に突き上げて絶叫した。


「王子、やったあ!」


 と、篠亜由美が笑顔満面で裕子へと走り寄る。

 二人は、ハイタッチの音を響かせた。

 武田晶、そして生山里子も、二人へと近づいていく。


「王子、前々から必殺技欲しいっていってたけど、出来てよかったじゃん。しゃちほこドライブシュート」


 晶は面白いのか面白くないのか、無表情のままそういうと、踵を返して自陣ゴールへと戻っていく。


 生山里子は、技名がツボにはまったのか、腹をかかえて大笑いである。ぎゃはははは、と見る者が引くくらいの。


「やだよそんなみっともない! ギャラクシーとかプラズマとかソニックとかそんなんじゃなきゃやだ!」


 駄々をこねる裕子。


「出来ちゃったものはしょうがないですよ、王子先輩。もう一点取って、試合決めちゃってくださいよ。……しゃちほこドライブシュートで」

「うるせえええええええ! いまの得点、取り消すぞ!」


 裕子は、里子の首をしめ揺さぶりながら叫んだ。指先にどれだけの力がこめられているのか、里子の顔は青くなっていたが、それでも楽しそうにわはははと大声を上げ続けている。


「苦しい、死ぬ。笑うのやめたい! 笑うのやめたいわははははは!」

「いますぐ昇天してえか、てめええ!」


 ふざけているのか真面目なのか分からない二人である。


「試合再開出来ないから、早く位置について!」


 と、そばにいたタイムキーパーの人に叱られてしまい、肩をすくめて謝った。


 八街富士見台のキックオフで、試合再開だ。


「まだ一点差。油断するなよ!」


 裕子はみなの気を引き締め直すべく、叫んだ。

 一番引き締めるべきは、彼女自身の態度かも知れないが。


「春奈、入るよ!」


 裕子は春奈を手招きする。

 佐原南、選手交代だ。


 篠亜由美 アウト 衣笠春奈 イン


 さらに一分後、また選手交代。


 山野裕子 アウト 真砂茂美 イン

 佐治ケ江優 アウト 梶尾花香 イン


 守備固めだ。

 佐治ケ江の個人技を使ってキープさせるという手もあるが、次に備えて休ませたい。

 それに、佐治ケ江がいるとみんなが信頼してどんどん前に出てしまい、不用意な失点を招いてしまいそうだし。


 里子が不安といえば不安だが、体力の限り走り、守ってくれるだろう。フットサルは全員攻撃全員守備、当たり前のことだけど里子もようやく分かってきたようだから。


 というわけで、現状の守備システムにおいて個人技とチームワークと走力とを重視した結果がこのメンバーというわけである。


 それは裕子の予想以上にハマり、八街富士見台の選手はなかなか点の取れないことに焦りが生じたか、荒っぽいプレーが多くなってきた。


 後半九分、花香がボールを受けた瞬間、肩に肩を強くぶつけられ、転ばされた。


 直接FK対象のファールがすでに五つを超えているため、佐原南は第二PKを得た。


 キッカーは衣笠春奈だ。

 ゆっくりと、第二ペナルティマークにボールを置いた。

 腰を伸ばすと、相手ゴール、そしてゴレイロへと、視線を向けた。


 春奈は、去年の関サル地区予選で、入部してまだ間もないというのに、しかも本来はFPだというのに、ゴレイロとして途中出場したことがある。

 決定的な人員不足で選手が全員疲れていたため、ゴレイロの武田晶をFPとして使うことになったためだ。

 大会直前にゴレイロとしての教育は受けたものの、せいぜいルールを覚えたに過ぎず、第二PKを簡単に決められて失点した。


 今度は反対に、第二PKを蹴る方である。

 一年前のことが脳裏をよぎったか、それは本人のみぞ知る、であるが、とにかく彼女は、ゆっくりと深呼吸すると、笛の音と同時に助走を始めた。

 たったったっ、と短い距離をリズムよく踏み付け、そして、蹴った。


 す、と太筆で線を引くように、ボールは真っ直ぐと伸びた。


 腰を低くして構えていたゴレイロの橋本多恵は、反応し、両手で弾き上げた。

 小さく舞い上がったボールを胸に抱えようとするが、緊張のためか処理を間違え、ぽろり胸からこぼしてしまう。慌てて両手を伸ばし掴もうとするが、反対にゴールへと押し込んでしまった。


 ふわりゴールネットが揺れ、ボールが落ち、小さく弾んだ。


「ゴーール!」


 裕子が叫び、両腕を突き上げた。

 連続得点に、佐原南の部員たちがどっと沸いた。


 まさかのオウンゴールに、ゴレイロの橋本多恵は床にぺたんと座り込んでしまった。他の部員たちも、がくり肩を落としている。


 春奈は安堵のため息を吐くと、ようやく笑顔を見せ、自ら裕子たちへと飛び込んでいった。


 佐原南 3―1 八街富士見台


 こうして佐原南は、相手を突き放すことに成功した。


 八街富士見台としては、倉本慶子をFPにする攻めの姿勢が、完全に裏目に出てしまった格好であった。

 倉本慶子はFPとしても部内トップクラスの実力だが、ゴレイロとしても一番であり、このようなミスは決してしなかっただろうから。


 橋本多恵は涙目で、申し訳なさそうに深く頭を下げた。そんな彼女を、榎木恵美と倉本慶子は、笑顔で、励まし慰めている。


 このような光景を見せられると、裕子としても少ししんみりとしてしまうが、でも、そんな甘いことはいっていられない。

 絶対にこの試合に勝利して、我孫子東と戦うのだから。


「葉月、入るよ!」


 裕子は叫んだ。

 佐原南、またまた選手交代だ。


 生山里子 アウト 九頭葉月 イン


 二人は交代ゾーンで入れ代わった。


「残り時間、しっかり守るぞ。葉月、頼むよ」

「はい」


 入るなり葉月は猛然と走り、ボールを持つ相手にプレッシャーをかけ、戻させた。


 葉月投入によって現在のFPは、

 九頭葉月、衣笠春奈、梶尾花香、真砂茂美の四人である。


 個人で仕掛けるような選手がいないので、攻撃面での怖さはない。

 ただし、丁寧にパスを回していくことが目的ならば、これ以上のメンバーはないだろう。


 とはいえ、茂美の体力温存もしておきたい。

 試合時間はあと数分ではあるが、その数分でヘトヘトになってしまうこともあるのがフットサルなのだから。

 しばらく様子を見ていた裕子であったが、後半十一分、茂美を下げることを決断した。


 真砂茂美 アウト 梨本咲 イン


 二人は交代ゾーンで入れ代わった。

 FPと、ゴレイロの交代である。


 これまでゴールを守っていた武田晶は、上からFPのシャツをすっぽりかぶると、前へ出て茂美のいた位置についた。


 こうして、八街富士見台の倉本慶子、佐原南の武田晶、と、二人の正ゴレイロが同時に、FPユニフォームを着てピッチに立つことになったのである。


「任せたよ、咲」


 晶は、ゴール前に立つ咲へと振り向いた。


 咲は無言のまま、グローブの手のひらを拳でばすばすと叩いた。


 残り時間は四分、八街富士見台の選手たちは失点の危険も恐れずに、果敢に上がってくる。


 当然だろう。

 このままの点差では、敗退してしまうのだから。

 あと二点を取れば、延長戦に持ち込むことが出来るのだから。


 怒涛の攻めを受け、佐原南にはリードしているという心理的余裕はまったくなくなっていた。


 八街富士見台に諦めた様子はまったくなく、残りの体力を振り絞って次々と、前へ前へと仕掛けていく。


 心理的余裕のない中でも、ただ跳ね返すだけでなくしっかりボールを回すのは、佐原南の部としての成長であろうか。本人たちは、ただひたすらガムシャラにやっているだけなのだろうが。


 とにかくこの、激闘と呼んでも過言ではない気力と気力のぶつけ合いに、いつしか観客席はしんとなっていた。


 残り時間と得点差を考えれば、有利なのは明らかに佐原南だ。


 しかし、八街富士見台のあまりの気迫に、もしも一点入ったならば、立て続けの得点で一瞬で逆転が起こりそうな気さえする。

 観る者にそう感じさせるような、そんな気迫に満ちた戦いが眼下のピッチ上で行われており、それが観客たちを息詰まらせているのだ。


 まるでスポーツ漫画のような展開も、その心理に拍車をかけているだろうか。

 武田晶と倉本慶子、二人の正ゴレイロが、FPのユニフォームを着て、ピッチ上で身体をぶつけ合っているのだから。


 前半にも、一時的にゴレイロ同士が攻め上がって、二人が対峙したことがある。

 その時は、晶が見事にボールを奪うことが出来たが、基本的な足元の技術はほぼ互角、いや、わずかながら倉本慶子が優れているだろうか。


 その技量に気迫が乗ったか、今度は倉本慶子が、晶からボールを奪い取った。


 奪い取った瞬間、長身ピヴォの南山恵美子を目掛けて、遠く浅い角度からアーリークロスを上げた。


 南山恵美子は後方からのボールを振り返り確認しながら、ゆっくり前へ走り、そして、跳んだ。


 倉本慶子から送られた絶妙な高さ絶妙なタイミングのクロスボールに、上手く合わせて思い切り頭を叩きつけた。


 いや、一瞬前までそこに存在していたはずのボールが不意に消失して、彼女のヘディングは単に空気をこすっただけだった。


 飛び出した梨本咲が跳躍し、ボールを両手にしっかりとキャッチしていたのだ。


 着地。

 バランスを崩してペナルティエリアを踏み越えてしまいそうになる咲であったが、ぐっとこらえながら、晶へと丁寧にボールを転がした。


「咲、ナイスキャッチ! よかったよ!」


 晶は咲からのボールを受けると、前を向き、走り出した。

 倉本慶子のなりふり構わぬ突進振りが視界に入ったか、晶の顔が引き締まる。

 突進をぎりぎりまで引きつけると、春奈へとパスを出した。


 春奈は、晶からのボールを受けた。と、その瞬間、永台不美江が肩からぶつかってきた。タックルというよりボールを奪おうとして、身体を止められずに当たってしまった格好だ。

 春奈は足をぐらつかせながらも持ちこたえると、反対に、永台不美江を肩で弾き飛ばしていた。


 笛が吹かれた。

 故意に乱暴なプレーをしたとして、春奈にイエローカードが出された。


「どうした、春奈?」


 裕子は心配そうな表情で尋ねた。


「……お父さんに子供扱いするなってよく怒鳴っちゃうけど、でもほんと、子供だ」


 春奈は苦笑した。

 裕子は、なんとなく理解していた。

 弱い、と思われることに過剰反応を見せてしまう彼女は、相手の激しいプレーについムキになって負けん気の強さをぶつけてしまったのだろう。


「ごめんね。やり返さなければ、あっちにカードが出たかも知れないのに」


 謝る春奈。

 永台不美江は既に一度警告を受けており、もしももう一度受けたならば、退場である。


「いいよ、そんなん気にしなくて。いつでも正々堂々、それが佐原南のフットサル」

「そうだね。じゃあカード出たのがあたしでよかった」


 春奈はまた笑った。今度は苦笑でなく、心から楽しそうに。


「さて、と、セットプレー、絶対に防がないとな」

「そうだね」


 佐原南は、先ほどの春奈のプレーにより、犯した直接FK対象のファールが後半六つ目になり、八街富士見台は迷わず第二PKを選択した。


 キッカーは主将の榎木恵美だ。

 祈るような表情で、第二ペナルティマークにゆっくりと近付き、ボールを置いた。

 ゴール前を見つめたまま、後ろに下がりボールとの距離をとる。

 視線の先にいるのは、佐原南のゴレイロ、梨本咲だ。腰を低くして構え、瞬きひとつせず榎木恵美の顔を見ている。


 笛が鳴った。


 榎木恵美は短く助走し、ぶんと足を振りボールに爪先を叩き付け、そのまま振りぬいた。


 ボールは、大砲のごとき爆音を上げて打ち出され、唸るようにゴールへと迫る。


 右上隅へと突き刺さろうかという、まさにその瞬間、咲は右手によるパンチングで弾き上げていた。


 ボールはゴールラインを越えた。


 一難を逃れた佐原南であるが、また一難、今度は八街富士見台のCKである。

 キッカーは、再び榎木恵美だ。


 佐原南は、ハーフタイムに裕子が指示した対策法の通りに、長身の南山恵美子を警戒して壁を作った。

 あまりそちらに注意を向けても、裏をかかれてしまうかも知れない。分かってはいるが、対策しないことには、それこそ堂々とその長身を利用されてしまうだろうから。


 裏をかくか、かかないか、結局はその二択なのだ。

 どっちにも油断ないように気を張っておけばいい。


 と、裕子は考えていたのだが……


 八街富士見台主将の蹴ったCKは、果たして裏をかくものであった。と、それは予期していたものの、そのレベルがまさかここまでとは考えてもいなかった。

 ボールは長身の南山恵美子をターゲットにしたハイボールではなく、低くて速いボールであった。

 それは針の穴を通すような精度で、九頭葉月と武田晶の間を突きぬけていた。

 次の瞬間には、突き抜けた先へと後方からマークを外した横川智佐が飛び込んで、倒れ込みながらヘディングシュートを狙ったのである。


 やられた……


 佐原南の誰もがそう思っただろう。

 だが、頭で合わせられるその直前、飛び出した咲が倒れ込みながらキャッチしていた。

 密集により完全にブラインドになっていたため、まるで反応が出来なくとも不思議のないものであったが、彼女は神経を研ぎ澄まし、音や、選手たちの反応などから咄嗟に状況を判断し、飛び出したのであろう。


 だが、しっかりと掴めてはおらず、床に倒れ込んだ衝撃でボールをこぼしてしまった。


 横川智佐は、そこを逃さずボールにさっと走り寄り、思い切り足を振った。


 咲は倒れた姿勢のまま、横川智佐のシュートボールを真上に蹴り上げていた。

 見えていたのか、ガムシャラに振った足に当たっただけなのか、いずれにしても見る者を唸らせる凄いセーブ、勝利への執念であった。


 頭でねじ込んでやろうと、南山恵美子が落下地点へと入り、ボールを見上げ、タイミングを計る。


 そうはいかない。と、咲は素早く起き上がると高くジャンプして、今度はしっかりとボールを両手で掴んだ。


「咲、サンキュー! 凄かった! 佐原の神!」


 ピッチの外から、裕子が叫んだ。


 咲は、くすぐったいような笑みを浮かべたが、はっとしたように、いつものむっつり顔に戻った。

 あらためて、ほっと安堵のため息をついた。


 佐原南のゴールクリアランス。

 咲は手を振って味方を遠く敵陣に追いやると、助走のため後ろに下がった。


 反射神経や、経験で晶に劣る咲であるが、長身によるハイボールの処理と、遠投なら負けない。

 自信を持って、走り、ぶんと腕を振り、ボールを投げた。


 受けたのは武田晶である。背後にぴたり密着されたが、すっと動きかわしながら前を向き、浮き球のパスを前線へと送った。


 九頭葉月が、胸で受け、落とした。

 油断をしていたというわけではないのだろうが、ゴレイロの橋本多恵に後ろから寄られ、ボールを奪われてしまった。


 橋本多恵は大きく蹴り、ボールは一瞬にして佐原南陣地へ戻ることになった。


 ボールを追い、走る選手たち。


 一番先に辿り着いたのは、武田晶であった。

 ボールとの間には、他に何人かの選手がいたが、おそらく瞬間的に落下地点を計算し、迷うことなく走り出したのだろう。

 狙いドンピシャ楽々と胸トラップする晶であったが、だがその瞬間、横川智佐に突き飛ばされ、転ばされ、ボールを奪われてしまった。


「ファールだろ!」


 と、裕子が怒鳴ったのは、笛が鳴らなかったからである。

 鳴らなかったが、どう見ても突き飛ばしている。ファールだ。

 審判からはよく見えず、晶が勝手にもつれただけとでも取られたのだろう。


 審判の判断が全て。八街富士見台はセルフジャッジで足を止めることなく、横川智佐から榎木恵美、矢野麻衣子へとワンタッチで次々とパスを繋げていく。

 完全に佐原南守備陣を置き去りにした矢野麻衣子は、ドリブルの速度を落とし、シュート体勢に入った。


 だがその足が振り抜かれようとする瞬間、全力で飛び出した咲が、スライディングでボールを弾き飛ばしていた。

 ボールはタッチラインを割って、二階の客席へと飛んでいった。


 咲は立ち上がると、ぎゅっと拳を握り、叫び、自身に気合を入れた。


 決定機を逃した八街富士見台。

 いまのこの攻撃が、最後の決定機だった。


 佐原南のパス回しが、落ち着きを取り戻してより安定してきたのだ。


 簡単には、八街富士見台へとボールは渡らなくなっていた。

 パス回しといっても、後方での引きこもったものではない。

 前線で回す。前線へと送る。隙あらば得点を狙う。はっきりと攻撃の意図を持ったパス回しだ。


 守備は攻撃、攻撃は守備。

 引退した木村梨乃先輩がよくいっていた言葉。

 佐原南のチームプレーは、いままさにその言葉を体現していたのである。


 前線の葉月が、ポストプレーでボールを持った。


 その背中にぴたり密着した中井真子が、襟首を掴んで強引に身体を入れようとするが、葉月も巧みに腕を使い、回り込ませない。

 イライラしてしまったか、中井真子の膝が、葉月の腿に激しく当たった。

 葉月は倒れるが、ボールを奪われる直前、顔を苦痛に歪めたまま、必死に足を伸ばして蹴り出し、タッチラインに逃れていた。


 その瞬間であった。

 長い笛の音が鳴ったのは。


 ファールを取った笛ではない。

 試合終了の、そして、佐原南の勝利を告げる笛の音であった。


 客席から、歓声が上がり、拍手が起きた。


 佐原南の部員たちも、それに実感を呼び起こされたようで、遅れて、


「勝ったあ!」


 と、喜び騒ぎだしたのであった。


 葉月はゆっくりと立ち上がると、蹴られた腿を軽くさすった。


 観客席から、葉月のお父さんがドンドンと太鼓をかき鳴らしている。


「葉月ィ、やったあ、勝ったあ! 佐原南ィ! 葉月~! はっづっきいいいい!」


 隣席の木村梨乃たちも思わず引いてしまうような、そのあまりにも凄まじい父のはしゃぎように、葉月は長いため息をついた。


「ほんと、恥ずかしいなあ。あたし、なんにも役立ってないのに」


 小声で呟くと、でもちょっとだけ満足げな笑みを浮かべた。

 裕子部長がすぐそばで見ていることに気付いて、その笑みは一瞬でコチコチに固まってしまったが。


「謙遜すんなよ。葉月のピヴォ、とても安定していたよ」

「そそ、そうでしょうか」

「なにより先制点で均衡破ったの、葉月じゃんか。予選で茂原藤ケ谷から大量点奪ってるような相手からさ。あの時間に先制出来てなかったら、焦りからうちらもボロボロにやられていたかも知れないんだから。ほんと、よくやったよ」


 裕子は、葉月の身体をぐいと引き寄せると、背中に手を回してぽんぽんと軽く叩いた。


「よし、みんな、こっち集まれ!」


 裕子は部員たち全員を招き、輪になって手を繋いだ。


「全員で掴んだ勝利だ。この勢いで決勝大会、絶対に優勝すっぞお!」


 裕子は屋根も落ちよとばかりの大声を張り上げると、右拳を高く突き上げた。

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