第一章 唐突な幕開き

――二月十四日――

 マンションの前で、日野原ひのはら紫杏しあんは深呼吸し、口を開いた。

『冷くん、おはよう』

 本を読みながら歩いて来た冷くんこと桔流きりゅう冷一れいいちは、同じマンションの住人であり、幼なじみでもある紫杏の挨拶に、顔を上げもしなかった。

『……おはよう』

 無愛想に返事だけ寄越す。

『……』

『……』

 他に誰もいない通学路を、二人はしばらく無言で歩いた。この時間、この道を歩いて登校するのは紫杏と冷一だけなのだ。

 並んだ冷一の横顔を、そっと観察してみる。大き過ぎる黒縁の眼鏡。全然似合っていないが、彼に変える気はないらしい。

 時間が経過する――このままでは学校に着いてしまう。着いてしまう前に、話さなきゃ。

『あのね、冷くん』

 紫杏は沈黙を破って切り出した。

『――今日、バレンタインでしょ……』

 冷一は紫杏の提げている紙バッグをちらりと見て、ため息をつきながら本を下ろした。

『お前な。いちいち俺に相談に来るなよ』

『は?』

『俺は協力しないからな。バレンタインのチョコくらい、自分で好きな相手に渡せ』

『な、何言ってるの。そうじゃなくて、これは』

『小学校の頃とは違うんだ。もうすぐ中三だぞ』

 紫杏の反論を無視して、冷一は喋り続ける。

『いつまでも俺に頼りっぱなしでどうする? いくらお前が落ちこぼれでも』

 ――今、それ、関係ある?

 紫杏は足を止めた。二人の間に距離が開く。

 ――確かに私は冷くんに頼りっぱなしだけど。確かに私は落ちこぼれだけど。だけど今度のバレンタインは、一人で頑張ってチョコ買いに行って、勇気を出して告白しようと思って。それなのに、それなのに……。

『冷くんのばか!』

 捨て台詞を残し、紫杏は冷一の前から走り去った。

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