〈8〉修行(後編)

 翡翠を引き連れるようにして鼻歌を歌っている彩羅は、立石寺の境内へ入ることも、山道を登ることもしなかった。


 一度線路を跨ぎ、コンクリートで舗装された道路を歩き続けること十分弱。



「はい、到着う! この石段を登った所だよん」



 んっ、と両手で伸びをした彩羅は、スキップをするような足取りで鳥居をくぐっていった。

 彼女が背伸びした際に見た、道着越しにも判るほどのスタイルの良さに、稽古をする前から完敗したような気持に苛まれながら、翡翠も後に続く。


 一つ目の石段を抜けた踊り場部分には、線路が横切っている。警報機も遮断機もない、簡単な舗装だけの踏切を、無駄にきょろきょろとしながら飛び越えた。

 木々で生い茂っており、踏切からは向こう側を見通すことができなかったため、本堂のような長い階段を登らなければならないのかと身構えていたが、案外目的地はすぐそこだった。



「さあて、この辺りでいいかしらねえ」



 彩羅が足を止めたのは、石畳の上。両脇には灯篭があり、奥のほうにはお堂がある。



「ここ、どこですかー? 本堂じゃないですよね」


「んっとねえ、ここも本堂なの」



 お参りを済ませて振り返った彩羅は、悪戯っ子のように舌を出した。



「ごめんね、意地悪だったよねえ。ここは立石寺ではなくて、千手院の本堂。最上三十三観音の一つで、千手観音様が奉られている場所だよん」


「千手観音……おおーっ!」



 翡翠は小さな拍手で盛り上げた。聞き覚えのある名前が出たことで、この場所がとても格式高い場所に思えたからだ。……実際に格式は高いのだが。

 ぱん、と彩羅が手の平を打ち合わせる。



「まあ、お勉強はあとあと! 時間も勿体ないしい、早く面をつけちゃおっ」


「はいっ、お願いします!」



 飛びつくように面をつけ、翡翠は境内の中央で彩羅と向かい合った。



「おお? 初心者だと聞いていたけど、いい構えだねえ。まずは一本、来てみようか」



 面をつけても、彩羅の朗らかな表情は色褪せることなく見える。そんな、同性から見ても綺麗な顔に打ち込むのは気が引けたが、稽古でそうも言ってられないことなど重々承知。

 翡翠は思い切って飛び込み、すぱん、と面布団の中央を捉えると、そのまま重心を落としたところからの肘で体当たりを決めた。


 真っ向から受け止めた彩羅は、さすが実力のある剣士というだけあってか、数歩たたらを踏んだものの、すぐに持ち直して笑った。



「はあ、すごい、パワーばっつぐん! うんうん、今ので翡翠ちゃんの力は大体掴めたかなあ」


「えっ、今のだけで!?」



 あけすけに言われては、さしもの翡翠も笑顔が眩みそうになった。確かに初心者ではあるのだが、この一ヶ月でついた力はあるつもりだったのだ。


 しかし、ぐらつく自信に戸惑ってなど、いられなかった。



「それじゃあ、次は私からも仕掛けるよん。どうして私が千手観音様の祀られる場所に来たのか、どうして私が『妙音』と呼ばれるのか――照覧あれ」



 穏やかに弧を描いていた彩羅の目が、すうっと細められたかと思うと、もう間合いは詰められていた。否。間合いを詰められていただけではなく、小手まで掻っ攫われてしまった。



「なっ、速っ!」



 しかし、相手が小手を打ったことで、身体の距離は近くなっている。好機を逃すまいと、翡翠は体当たりで崩しにかかった。

 しかし、ちょうど彩羅の方向へと体転換した位置の喉元に、剣先がつけられていて動けない。



「正眼は水。水とは足。流るるがままに自在。身より湧き剣先から奔る気は、常に相手へと流れり。繋がる線にして、断ち切る閃にもなり得る。人、此れを『人の構え』と云う――」



 離れようとしても追いつかれてしまう。横方向への足捌きで脱しようと試みたが、今度はその着地点を先回りして打たれてしまった。



「くっ、う……!」



 竹刀を払いのけて、何とか間合いを切ることに成功した。すると彩羅は、剣先をおもむろに下げ、下段に構えてくる。



「(面ががら空きっ!)」



 翡翠は初めて戦う構えに戸惑ったが、剣先が下方を向いているということは、少なくとも攻撃的な構えではないだろうと踏んで飛び込んだ。

 しかし、流れるように間合いを詰めてきた彩羅が振り被ったかと思うと、翡翠の手から、竹刀がもぎ取られてしまっていた。


 宙に描く放物線を眺めていると、面金越しに、眼前へと竹刀を突きつけられる。



「下段は土。しかして足は根に非ず、乾き固まること能わず。地が震えるが如く足下より攻め立て、花が咲くように柔らかく天を衝く。人、此れを『地の構え』と云う――」



 からん、とやや遠い場所に竹刀が落ちる音がした。

 翡翠は脱兎の如く抜け出し、竹刀を拾う。この距離ならば体勢を整えられる。先ほどのような足捌きでも時間を要するはず。しかし、さあ仕切り直しと振り返れば、鍔を右の口元に添え、八相に構えた彩羅が飛びかかってきていた。



「なななっ!?」



 辛うじて受け止めることができ、ほっとしたのも束の間。斜めに叩きつけるような重い一撃は、防御した竹刀ごと、面を打ち据えてきたのだ。安心した隙もあって、翡翠はたたらを踏む。



「八相は木。其の物にして、それを育む陽気でもある。味方に恵を与え、敵を枯らす風。故に無形。盾を翳されど、必ずやその安堵を射止めん。人、此れを『陰の構え』と云う――」



 一気に打ち込んできたかと思えば、彩羅は歩み足で一気に後退していく。



「負けるもんか!」



 翡翠は即座に追い縋った。最早走っていると言ってもいい。

 迎え撃つ彩羅は、顔の横で構えていた竹刀を、右腰の後ろへと回していた。


 翡翠は口元を吊り上げる。思い出した。彩羅がとっている構えは、道場にあった教習本の、剣道形のページで見たことがある。今、相手がとっている構えは『脇構え』。そしてそれは、刀の時代に、自分の得物のリーチを読まれないように考案された構えだったはず。


 だが、現代剣道においては竹刀の長さに規定が設けられている。高校生じぶん一般あいての竹刀の長さは異なるが、その間合いも、ここまでの攻防である程度は把握していた。


 翡翠はおおよそ一足一刀の間と思われる場所まで詰めて、左足を蹴り出す――しかし、またも先に面を打ち込まれてしまった。



「えっ、何で……」


「脇構えは金。己が手の内を隠す陰に非ず、敵の間を奪い思考を惑わす光なり。我を見失い、在らぬ隙を好機ととる敵を誘い、閃光の如く打ち払う。人、此れを『陽の構え』と云う――」



 呪詛のように紡がれる彩羅の言葉に、翡翠は顔を顰めた。

 自分が掴んでいたと思っていた間合い。それは同時に、相手も掴んでいたのだ。当たりをつけてから飛び込むこちらと、最初から想定して立ち回る相手では、勝負になるはずがない。


 しかし、脇構えは防御の構えなどと本に書いたのはどこの誰だ、などと恨んでいる暇もなく。



「私の『妙音』とは弁財天の別名なの。八手に異なる武器を携え、優雅な気色にて舞う守護神よん。智慧に彩られた武技、翡翠ちゃんに見切れるかなあ?」



 近寄ろうにも近づくことができず。逃げようにも逃げさせてはくれない。千変万化の彩羅の構えに、翡翠は完全にからめ捕られていた。






 * * * * * *






 旅館を発ってから一組だけ、立石寺方面へは行かずに駅を挟んだ反対側へと回っていたペアがいた。咲と真澄である。大きな背中をちょこちょことついて行く親子のような構図は、熊注意の看板を抜け、山の中へと入っていった。


 道中、稲荷大明神を祀った岩の前に差しかかったところで、唸り声が聞こえてきた。山道をのっしのっしと進みながら、熊がこちらを睨んできている。



「春になって下りてきたか」



 真澄は動じる様子もなく言うと、赤い鳥居の影に咲を隠し、おもむろに熊の前へと進み出る。



「すまぬな。暫しの間、この土地を使わせてほしい」



 向かい合うと熊の大きさがよく分かる。巨体とはいえ、あくまで女性の真澄より、ゆうに一回りも大きかった。

 厄介なことに、熊は子供を連れている。しかし、警戒に睨めつけてくる目にも、真澄の表情は穏やかさを保っていた。



「迷惑はかけぬ。どうか、解ってはくれないか」



 ついに熊の目と鼻の先まで近づいた彼女は、その頭を撫で、首元を擦りだす。

 咲は信じられない光景を目の当たりにした。熊はさっきまでの敵意が嘘のように身を翻し、それどころか真澄に背を向けて、来た道を帰っていったのだ。



「今の、エキストラ……?」



 口では強がってみるが、心の中では、真澄の力に畏怖を抱いていた。


 その後も鎖などを登って進み、辿り着いたのは、馬口岩の展望スペース。



「うむ。ここにしよう」



 前方に奥羽山脈があり、山寺も一望できる素晴らしい景色を背景に、真澄は微笑んで見せた。



「はじめは防具も要らぬ。さあ、来い」


「え……来いって、言われても」



 竹刀袋から抜いた竹刀を悠々と構える彼女に、咲は唇を震わせた。

 無理なのだ。展望スペースとはいえ、そこは所詮突き出した岩の上に柵を立てただけの代物で、足場が悪いなどというレベルの話ではない。


 柵自体にも不安はあった。膨らんだ岩の頂点付近を足場にしているため、手すりは斜面部分に立てられている。少しでも体重を外にかければ、落下は免れない。



「打ち込んでこい。心配するな、拙は頑丈だ」



 別に防具がないことを心配しているわけではないとぼやきたくもなるが、その言葉すら、咲の震える唇から紡がれることはなかった。

 それとも、この足場についての問題は、そもそもの前提なのだろうか。



「怖いか。だが、動け。動くことは、止まらぬことではない。同時に不動も、動かぬことではないのだ」


「……禅問答?」


「そのようなものだ。さあ、来るがいい」



 微笑む真澄が口にした思想が、彼女が『不動』と呼ばれる所以なのだろうが、いかんせん、来いと言われても体が反応しないのだ。


 震える足で必死に踏ん張り、なんとか竹刀を構えることに成功した時、咲は自分の身体の異変に気がついた。

 既に息切れをしていたのだ。山に登ったせいか、恐怖のせいか、動かなくてはと急かされているからかは解らない。システマ仕込みのバーストブリージングで回復しようにも、それを圧倒的に上回るプレッシャーのせいで、呼吸がおぼつかない。


 これまで無尽の体力を駆使して動き回る剣道を狙ってきた。そして、今もそれを求められているのだろう。動けと、そう言われているのだ。



「(動いて……動いて、動いて、動いて……!)」



 しかし、その祈りが通じることはなかった。

 咲は一本も打ち込むことなく、また一本も打ち込まれることなく。巨躯の前に、膝をついた。






 * * * * * *






 截拳道の習得に一区切りがついた李桃は、少しの休憩をとった後で、面をつけての稽古に移行していた。しかし、稽古が始まり、立ち合いから三十秒足らずのこと。



「おい、どうした! そんな程度で、よく殺人剣を防ぎたいなんて言えたな!」


 こちらの肝まで震わせるような紅葉の怒号に、李桃は吹き飛ばされていた。

 面を打っては体当たり、空いた距離で面を打って体当たり。拳を使って面ごと刈り取るような衝突の連続に、ついに岩肌へと激突する。



「ぐっ……ああっ……」



 打ち付けた背中が、岩盤に沿ってずり落ちる。朦朧とした意識の中で、紅葉がこちらを見下ろしているのが見える。

 少しずつ回復していくピントが、その双眸を捉えた瞬間、背中が跳ねた。



「ひっ……!?」



 闇。闇だ。千葉直刃のことをフラッシュバックすることすら許されない、殺気という言葉では足りない暗澹たる漆黒の瞳に、全身が戦慄する。


 これが『悪鬼』としての紅葉の顔。いや、彼女は本当に紅葉なのだろうか。



「いやああああああああっ! !」



 悲鳴を上げながら、闇雲に飛び上がった。

 しかし、面を狙う竹刀は真正面から切り落とされ、逆に一本を取られてしまう。竹刀が交錯する瞬間、自分の竹刀を正中線に押し込み、相手の竹刀を外すことで一方的な打突を可能にする高等技術『切り落とし面』。


 李桃は中途半端な体勢で受けたこともあって、再び崩れ落ちる。悄然と見上げた面を掴まれ、さらに投げ出された。



「立て、李桃!」



 投げられたとはいえ、近い距離にいるはずの紅葉の声が、ずいぶんと遠くに聞こえる。

 ふらふらと立ち上がると、その瞬間を狙って突かれ、再び転倒させられる。



「おいこら、立て!」



 左の小手を脱ぎ捨てた紅葉から、面金の隙間に指を引っかけて引き摺り上げられる。しかし、そのまま起こしてくれるわけでもなく、頭から地面に叩きつけられた。

 完全なる暴力。成す術など、何もなかった。



「うぅ……ああ……」



 声にならない悲鳴を上げてのた打ち回りながら、李桃はなんとか、岩壁を見つけて手をかける。もたれるようにして何とか体を起こすと、焦点の定まらない剣先を紅葉に向けた。



――そのための稽古となれば……オレがお前を殺すつもりでやるってことだぞ?



 あの時、自分は紅葉の言葉に頷いた。分かっていると答えたはずだ。


 だからこれは、自分が望んだこと。



「ほう、立ったか」



 嬉しそうに嗤う眼に、李桃は目を閉じて対抗した。目を合わせるから怖いのだ。



「やああああああああああああっ!」



 気勢十分に目を開く。まだ体が怯え出す前に足を蹴り出せ。

 しかし、決死の面打ちもまた、真っ向から切り落とされた。腰が引けて前のめりになった姿勢のまま腹から落下したせいで、内臓に鈍い衝撃が伝わる。もう、立ち上がることも困難だ。



「今日はここまでだ」



 そんな声がかけられたかと思うと、面紐を解かれた。面を外してもらった視界に映っていた紅葉の顔は、いつも通り優しげなもので。



「帰りの山道は歩けるか?」



 そう、手を差し伸べてくる彼女に、李桃は動かすことさえ億劫な首を、小さく振ることしかできなかった。

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