〈5〉合宿

 一夜明けて、放課後。稽古が始まる前に、李桃は紅葉へと決心を告白していた。



「お前、自分が何を言っているのか分かっているのか?」



 師範用の椅子に腰かけながら、怪訝な声で訊ねる紅葉に、李桃は下げていた頭を上げる。



「も、もちろんです! 紅葉先生言ってましたよね。截拳道の『截拳』とは、相手の攻撃を遮るということだって。あたしは、殺人剣を遮るために剣を振りたいんです」



 借りて帰った『燃えよドラゴン』の映画を、特典のドキュメンタリーまで視聴した上での決断だった。剣道と截拳道の大きな違い。それは『截』という言葉の概念だと気づいたからだ。


 いつか姫芽香から言われた言葉『打って反省、打たれて感謝』という教えにも、打つか打たれるかという二極しかない。万人で切磋琢磨しようとする活人剣はもちろん、一を殺すことで万を助けようとする殺人剣でさえ、そこに、悪から身を守るという選択肢はない。

 苦難という火を涼しいと思える程に心を錬成する。いわば、仏教でいう悟りのようなものだ。



「それで、オレの『悪鬼』と呼ばれた力を借りたい、と。当然、千葉を見据えてのことだろうが。そのための稽古となれば……オレがお前を殺すつもりでやるってことだぞ?」


「はい。分かってます」


「そうか」



 唇を噛みしめることも、視線を逸らすこともない彼女から、紅葉は探る視線を外す。そして、各自の準備を進めていた他の部員たちも呼び寄せると、にっと歯を見せた。



「明日から山寺で合宿を行う。前から計画はしていたんだが、大江実業との一件で中々言い出せなくてな……急な連絡で悪いが、ゴールデンウィーク中、徹底的に鍛え直すぞ」



 その言葉に、スケジュールを指折り数えていた翡翠が小首を傾げた。



「それはいーんですけど。まだ四月ですよ。ゴールデンウィーク?」


「……アホか。新元号に変わって、十連休になっただろうが」



 頭を抱えた紅葉の嘆息に、瑠璃がつられて苦笑する。それでもとんと分からないといった様子の翡翠に、姫芽香たち二年生が笑いかけた。



「五月一日が、新天皇即位に伴う祝日――つまり、現在でいう十二月の天皇誕生日みたいになるのよ。そこで隔日に祝日が発生するから、四月三十日と五月の二日もお休みになって、さらに今年は二十七から二十八までが土日だから――」


「計十日。最強」



 水入りウォッカ瓶にごきゅごきゅと喉を鳴らしながら、咲もブイサインを掲げてみせる。



「うふぇぇ、そんな貴重な休みが消え……いや、稽古があるんですねっ!」



 李桃の慌てた言い直しににやにやしながら、紅葉は思い出したように手を打った。



「もう一つ朗報があったな。合宿にはゲストコーチに来てもらうことになってる。奴らの中には土日関係ない仕事をしているのもいるが、わざわざオレたちに合わせて、有給とってまで来てくれるお人好しどもだ。楽しみにしてろ」



 李桃たちは大きな声で返事をした。ゲストコーチという響きには緊張するが、紅葉が連れてくる人間であれば、少なくとも不安はなかった。



「一週間の合宿かぁ。ワクワクするねっ」


「何を持ってくー?」


「とりあえず、稽古道具一式と着替え、洗面用具は必要ですよね」



 一時解散した部員たちは、準備体操で体をほぐしながら、予定の話に花を咲かせ始める。



「山寺ともなると、虫よけのクリームも欲しいわね」


「……ミルクケーキ、買い足す」



 そんな彼女たちへ、紅葉が師範席から、口元に手を添えて叫んだ。



「おうお前ら、言っておくが、勉強道具も忘れるなよ?」


「「うっ……」」



 李桃と翡翠が硬直する。勉強という響きには不安しかなかった。






 * * * * * *






 週末。李桃が合宿の荷物を部屋から玄関まで運んでいると、軒先にハイエースが到着した。

 運転席以外にはまだ、人の姿はない。



「李桃、荷物はトランクにつけておけ」


「はーい!」



 降りてきた紅葉に指示されて、李桃は今しがた置いたばかりの荷物を担ぎ直す。余談だが、荷物を『つける』とは、山形で頻繁に耳にする方言である。荷物はつけ、ガソリンは詰め、ゴミは投げる。県民の間では常識だが、それ故に、県外に出て恥をかく山形人も少なくない。



「ほほ、もう出発の時間だか」


「ナツ先生。ご無沙汰しております」



 見送りに出てきた祖母へと、紅葉が深く頭を下げる。

 李桃はその様子を横目に、防具袋やボストンバッグを積むべくハイエースのトランクを開けた。そこには既に、紅葉のものと思われる荷物と、防具袋があった。

 ついに彼女の剣が見られるという実感に、李桃は緩みそうになる頬を引き締める。トランクを閉めると、舞い上がった風が前髪をくすぐってきた。



「紅葉ちゃん。自分の剣は、見えだがや?」


「はい。まだ道半ばですが、目的地ははっきりと」


「んだか」



 自分が戻っても、祖母と紅葉の話は続いている。李桃はそこでようやく、我が家が一番最初に回られた意味に気づき、抑えていた頬がまた緩みそうになった。



「合宿を通して、李桃には先生から教えていただいた剣を伝えるつもりです。まず、どこまでやれるか分かりませんが……」


「自分を殺しながらも、懸命に歩んできた紅葉ちゃんだからこそ、できることもあるべ」



 祖母は紅葉の前で姿勢を正すと、静かに、頭を下げた。



「李桃をよろしぐ頼むなっす。紅葉先生」



 その言葉に紅葉の目がはっと見開き、すぐに閉じられたかと思うと、やがて再び開かれた瞼から、揺れる瞳が覗く。



「恐縮です」



 紅葉が返した言葉は『かしこまりました』でも、『任せてください』でもなかった。

 そんな一掬の涙を見ないふりして、祖母はあっけらかんと李桃を指差す。



「少すくれぇ駄 目 にやじゃがねぐすでも構わねえがらよ、もまえするくらい、ぎっづく稽古つけてけろな」


「ふぇっ? おおお、お婆ちゃんっ!?」



 不意打ちだった。そんなふうに煽られてはどんな恐ろしい稽古が待っているか分かったものではないとパニックになる李桃に、祖母は飄々と笑いながら背を向けた。

 かつての『果樹王国の女王』は、衰えてはいなかったらしい。






 車載の時計が十四時を過ぎた頃には全員が揃い、一行は国道13号線を南へ向かっていた。

 サッカーチーム『モンテディオ山形』のホームグラウンドである総合運動公園の前を過ぎ、天童市と山形市の境になる川の付近で左折すると、辺りはあまたの工場や倉庫が軒を連ねていた。ここまで来れば、もう目的地までは真っ直ぐである。



「ねーねーヒメっち。山寺って、観光スポットなんだよね?」


「そうよ。といっても、レジャー向けの場所ではないから、人も少ないんじゃないかしら」


「じゃあじゃあ、秘境ってやつだねっ!」


「山籠もりの特訓といえば、必殺技ですね!」


「いや、それはどうなのかしら」


「……でも、最強」



 車窓にべったりと貼りついている李桃たちに、ハンドルを遊ばせていた紅葉が苦笑する。



「気楽なもんだな。ま、今のうちにはしゃいでおけ」



 工業団地を抜け、山の斜面に沿うような道に突入すれば、そこは山寺街道。市街とは打って変わって、いかにも田舎という風景が広がった。家こそ少ないが、歩道をジョギングしている元気なお婆さんも見受けられる。遠くに構える木造校舎は、小中併設された特認校のものだ。

 しかし、どうやら李桃たちの視線は、風土の趣を感じる木造校舎よりも、その前を流れる川に釘付けらしかった。



「ふぉぉ、川だーっ!」


「この辺りですと、立谷川ですね」


「もう少し奥へ行くと、紅葉もみじ川に切り替わるのよ。面白山の渓谷の方なら、紅葉の時期じゃなくても滝を見に来る人とか、多いんじゃないかしら」



 そんな紅葉の説明に、翡翠が首を傾げる。



「紅葉川って……もしかしてセンセー、それで合宿先を選んだ?」


「んなわけあるか!」



 くわっと、バックミラー越しにも分かるほどに目をひん剥いた紅葉が吼える。



「それよりも左見ろ、左! この上が山寺だぞ」



 立谷川に架かる大橋を抜けると、その斜面の雄大さに、誰もが息を呑んだ。

 宝珠山立石寺。さすが山寺と呼ばれるだけあって、数ある堂のいずれもが自然の景観に溶け込んでいた。ここら一帯は桜よりも紅葉の名所として知られており、山を彩る緑も、松や杉といった老木たちによるものだ。

 岩を彫ってまで堂を設け、数多の修験者が行を積んだ霊刹。いや、霊峰というべきだろうか。伽藍のみならず、そこへ至る道や剥き出しの岩肌を含めたこの土地こそが山寺である。



「すごい……」



 李桃は景観から目を離すことができなかった。車内にいるために感じることはできないが、松尾芭蕉が記したように、音が吸い込まれていくような厳かさがある。その神秘的な雰囲気だけでも、心の雑念を吸いとり、澄み渡らせてくれるような気さえした。


 幼虫たちは顔を出したばかり。まだ、蝉の声はない。






 * * * * * *






 今日から一週間寝泊りすることになるのは、山寺駅前にある民宿だった。

 到着してすぐに李桃たちが取り掛かったのは、荷下ろしである。



「オレンジのボストンって、誰のー?」


「あっ、あたしあたし! 今取りに行くね」



 途中で洗濯が可能とは聞いていたが、一週間分もの荷物となれば結構な量になる。寝具には学校指定のジャージを用いるだけでいいが、かさばる道着は替えが必須。それに加えて、ただでさえ場所をとる防具袋と竹刀、救急箱まであっては、相当なものだった。


 一旦ハイエースの外に荷物を並べた李桃たちは、額の汗を拭う。よくもまあ、ハイエースの中にこれだけのものを積載できたものである。



「じゃあ、紅葉先生に部屋割りを聞いて、中に運んじゃおうか」



 そう言って、李桃がどっこいしょ、と声を上げながら自分の荷物を担ぎ上げる。しかし、横着して全ての荷物を一度に持とうとしたことで、後ろによろけてしまった。



「うわ、わ、わわっ!?」



 転んでしまう――。背負った防具袋で自分への衝撃は緩和されるだろうが、大事な道具を粗末に扱うようで気が引ける。それでもどうすることもできず、ぎゅっと目を瞑った。

 すると、身体が倒れる間隔がふっと消失した。どうやら、足は着いているようだ。



「怪我は、ないか?」


「あ、ありがとうございま――ふぇっ!?」



 頭上からの声に振り返ろうとして、思わず悲鳴を上げそうになった。いや違う、上げた。

 自分を受け止めていたのは、ボディビルダー並みに筋肉質な巨体の男性だったのだ。


 ……いや、これも違うか。



「(瑠璃姉。あれ、おっぱいだよね……?)」


「(そうですね。髪も長いですし、香水かシャンプーの香りもしますし……)」


「(どう見ても、男より強そう)」



 遠巻きの翡翠たちまでが呆気にとられ、確信を得られずに囁き合う。

 筋肉のせいで体温が高いのだろうか。まだ春だというのにタンクトップを纏う巨体は、長い髪は自然に乱れるがままぼさっとしており、さながら幽鬼のような様相だが、スパッツの腰元には、可愛らしいピンクのラインが入ったスカートが穿かれている。ただし、そのピンク以外は上下ともに真っ黒だ。


 正体を暴いて来いと仲間たちに押し出された姫芽香が、おずおずと尋ねる。



「あの、失礼ですが……女性の方、でしょうか?」


「う、うむ。拙は一応……女だ」



 巨体は照れたように、こくりと頷いた。






 * * * * * *






 一方、紅葉はチェックインを済ませるために先行していた。



「すみません、全部屋を丸一週間も」


「ふふ。本当ならお断りするんですけどね。私も昔、剣道を嗜んでいたものですから」


「へえ、そうだったんですか」



 帳簿に名前を書いていると、にわかに上階から足音が聞こえた。その主の心当たりに、紅葉はボールペンのノック部を額に押し当てる。



「李桃たちは外だっつーことは……」


「やっと来たのね、紅葉」


「なんだ、美由紀か」



 階段を下りてきたのが美由紀だったことに、紅葉は少しだけ、驚いたような顔をする。てっきり、もっと騒々しいもう一人が下りてくると思っていたからだった。

 そんな彼女の心中を知ってか知らずか、美由紀は唇を尖らせた。



「なんだとは何よ。こっちは自分の学校の合宿、副顧問にぶん投げて来てあげてるのよ?」


「そりゃ悪かったな。……それで、他の奴らは?」


彩羅さらは、凛やお母様と先ほど着いたばかりね。そろそろ下りてくるはずよ。真澄ますみは……散歩がてら実家へ顔を出すって言っていたけれど。見なかった?」


「うんにゃ?」



 道すがらの景色を思い返しながら、紅葉は首を振った。これほど閑静な山の中で、人がいれば目につくものだとは思うのだが、見かけたのはせいぜいジョギング中の老婦人くらいだろうか。勿論、件の人物はそんな年齢ではない。



「まあ、あいつは律儀だからな。待ってりゃ来るだろ」



 言いながら、帳簿へ名前を書き上げてしまう。

 ふと、そこへ底抜けに明るい声が飛び込んできた。



「紅葉先生ぇ! 荷物運ぶの、手伝ってもらっちゃいましたぁ!」



 振り返った紅葉は、李桃の隣で自分の荷物を担いでいる巨体を一瞥して、



「今見つけた」



 美由紀へと肩を竦めてみせた。

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