〈6〉剣風

 黒板を走る、軽快なチョークの音だけが武道場内を支配していた。打ち鳴らし、滑らかに滑り、跳ね上がる。まるでダンスのようだと、全員が次の一角をじっと見守っていた。

 やがて舞を終え、ことり、とチョークが元あった場所へ戻った時、誰かが息を呑んだ。



「それでは今日の稽古をはじめるぞ。テーマはこれだ」



 そう言って、紅葉が曲げた中指の関節でコンコンと叩く。

 機先。黒板には、その二文字が大きく書かれていた。


 王将ホテルで遭遇した一件は、日曜日をまたいで週が明けても、伊氏波高校剣道部の部員たちの胸に深く影を落としていた。

 紅葉が道場へとやってくるなり取るものも取らずに詰め寄り、秘策の指示を仰ぐ部員たちに、しばし腕を組んで黙考した彼女が武道場の入口側の壁にある黒板へ向かい、今に至る。


 李桃たちはもう一度、書かれた文字を頭の中で反芻した。

 文字通り、機に先んじる、という意味。剣道においては、これを制することができるかどうかが、そのまま勝敗に直結するといわれる程、重要視されている概念である。



「はいセンセー!」



 元気よく手を挙げた翡翠に、紅葉は眩暈を堪えたような顔で眉間を押さえた。



「まだ何も始めていないんだがな。……まぁいい、なんだ」


「ウチらは大江実業に勝ちたいっていーましたよね。稽古をつけてくれないんですか?」



 全員が抱いていたであろう疑問を、右手を挙げたままの翡翠が代弁する。表情には焦燥の色がありありと浮かんでいた。



「お前こそ話を聞いていなかったのか? オレは『今日の稽古をはじめる』といったはずだ」


「いや、その、えっと……」



 冷たい反論に、伸ばされた手がしゅんと萎んでいくのに、「冗談だ」と紅葉が苦笑する。



「お前たちが言いたいことも解る。だがな、今のお前たちにこそ、こうした座学が必要なんだよ。考えてもみろ。向こうも道楽で全国トップの地位を得たわけじゃない。それこそ必死で稽古を積んでいる。

 こっちも同じように稽古を激しくしたところで、どれほどの差が縮まるんだ?」


「ですが、竹刀を握らないでいては、差は広がるだけではないのでしょうか?」


「だから頭を使うんだよ、瑠璃」



 彼女は口元を緩ませると、黒板の中央に書いた『機先』の『機』を丸で囲み、右側に線を伸ばして、『臨機応変』の字とコネクトしていく。



「お前たちも『無心』という言葉は耳にしたことがあるな? 説明するまでもないとは思うが、あれは『馬鹿でも何も考えず遮二無二やってりゃ勝てる』なんて言葉じゃない。いいか、心を無にして勝負に臨むことと、何も考えないということでは天と地ほども差があるんだ。

 臨機応変も同様に、そもそも自分に何ができるか理解していなければ、臨んだ機に対して何もできん。突然スーパーパワーが降って湧くアニメの世界じゃあないんだ。考えて考えて考えて考えて、火事場の馬鹿力のような偶然の産物を、狙って起こさなきゃならないんだよ」


「自分に何ができるか、ですか……」


「私たちはただ無謀に足掻こうとしていただけだったのね……」



 至極もっともな理屈に、瑠璃と姫芽香がうな垂れる。そんな彼女たちへとかけられた「顔を上げろ」という声は、気恥ずかしそうな、優しげなものだった。



「厳しい言い方になるのはすまないが、その。オレも大江実業の顧問とはちょっとした面識があってな。お前たちには負けてほしくないんだよ」



 紅葉は頬を小指でかきながら、視線を上の方に逃がして、続ける。



「オレも截拳道ジークンドーなら齧ったことはあるが、正直、システマだのエスクリマだのムエタイだのと並べられても、お手上げだ。何より、そっちの技術はお前たち自身が一番詳しいだろうしな。

 だから、オレは『剣道』を教える。機先について話を戻そう。まずは簡単なところから、新米剣士に答えてもらおうか。先を取るとはどういうことか。瑠璃、言ってみろ」



 指に挟んだチョークを向けて指名される。



「ええと、相手の行動を読んで、先手を打ったり逆手にとったりすること、ですよね」



 正解だ、と目だけで紅葉が頷く。普段だらけている時と同じジャージ姿だというのに、奥で鈍光がぎらつくような双眸は、紛れもなく、歴戦の剣士のそれだった。



「瑠璃が答えた通り、『相手の行動を読む』ことが先をとる上で非常に重要となる。では、相手のどんな行動を読めばいいのか。これは大きく分けて三つあると言われている」



 黒板の左側に、やや間隔を空けて『せん』の文字が縦に並べられた。



「次は経験者に考えてもらおう。李桃、三つの先、答えられるか?」



 教師から当てられるということがめっぽう苦手な李桃は、反射的にげっ、と顔を顰めた。早くも『先』がゲシュタルト崩壊を起こしそうな空っぽの頭をうんうんと振りしぼる。



「ええと、『先の先』と『後の先』はわかるんですけど。あとは……『先々の先』、ですか?」


「ほう、よく挙げきったな。ところで姫芽香、『先の先』と『先々の先』の違いは何だ?」



 紅葉は正解とも不正解とも告げることなく、視線を李桃の隣へと移していく。



「前者は、打ち込んで来ようとする相手の動作の先を制すること。後者は動作の起きる前。打ち込もうと考え、攻めの準備をする時点で制することだと思います」



 姫芽香の答えに、紅葉は一瞬驚いた顔をした後で、短く拍手をした。



「意地の悪い質問だったが、さすがは居合の名手といったところか」


「い、いえ。……そだな大したことでねぇっす」



 褒められて恐縮してしまったことで発動した訛りモードに、雰囲気が和らぐ。



「いや、本当にいい答えだと思う。八十点をやろう」



 紅葉が黒板の『先』の前に書き足した文字は、しかし、李桃と姫芽香が答えたものとはわずかに異なっていた。



「三つの先は、早いものから『先の先』『ついの先』『後の先』があると言われている。今日はこれらについて話そうと思っていたんだが……李桃がいいものを挙げてくれたからな。定義に二つ、追加することにしよう。『先々の先』と『後々の先』だ」



 縦に並べられた三種の『先』の上下にそれぞれ、新たなワードが書かれていく。



「ひとまず『先々の先』は飛ばして、『先の先』から説明するぞ。これは、相手が仕掛けてこようとする気持ちを見抜き、その動作が起こる前にこちらが制することだ。実は、姫芽香の言った『先々の先』の内容は『先の先』でしかない。とはいっても、これでも十分早いんだがな。

 ちなみに、この意識を最も持つべきなのは、咲。お前のシステマだ」


「意識を、持つべき……?」


「そうだ、『無心』の話だよ。お前のスピード溢れるスタイルは魅力的だが、それを以てどんな試合運びをするか、これからの稽古の中でしっかりと考えることが大切だ」



 こくんと、頷き一つで返す咲。相変わらずリアクションこそ薄いが、天啓を得たような彼女の表情が、その心境を十二分に表していた。


 今日の座学がどういう意図によるものか、次々他の部員たちの胸にも浸透していく。

 動きのある稽古よりもずっと白熱しているかもしれない、静にして動の座学だった。



「『先々の先』へと戻ろう。相手の出ようとする気持ちを制す『先の先』よりも早い。言葉で表せば『相手が出ようとする気持ちが起きる瞬間』を制し、相手に何もさせず打ち倒すイメージだ。

 これができるのは一閃の抜き打ちに長けた居合道――姫芽香、お前だ」


「はいっ!」


「次に『対の先』だな。文字通り、相手の動きに対応するものだ。相手の出てきたところに先んじて、攻撃が自分に届く前に制する。

 これはスタンダードに、李桃の課題だ」


「は、ふぁいっ!」


「そして『後の先』。相手が起こした動作に対応すると言う意味では『対の先』と変わらないが、こいつは、相手の攻撃に『応じ返す』タイプの先になる。

 この意識は二刀を駆使した瑠璃に持ってもらおう。ただし、待ちの剣道にはなるなよ。気持ちでは常に攻めることを忘れるな!」


「かしこまりましたっ!」


「ラスト、『後々の先』! 『後の先』のさらに後であるこいつは、相手の攻撃を読み、躱し、勢いを完全に殺した後での一撃で制するものだ。下手をすれば押し負けてしまう、この最も難しい先の取り方を意識すべきなのは――」



 益々ヒートアップしていく紅葉の語気に誘われるように、翡翠の頭がわくわくに揺れる。



「該当者なし!」



 だんっ、と手のひらで力強く黒板が叩かれたのと、翡翠が――いや、他の部員達を含めて、ずっこけたのはほぼ同時だった。



「あ、あのー……ウチは?」



 縋るような目で尋ねるが、素知らぬ顔で肩を竦められてしまう。



「まぁ、お前の剣風は、このいずれかに当てはめることはできないからな」


「ええーっ、なんでなんでっ!?」



 大げさに驚いて見せる翡翠をよそに、紅葉は余白に『崩』という字を書く。



「ムエタイの攻撃性や破壊力は目を見張るものがあるが、剣道において肘や膝の打撃が許されないことは知っているだろう?」


「うん、耳タコーってくらい聞いたよ。だから体当たりとかに応用したんじゃん」


「その通りだ。だが、フェイント技なんかにも言えることなんだが、これらは先をとっているとは言い難い。なぜなら、機先を制しているならば、強引に揺さぶる必要はないからだ。

 しかし、どうしても攻めきれなかったり、反撃の隙を与えてくれない相手もいる。そこで出てくるのが『崩す』という技術なんだよ。先ではなくとも、重要なことだぞ」


「えー、ウチもカッコよく先をとって戦いたいー!」



 駄々をこねてばたばたと貧乏ゆすりを始めた翡翠の肩へと、瑠璃がそっと手を置いた。



「これは翡翠ちゃんの強みなんですよ、自信を持ってください」


「そうね。相手が機先を制してこようとする中で、同じ土俵に上がらずに自分のペースで試合ができるんだもの。大きなメリットよ」


「この間の試合でも、相手の子が戸惑っちゃってたもんね」


「ん。正直、戦いたくないタイプ」



 周囲から口々に称えられ、ようやく腑に落ちたらしい翡翠は、そっか、とだけ短く、照れくさそうにはにかんだ。つられて、李桃たちも笑いだす。

 そんな光景を、壁に背中を預けて眺めていた紅葉が、



「……『妙音』、『不動』。約束通り、面白いものを見せられそうだぞ」



 不敵に一人ごちた言葉は、生徒たちの耳に入ることもなく、隙間風に溶けていった。



「よし、お前ら。今話したことをよく頭の中で考えろ。それを試合に『無心』で出せたら上出来だ。そのために、明日からの基本の技稽古も考え方を変えろ。元立ちと掛かり手なんて悠長な形式にするな。攻めが甘かったら容赦なく叩き潰せ、隙があれば元立ちから打ち込んだって構わない。『稽古は試合のように、試合は稽古のように』だ、やれるな!?」


「「「「「はいっ! !」」」」」



 道場内に響き渡った意気込みの威勢の良さからは、大江実業の精鋭たちに対して彼女たちが抱いていた恐れや怒り、不安や焦りといった感情が拭われてさえいるようだった。


 しかし、この時は彼女たちの誰もが考えもしなかっただろう。もちろん、紅葉でさえも。

 先週末のことは偶然などではなく――


 自分たちの喉笛には、既に牙が立てられているのだと。

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