陽炎の太刀(中)

 それから数刻後のことである。


 からくもヴェラスへと辿り着いたミリアルデとイルザであったが、関所で手形の開示を求められ、足止めを食らった。都市部では人間と積荷の出入りは厳しく管理されている。たとえ貴人といえども身許を詳らかにして、通行税を納めなければ、城下へ立ち入ることは許されない。


 二人は血糊を拭う間もなく駆け込んだため、役人から警戒の眼差しで見られたが、事情を説明すると、その視線は一転して驚きに変わった。


「なんと、あのガラフを仕留めたのか。そりゃあ大したものだ」

「本当に有名なんだ。てっきり自称とばかり思ってた」


 ガラフの仰々しい名乗りを思い出したミリアルデの呟きに、役人はかぶりを振った。


「有名なんてもんじゃない。奪う、犯す、殺す。なんでもありの大罪人さ。槍術に長け、逃げ足も速く、頭も切れる。自警団もすっかりお手上げでな、皆、ほとほと頭を悩ませていたところさ。それを討ち取るとは、人は見かけによらないものだな」

「手下の何人かは逃亡しましたが?」


 イルザが補足すると、役人は笑って答えた。


「なに、腕が立つのはガラフだけで、残りは烏合の衆って話さ。あとは自警団が残党狩りをする。それで決着だろう」

「おい、馴れ馴れしく口を利くな。……相手は貴人だぞ」


 手形を検めていたもう一人の役人が、同僚の横腹を肘で打つ。ミリアルデは苦笑した。


「ああ、大丈夫。気にしてないから。貴族といっても、まだ騎士見習いだし。身分を気にするような身分じゃないもの。ねえ、もう通っていい?」

「失礼しました。どうぞ、お通りください。ようこそ、ヴェラスへ」


 役人に見送られ、手続きを終えた二人は門を潜った。


 街は既に薄闇の中であった。あちこちで赤々と松明が灯り始め、道端で客寄せに励んでいた露天商たちも、店じまいの準備を始めている。民家から立ち上る炊煙と夕餉の何とも言えぬ良い匂いが、一日の終わりを告げているようだった。


 二人は手早く旅籠を手配すると、公衆浴場に向かうことにした。


 本来ならば、物資の調達を優先して然るべきであるが、この暗がりでは商品の良し悪しは判じ難い。また、それを逆手にとって、売れ残りや粗悪品を押し付ける性質の悪い売人も存在する。もともと急ぐ旅でもない。翌日まで待ち、納得がいくまでよく吟味したものを購入する方が確実であった。


 酷く空腹であったが、先に風呂を済ませることを切望したのはミリアルデである。真剣を用いた斬り合いの後は、被った血肉で何かと体が汚れるものだ。ベルイマンの流派では“心身の不浄は太刀筋の不定に繋がる”と固く信じられており、嫡子として教育を受けてきた彼女は、戦闘後の禊を半ば義務のように考えていた。道中は、湿した布で体を拭いて済ますより他なかったが、街へ辿り着いた今、しきたりを疎かにはできない。


 イルザもまたベルイマン家の臣下の一員であり、主人の提案に異を唱えることはない。二人は店主に荷物を預けると、連れ立って旅籠を出た。


 夜の帳に覆われた街並みを、ミリアルデは軽やかに歩いていく。事実、彼女の装いは、先刻とは打って変わって軽装であった。城門の外ならいざ知らず、都内では、ある程度の治安が望めるので、心置きなく武装を解くことができるのである。今は、具足の類を一切取り外し、得物も革帯に挿した大小の太刀を携帯しているのみだ。


 太刀というのは素肌での戦闘に適した武器である。携帯性に優れ、軽量で、扱い易い。加えて、刀身が反っているため、僅かな力で引くだけでも皮肉を裂くことができる。体格で劣る女子供の護身用としては、実にうってつけのものであった。


 その反面、太刀は装甲を断つことに関しては甚だ不向きである。冶金技術の向上と製造技術の発達で、金属製の甲冑が台頭し始めた昨今において、太刀は廃れ気味であり、重さで打ち断つ剣の運用が見直されている。刀の衰退と、剣の復古の時勢なのだ。


 ミリアルデが実戦で太刀を用いるのは、ベルイマン家の伝統という側面以上に、女児であり、小柄で非力という己の資質を冷静に鑑みての決断であった。もし、自分が人並みの筋力を備えていたならば、現代戦の風潮に従って、剣の扱いを学んでいただろうと、彼女は考えている。とはいえ、両者に優劣があるわけではない。剣には剣の、太刀には太刀の使い途があるだけだ。事実、ミリアルデは剣で武装した悪漢どもをその太刀で一網打尽にしている。


 公衆浴場に到着したミリアルデは、まず番台に衣服の洗濯を依頼した。湯屋は大量の水を扱うため、洗濯屋も兼ねていることが多いのである。


 主従二着分の洗濯料と借り着代を支払うと、勘合板を渡された。借り着は、預けた衣装の洗い張りが終わるまでの間、貸し出される衣服のことである。金は余分に取られるが、衣装の持ち合わせが少ない旅人には重宝される仕組みであった。一方、勘合板は二枚一組の板のことで、洗濯を頼んだことを証明するものである。


 女湯の暖簾を潜ると、そこは脱衣所であった。ミリアルデとイルザは血糊で汚れた衣と下着を脱ぐと、竹編みの籠に入れた。その上に番台で受け取った勘合板の片割れを置き、もう片方は失くさぬよう手首に紐で結ぶ。風呂を出る頃には、借り着と入れ替わっているはずである。仕上がり時に、もう片方の板を提示することで、正しく自分の衣装が戻ってくるという寸法であった。


 ミリアルデは腰まで届く長い金髪を丁寧に纏め上げると、大浴場へと足を踏み入れた。広々とした石造りの湯場は一日の勤めを終えた衆生で溢れ返っている。個人で湯殿を所有することが贅沢とされる現代、公衆浴場は庶民にとって数少ない娯楽場であり社交場でもあるのだ。


「さすが、伯爵家のお膝元。活気があるわねぇ」


 思い思いに湯浴みを楽しむ人々を見て、ミリアルデが感服した。さてこそ、イール地方の中心都市である。公共施設の水準の高さから、領主の善政と市井への理解が伺えるようだった。


 冷たい石畳の感触を足裏で楽しみつつ、ミリアルデは大きく伸びをした。幼い顔立ちに不釣合いな、たわわに実った二つの膨らみが悩ましげに揺れる。浴室は男女が柵で隔たれているとはいえ、胸や股間を露わにすることにまるで抵抗を感じていない様子であった。身分の高い子女は、常に周囲の視線に晒されて生活するためか、羞恥の感覚が庶民のそれとは全く異なるのだ。


 周囲から息を呑む音が聞こえた。彼女の美貌に中てられた人々によるものだ。


 ミリアルデの裸身は貴顕の血統に相応しく壮麗であった。磁器のように滑らかで、潤いと弾力に満ちた肌。たっぷりとした量感を湛えつつも、重力に背いて上向きに張り詰めた豊満な乳房。しなやかに括れた腰つき。贅肉の欠片もない精悍な下腹部に、きゅっと引き締まった小尻から伸びる、逞しくも艶のある太股。その色香は食べ頃の果実を思わせる。わずかに残る青い瑞々しさと、熟れた甘みが並存する、眩いばかりの女盛りであった。


「左様でございますね」


 付き従うのは、同じく一糸も纏わないイルザだ。


 ミリアルデの色気が若々しく爽やかであるのに対して、彼女のそれはむせ返るほど濃密で薫り高いものであった。きめ細かく、しっとりと濡れた柔肌。控えめだが、伏せたお椀のように盛り上がった形の良い乳房。少し力を加えればぽきりと折れてしまいそうな儚い腰つきは、硝子細工の美しさだ。華奢な体幹とは対照的に、たっぷりと脂が乗った臀部と太股は齢を重ねた女だけが醸し出せる芳醇な色香。食めばとろりと果肉が滴る、熟れた果実の魅力である。


 ミリアルデは二、三度湯を掛かると、石鹸をつけた手拭いで桃色に染まった体をこすり始めた。目を凝らせば、全身の至るところに傷があるのが見て取れる。湯で温められて、古傷が浮き出たのだ。


 幼少の頃より剣の修行に明け暮れていたミリアルデは、日頃から生傷が絶えなかった。ある時は木刀で打たれて骨を折り、またある時は真剣で肉を裂かれて大量に血を流した。傷を縫ったのも一度や二度ではない。苛烈な修行はミリアルデの身体に生涯消えぬ傷跡を残したが、彼女はそれを悔いたことは一度としてなかった。痛みを乗り越えて掴み取った強さもまた、生涯消えることはないからだ。


「お嬢様、お背中をお流しいたします」

「ありがとう。お願いね」


 イルザは自らの乳房に石鹸の泡をからめると、ミリアルデの背中に押し付け、そのまま弧を描くように洗い撫でる。


「ねぇ、イルザ。いつも思うんだけど、どうしてそんな洗い方なの?」

「お嬢様の麗しいお背中に、傷をつけてはいけませんから」


 満身創痍のミリアルデであったが、背中にだけは一切の傷がない。それは、彼女が一度も修行や実戦から背を向けたことがないことの証左であった。武芸者としてのこの上ない誉れを、粗末なものを使ったばかりに台無しにしてしまう愚を犯すことは、側仕えとしての矜持が許さない。故に、イルザは主の背部を己の乳を用いて丁寧に洗うのである。


 体を洗い終えた二人は泡を流して湯船に浸かった。湯加減が絶妙で、長旅の疲れが全身から溶け出るようだった。


「明日は買い出しに行かなきゃね」


「左様ですね。蟲除けに保存食、武具の手入れも依頼しなければなりません」


「何かとお金がかさむわね。まだしばらくは大丈夫だと思うけど、路銀が心許なくなってきたかな。いっそ、奴らの身包み剥いでおけばよかったか」


 数刻前に戦った追い剥ぎたちを思い出す。あの頭目が振るった大身槍などは、なかなかの一品ではなかったか。もっとも、あの状況でそんなことをしている余裕はないのだが。


「お言葉ですが、お嬢様。“鷹は飢えても穂を摘まず”と申します。近い将来、騎士の末席に名を連ねる者として、また、ベルイマン家の後継者として、そのような軽はずみな発言はなさいませんよう、お願い申し上げます」

「不謹慎だったわね、ごめんなさい」


 イルザの諫言に、ミリアルデは素直に謝罪した。


 平原が大部分を占める諸国において、山岳を擁する数少ない国家であるレスニアでは、猛禽は気高さの象徴である。王国騎士団に配備される武具の類に鷹や鷲の名が冠せられるのは、かくあれかしという思いの表れなのだ。


「とはいえ、先立つものがないと不便だからね……さて、どうしたものか」

「考えてどうなるわけではありません。今は、湯浴みを楽しみましょう」

「そうだね」


 風呂を出た二人はさっぱりした顔で宿に戻り、女将が用意した食事を摂ると、質素だが清潔な寝床でぐっすり眠った。



 +++



 ヴェラスに滞在して二日目の早朝。朝靄の晴れぬうちから、ミリアルデとイルザは宿の庭先を借りて組手と組太刀の稽古を一刻ばかり行った。


 イルザは侍女という立場ではあるが、譜代武家の一員として剣や槍、弓といった武芸を修めている。中でも短剣の扱いに長け、その腕前は、追い剥ぎの眉間を射抜いた投擲術を見ての通りだ。剣のみの実力を問えばミリアルデが勝っているが、総合力で言えば、積み重ねた経験と技術が円熟しているイルザのほうが一枚も二枚も上手である。


 木刀を振るう二人の表情に疲労の陰りはなかった。ミリアルデは、どれほど肉体を酷使しても一晩で完全に回復する。漲る若さと、日頃からの激烈な鍛錬の賜物であった。


 稽古を終えて少し遅めの朝食を摂ると、二人は旅支度を整えるために市へ繰り出した。


 露店の並ぶ街路は人々の活気に満ちていた。食料品や衣類、食器、武具、珍しい交易品などがいくつも並んでおり、実に華やかで、見飽きない。


「おお、昼間はまた別格の賑やかさだね」


 思わずこぼれた感嘆の声さえ、喧騒にかき消されていく。


「左様ですね。私も、これほどの賑わいは目にした事はございません

「やっぱり、うちって田舎だったんだなぁ……」


 モリスト地方も由緒正しき土地柄ではあるが、レスニア王国においては東の果て。僻地といっても過言ではない。郷里においては、これほどの人の波が見られるのは、祭りの日くらいなものだった。


「呆気に取られても仕方ないわね。さ、やることをやってしまいましょう」

「御意に」


 二人は雑踏に紛れて、買出しを始める。


 手に入れなければならないものは幾つもあった。まず、旅をする上で欠かせない蟲除けの香草、次に保存食だ。そろそろ雨季が近づいてくるので、水馬の皮で作られた雨衣も買い足しておきたいところである。それらの質と値段を照らし合わせ、納得がいくものをミリアルデは買い叩いていく。


 二、三軒をじっくりと見物したところで、二人は昼食を摂ることにした。


 屋台で頼んだのは、油菜や山菜に衣をつけて油で揚げたものを、米と麦を半々にして炊いた飯に乗せ、甘辛いたれをかけたものだ。


 揚げ物のからりとした衣を噛むと、熱くて旨い汁気がじゅっと溢れる。鼻腔を潜るにわずかに漂う花の香りが実に風流で、えもいわれぬ幸福感で満たされた。


「もし、そこのお嬢さん」


 二人が揚げ物に舌鼓を打っていると、ふいに声を掛けられた。白く塗装された硬革鎧を纏い、腰の革帯から長剣を下げた、三十がらみの男である。


「あら、自警団が何の用?」


 自警団とは軍事力の不保持を義務付けられた貴族が、領地の治安維持のために組織した実力部隊である。兵員の規模や装備などの基準が法に定められており、それに則って編成される。荒事もこなさねばならないため、退役軍人や兵役経験者、傭兵などが就くことが多かった。


「食事中に悪いねぇ。ちょっと話を聞きたいんだけど、いいかな?」

「話?」


 男は、無精髭が生えた顎をさすりながら、続けた。


「関所から、ガラフなる追い剥ぎを倒した、旅の武芸者が入城したって報告があってね。現場を確認させてもらったわけよ。遺体は犬やら蟲やらに食われていて、人相は分からなかったけど、ありゃあ間違いなくガラフだわ。だって、あの大身槍、うちの備品だもの。情けない話だけどね、前に一度小競り合った時、奪われちゃったのよ。上からはかんかんに怒られてさぁ。でさ、ガラフを討ち取ったのってお嬢さんたちで間違いない?」


 ミリアルデとイルザは一瞬顔を見合わせた。はぐらかしても良かったが、結局は素直に応えることにした。


「ええ、まあ」

「あら、そう。自警団を代表して、礼を言わせて貰うよ。そのついでと言っちゃ何だけどね、ちょっと頼まれてくれないかな。お前さんの武勇伝、伯爵の耳に入ったみたいなんだよねぇ」

「はぁ」

「お前さんの腕前を見たいんだと。面倒臭いだろうけどさ、こっちの顔を立てると思って屋敷に招かれてくれないかなぁ?」


 貴族が屋敷に旅の武芸者を招くのは珍しいことではない。食事や宿を提供する代わりに情報を提供してもらったり、他の土地で自分の評判を高めてもらったりするからだ。それに加え、自らの子弟に他流の武術を学ばせる、良い機会でもあった。


「つまり……御前試合ってこと?」

「いかにも、だねぇ」


 その返答に、ミリアルデが深く微笑む。各地の武芸者と剣を交えることこそ、武者修行の醍醐味だからだ。


「相手は?」

「うちの若手。強いよ」


 その返答に、ミリアルデは意外そうな顔をする。


「あら、あなたじゃないの?」

「勘弁してくれないかなぁ。もう歳なんでね。あんまり無理はしたくないの」

「……まあ、いいわ。わかりました。お受けしましょう」

「日取りはどうする?」

「なら、三日後にしましょう」

「あいわかった。では、当日、宿に迎えを寄越すから、そのつもりで」


 そう言うと、男は去って行った。


「面白くなってきたわね。イルザ、急いで太刀の手入れができる職人を探すわよ」

「御意に」


 ミリアルデは興奮気味に飯の残りをかきこむと、台に銅貨を数枚置いて立ち上がった。

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