32 夢の解釈(7)快楽と善

前略

 ぼくの議論はきみの反感を買ったようだ。「これ以上この話をあなたと議論していても、わたしには不利益しかもたらさないようです」と、きみは憤慨した調子で書いている。主婦はよく井戸端会議で姑の陰口を叩くが、あれは楽しいからしているのだとばかり思っていたが、ちがうのか。

 まあ、どっちだっていいが、きみが続けたくないという話を無理強いしようとする気持ちは、ぼくにはぜんぜんない。とはいえ、きみもなんだかんだ言って、続けてぼくを攻撃しているのだから、子供を虐待するような外道と引き比べても祖母の立場はぜんぜん良くならないし、天国にいる祖母もそれを喜ばないということをひとこと言い添えておいても、悪くはとられまい。

 それにしても、きみはずいぶん前にぼくが書いたことを引き合いに出して、ぼくの人格を攻撃したものだ。さすがに面食らったよ。「快楽を悪として否定するのは、ばかげている云々」というのは、ちょっと言ってみただけで、あまり真面目に取らないでほしいわけだが、火のないところに煙は立たないとも言うし、きみにあらぬ誤解を与えてしまっていたようだから、この機に釈明しておく。

 ぼくは快楽を礼賛し、悪を肯定しているわけでは断じてない。快楽と善が直結しないという、人間にとって甚だ不都合な事実を指摘しているまでだ。

 道徳とは、なぜかくも人間にとって退屈な試練であるのか。善行の勧めとして、教師は子供たちに『善いことをすれば気持ちがいい』くらいのことしか言ってやることができない。本当に気持ちがいいのか? 年寄りに席を譲って『わしが年寄りに見えるのか!』と恫喝されたというような話もある。この事例は、極端ではあるが、気持ちがいいかどうかは、総じて相手の反応によって決まるということを教える。無反応は行為者の心を冷たくさせ、他人のためにあえて何かをしたいとは思わなくなる。

 むろん逆の例もあるわけだが、ひとたび硬直してしまった人間の心に、善良であろうとする意志を奮起させることがいかに難しいことか。カントは「いやいやながら」と言った。これが成熟した大人の本音なのだろう。道徳的な行いは、ひどく不味い野菜を我慢して食べることに似ている。立派なことではあるが、しなくても別に責められることではない。他人からの褒賞がまったく期待できない場面では、特にそうである。

 快楽と善は直結しない。人間社会において善がほとんど稀にしか行われないのは、善行は、その労力の割に、見返りが少なすぎるからである。善い人間であることと、幸福な人間であることは、しばしば両立しない。厳密には、善い人間などいない。善くあろうと努力する人間がいるだけだが、善良であろうとする努力は、自身の幸福の追求をおおむね阻害する。心の貧しい人ほど、物質面での利益を最大化できる。経済学の理論は、すべての人の心は貧しいという想定の上に成り立っているのが実情だ。

 善行の見返りを求めることは、動機として不純であるという反論は、むろん正しい。善行とは、見返りを求めないことが原則だからである。しかし、この意見がなぜ正しいかを、人は言うことができない。これは、熱力学第二法則がなぜ正しいのか人が言うことができないのと、ちょうど同じである。道徳というものは、放っておけば崩壊の方向に進むものであるが、なぜそれが逆ではないのか。説明を試みてみよ。納得のいく理解が得られることはなく、説明は無理だということがわかる。説明できないものを説明しようとしているのであり、下手に説明しようとすれば、卓越したものをより劣ったものに基礎づける誤りに陥ってしまうだけだ。

 ぼくらが住んでいるこの世界は、善行の報いが存在しないような世界である。これはこの世界に関する基本的な事実であり、この世界に生きるぼくらはこの事実を受け入れるしかない。この世界における善は、ダイヤモンドのように、純粋に光り輝き、またその希少性のゆえに、賞賛に値する。なんと不都合なことか。善が空気のようにありふれたものだったら、人間は息を吸うように、他人に親切にすることができたであろうに。

 神が世界を創造したのだとすれば、どうしてもっと善い世界にしなかったのか。多くの宗教は、善行の報いを来世の幸福に求めるが、それも致し方ないことだとぼくは言おう。もしぼくが神であったなら、善いことをした報いに、幸福が恵まれるような世界を創造したにちがいない。善良な人々が不幸の海に沈むような事態は、本来あってはならない。太陽が東に沈むことがありうべきことでないのと同じく、あってはならないことなのである。

 徳福一致という考えは、ただの理想にとどめておくには、あまりにも惜しい。『善人には幸福を。悪人には不幸を。』因果応報は、奇跡や法律などではなく、自然の法則としてあってしかるべきだ。そうなっていないのは、真に残念なことである。慚愧に堪えない、忸怩たる思いとはこのことだ。むろんぼくは神の親戚でもなんでもないがね。道徳の形而上学に思いをはせるとき、ぼくは心からそう思うんだよ。

 以上はすべて、言っても仕方のないことであった。ともかくは、ぼくが悪を肯定しているのでないことが、きみにわかればよい。   草々

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