毒が蛇を殺す日

「で、先生。どうするのさ」

 高梨の言葉には、精一杯の威嚇をしてくる弱い生き物でも見るような響きがある。

「——どうもこうも、ねえ」

 先生は、ぞんざいな言葉遣いのまま。むしろ、こちらが素の姿なんだろうと思う。

 いや、先生に、素なんてあるのか。


 ありのままの自分。そんなものを持っている人が、どれほどいるのだろう。

 ユウの前では、ユウの好きな自分。親の前では、娘としての自分。先生の前では、アシスタントとしての自分。中小路さんの前では——。


「川島と通謀し、このオッサンの継ぐ土地を買い叩く。それがどうしたんだよ。久世清絵から七百万円を騙し取った。それが何だよ。おい、先生」

 高梨は、まだ笑っている。ちらりとわたしを見たがそこにもう中小路さんの面影はなく、己のために他者を食い物にして何も感じない、はっきりと憎むべき悪があった。

 先生が、こちらを振り返る。何の色も質量もない眼でわたしを見、恥ずかしがりの子供のようにちいさく頷いた。


 湧き上がっている怒りが、整理の行き届かないわたしの脳神経回路を繋いだ。

 脊髄反射のようにして、立ち上がる。長いこと緊張しながら座っていたから、少し立ちくらみがしたが、それすら気に留めることはない。

「——中小路さん」

 この期に及んで、そう呼んでいた。それくらい、中小路さんという人の存在はわたしの中で大きく、日常で、特別だった。

 だからこそ、わたしは今ここに立っている。


「あなたは、こうして、今まで何人の人を騙してきたの。どうして、わたしを騙したの」

 ずっと黙っていたユウの顔が、心配そうにわたしを見ている。それを見て、さらに怒りがわたしの血管の中で暴れ回る。

「どうして、ユウまで騙したの。彼女は、何の関係もなかった。あなたが、自分のために引き寄せ、巻き込んだ」

 そうだ。その通りだ。

 そして、それは、わたしも同じ。中小路さんに入れ込むあまり、ユウのことを考えないような行動を取ったことは事実だ。

 それでも、ユウは、今こんな顔をしてわたしを見てくれる。


「あのさ、睦美ちゃん」

 後ずさりをするのをこらえた。高梨という悪人の中から、手品の早技のように中小路さんが現れたのだ。

「ごめんね。俺を、許してほしい。君の先生が俺を追っているのも知っていた。興嬰会から、君の先生を消すよう依頼も受けていた。だからね、こうしてでも、俺は——」


「万さん」

 先生が、ハブの声のまま、わたしを呼んだ。

 頭に血が上ったまま今さら中小路さんを見つけてたじろいだ状態で、はい、と素っ頓狂な声を上げてしまったが、それを恥ずかしいと思う余裕はない。

「録音、してるよな」

 録音が、どうしたというのか。そう思ってから、はっとした。

 わたしを支配しているものが、血が、脳が、身体が、すっと冷めてゆく。

 ひとつ息を。吸って、フルート奏者をイメージしながらそっと吐いて。


「久世清絵さんから七百万円を騙し取ったこと。あなたが、高梨隆であること。しっかりと録音させていただきました」

 先生が、うすく口を歪めた。笑ったのだ。それが、わたしに力を与えた。

「これは、裁判においても有効な証拠となります。最高裁判例においても、無断録音の証拠能力は否定されません。そして、あなたがこの場で陳述した久世清絵さんの件は、平成二十五年。先生がそう仰り、あなたはそれを認めた。民事訴訟における詐欺の時効は加害者の特定から数えて三年もしくは詐欺のあったときから二十年。どちらにしろ、あなたは時効を主張することはできない」

 それ以前に、とわたしの唇がレーシングカーのエンジンのような回転を見せる。

「それ以前に、刑事訴訟において、詐欺の控訴時効は七年です。つまり、民事、刑事どちらにおいてもあなたは訴訟を起こされる可能性があります。さらに、久世清絵さんのご遺族からの訴えにより、自殺と詐欺の因果関係についての立証があればどうでしょう」


 これでも、法学部卒だ。税理士になりたくて、いろいろ勉強も——ごくまれに、気が向いたときに——している。先生の、録音、なんていうなんでもない一言が、わたしの知らないわたしの力を引き出している。

 しかし、続きが出てこない。言おうとしていることは喉元まで出ているのに、それと記憶、言葉が結びつかない。

「刑法第二〇二条、自殺関与・同意殺人」

 先生。長身だから、高梨を見下ろすような格好になっているが、果たして身長差のためだけか、どうか。

「刑法においては、自殺は違法行為としながら、責任を負うべき者の死によってそれが問われることはない。しかし、刑法は、第二〇二条の適用により、他者の死に関与した者を罰する」


 高梨は、奥歯を噛んでいる。勝ち誇ったとき、人は最大の隙を作るとなにかの本で読んだことがある。先生を陥れるためにあれこれとお膳立てをし、いよいよ今日というこの日、まさか録音などという原始的な手法によって足元を掬われるとは思ってもいなかったのだろう。

 だが、単に録音していただけでは、高梨が勝ち誇るあまり気を緩めてしまっていることに気付いたかどうか。

 先生がほんとうに自分の大願が叶わずに打ちひしがれているなら、こんなにも素早く切り返せたかどうか。


 川島。秀一氏に接触させるとともに、高梨にも興嬰会の繋がりで接触をさせ、先の録音内容を収録させた。

 太田刑事。どうやら、高梨が取り込んだと思っていたこの癖の強い刑事は、はじめから先生に協力を持ちかけられ、興嬰会の機密に近しい位置にいる高梨を挙げに来ていたらしい。


「だったよな、オッサン」

「それは、裁判所が決めることや。羽布」

 太田刑事が取り出したのは、さきほど先生の手首を縛めたものと同じ、しかし全く重みの違う鈍い金属のもの。

 高梨がそれを払いのけ、低い応接テーブルを飛び越えるようにして先生に掴みかかる。

 太田刑事が真っ先に反応し、懐から別のものを取り出そうとする。

 それを、高梨は引ったくるようにして奪った。


 回転式拳銃。それが、まっすぐに先生を見つめている。

 先生は微動だにせず、眠そうな顔でそれを見ている。

 ユウの悲鳴。わたしも、あぶない、と叫んでいた。秀一氏と川島は言葉も出ないらしい。

「羽布。お前、終わりだよ」

 高梨の手に、力が込められる。

 次の瞬間、わたしが瞬きをひとつしたそのとき、先生がわずかに動いた。たとえば、ハヤブサが目の前を通り過ぎるように。

 瞬きを終えたわたしの視界には、高梨が構えていたはずの拳銃を手に、それを向け返す先生。


「この至近距離でハジキ構えるなんて、素人じゃん。奪られるとか考えないわけ」

 それをどうするでもなくただ向けたまま、見下ろして言った。

「——羽布」

「終わりはてめえだよ、高梨」

 先生の声は、冷たい。

「人より頭が良いと自覚してる奴って、詐欺の格好の的になったりするんだよな」

 元詐欺師の先生が、詐欺師の高梨に言うというのが妙だが、そうなのだろう。

「考えりゃ、分かりそうなもんだけどな。俺が中小路だと信じて付き合ってるとでも思ってたの」

「てめえ、いつから——」

「いつ?」

 先生の顔に、嘲りの線が浮かんだ。

「俺が、京都に来たときからだよ」


 はじめから。

 はじめから、先生は高梨を特定していた。その上で、待っていた。それを裁くことのできる日を。

 そのためにはお膳立てと、それに駒がいる。

「ここにいる長谷川秀一。ほんとに、俺がしたっていう馬鹿な税計算が正当だと信じるほどのボンクラだと思ったか」

 いかに秀一氏が身勝手だったとしても、さすがに、あまりにも先生にとって都合が良すぎる。

 そんなことがあるか、と思っていたが、秀一氏の身勝手ぶりがあまりにも飛び抜けていたから、つい、そういうものだと思い込んだ。

 つまり、秀一氏すら、はじめから。


 ちょっと待って、とわたしは心の中で両手をばたつかせた。

 全て、高梨を陥れるためだったのだとしたら。

 川島を取り込み、秀一氏を抱き込み、太田刑事と共謀し、糸を張ったとしても、それらが網となるためには結び目がなくてはならない。

 その役割に、先生は——。

 確かめるように眼を向けると、先生もこちらを見ていた。

「万さん。あんたには可哀想だが、抜群の働きだったよ」

 ああ、と思った。わたしもまた、はじめから。


 先生は、わたしを見抜いていた。そう、面接のとき、すでに。

 舞い上がりがちで思考がよく遊び、かつ頑なな正義感を持っているわたしを。

 いや、そういうわたしに高梨が目をつけることを、そうなったとき、わたしは高梨の優秀な助手となることを見越し、わたしを側に置いた。

 わたしが秀一氏のことで、そして中小路さんのためにとバタバタと動いたがために、高梨は行動を起こすことができた。

 男性経験が豊富ではなく、少女漫画のような恋愛に夢を見ていることも、見抜かれていたのかもしれない。

 つまり、中小路さんにと思い、彼の体内に毒を流し込むようにしてわたしを彼の側に付けさせるつもりだったのかもしれない。


「お前だけなんだよ、高梨。何も知らずいい気になって俺を追い詰めたつもりになってたのは」

 そうだろ、と先生はユウの方を見た。ユウはちらりとわたしを見、そして頷いた。

 ユウが、どうして。

 ユウまでも、先生に加担してわたしを欺いていた。それが何故なのかは分からないけれど、もしそうなのだとしたら、ユウがわたしにした話——小田という刑事といい仲になったという話——も嘘だったのだろうか。


 川島が先生に加担する理由。おそらく、興嬰会と繋がっている彼が最も恐れるものとは、自分がけちな商売をしていたことが挙げられ、自らの保護者である興嬰会と自分との繋がりを洗われて、迷惑をかけることだろう。

 先生は、税務的な観点からそこを突いて、川島を協力させたのだと思う。

 秀一氏が加担しているのも同様の理由。先生の用意する舞台の演者として踊り、高梨を欺くことで今後の身の振り方が楽になるなら、彼は保身のため、そうするだろう。

 太田刑事は、おそらく先生が京都に来たごく初期から協力関係にあったのだろう。お互い利害の一致する身として、様々なやり取りがこれまでにもあったに違いない。

 しかし、ユウだけは、どこを探しても先生に加担する理由が見当たらない。彼女がわたしを騙してまで先生を担ぐメリットが、どこにもないのだ。


 分からないまま、いや、分からないから、わたしの思考はストップしかかっている。

 先生のせいでわたしはこんな思いをしている。心から想った人が煙に消えるのがどれほど辛いかを、目に見えていた全てが舞台の上のだと分かった虚しさを、レポートにして提出してやりたいくらいだ。

 いや、その必要はないのかもしれない。先生は、わたしなんかよりもずっとずっと強く、その辛さを、虚しさを、痛みを、怒りを知っているのだから。


 どちらにしろ、わたしの見ていたものはすべて幻で、わたしが信じていたものはすべて嘘だった。

 では、この場に二つ並んだこの極悪人どもはどうか。

 人とは、ゆるす生き物だ。そう誰かが言っていた。もう、その観点でしか、わたしは自我を保っていられないではないか。

「お前を追うためじゃない。お前に見つけてもらうため、俺は詐欺を働いてきた」

 この凄味が手にする拳銃が放つものなのか、あるいは先生自身が放つものなのか。

「この世には、法で裁かれない悪が多すぎる」

 以前にも、聞いたことのある言葉。

「だが、法とは、その場その場で形を変えたりはしねえ」

 その続きを、今はじめて聞いている。

「そして、法とは、善悪を定義はしない」

 それを定義するのは——。

「——いつも、人の心。ブッ殺してやりてえくらい憎いやつに近付くためなら、人は詐欺師の真似事をしたり、司法試験に受かったりできるらしいぜ」


 法で禁じられているから悪なのではなく、正義を求める人の心が、悪を悪だと断ずる。たしかに、そうかもしれない。

 だとしたら、先生は。

 わたしが先生を知る前にどんな詐欺を働いてきたのか、わたしは知らない。

 だけど、わたしは知っている。

 先生が、川合商店の娘さんや社長のために、あの春の金曜の晩に悪人と渡り合ったことを。

 そのあとわたしが巻き込まれたとき、あぶない、とわたしの身を案じたことを。

 わたしを、できるだけ興嬰会との直接的ないざこざから遠ざけようとしたことを。

 高木生花店のおばあさんを助けたいと空回りしかかったわたしを、助けに来てくれたことを。

 わたしが大事な演者だからそうしたのかもしれない。

 だけど、わたしは知っている。

 悪とは、自らのために他者を傷付け、食い物にしても心痛まぬ者のことであると。


「さて、高梨。お前からどんなホコリが出るのか、楽しみだな」

 先生は高梨に拳銃を向けるのをやめ、太田刑事に向かって放り投げた。

「協力、ありがとさん。こいつは興嬰会の上の方とも繋がっとる。しっかり、叩かしてもらいますわ」

 太田刑事が、なにか呪詛を喚き散らす高梨に手錠をかける。これが任意という扱いなのかどうか。手錠をかけたということは、緊急逮捕なのだろうか。あるいは、もっと前から周到に準備をして容疑を固め、逮捕令状を取得しているのか。


 どちらでもいい。高梨がどんな容疑で、どういう刑罰を受けるのか、それはもう問題ではない。

 興嬰会の中枢との繋がりが洗われれば、彼はもう息をすることすらままならないようになるだろう。だから、裁判で彼がどのような罪に問われ、どのような刑罰を受けるかということと彼に下される裁きとは別問題なのだ。

 高梨という男は、終わった。知らずの間に全身に回っていた毒のために、京都の闇に溶けて消え去ったのだ。


 先生はどんな顔をしているんだろう、と思った。さっきは演技で涙を流してみせたり、高梨を特定するために最後の情けを乞うような素振りも見せていたが、やはり、感情の揺らぎなど微塵もなく、ただ汚れた眼鏡の奥から高梨の背を見ていた。


 先生の視線と直角に交わるようにわたしに注がれているもの。

 ユウだ。

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