第39話 change the destiny④
【七月十日 火曜日】
「食べます?」
「へ?」
「カントリー◯アム」
「えっ……」
昼休み、俺と彼女は屋上で話していた。
彼女と“ある約束”を交わしたその時から三日を跨いだ今日、彼女が初めて自らの意思でこの屋上へと足を向けてくれたのである。
先週、数々の苦労と努力の末、一応ではあるが、俺は彼女との関係を修復、いや、新たに構築することに成功した。
“話相手にはなってあげる”
彼女が言ってくれた言葉はこうだ。
結局、“演技”については触れさせてもらえなかったけれど、それでも、数日前の状態からしたら充分と言えるほど大きな進歩、以前のように彼女と二人で話せる喜びを、俺は噛みしめていた。
また、こうしてこの屋上で彼女と共に午後の穏やかな時の流れを過ごせることが、安らぎとなり、温もりとなり、何より、純粋に嬉しかったのである。
嬉しい、そう、嬉しかった。
だから、この屋上に、俺のために、俺だけのために来てくれた彼女に少しでも楽しんでもらおうと、少しでも安寧を感じてもらおうと、頑張ろうとしたはずだった。
「なんで私の好きなお菓子知ってるの……」
けれど、現在この屋上に漂う空気、そして雰囲気は非常に微妙なものになってしまっていた。
どうして、こうなった。
遡ること数十分前、昼食用のパンを齧りながら、屋上でひとり彼女の来訪を心待ちにしていると、キィィと古びたドアが鈍い金属音を立てて開き、振り返ると、そこには彼女の姿があった。
彼女の姿が見えた瞬間、言葉にし難い興奮と言うか、魂の躍動を覚えたのは言うまでもない。
実のところ、昨日、すなわち月曜日の昼休みもこうして屋上で彼女を待っていたのだが、昼休みが終わるまで彼女は姿を現さなかったのだ。
週末を“来週からは無条件で彼女と話せる”とウキウキで過ごしてしまった分、被ったダメージは無限大。
あれ、嘘だったのかな? なんて不安に胸を駆られたほどである。
そんな、心にひどい傷を負った疑心暗鬼の状態時に、今日、満を持しての彼女の登場である。
求めていたものが目の前に差し出された衝動。
まるで、ダイエット中に某動画サイトで飯テロ動画を見てしまった時のような欲望と感情の起伏。
彼女の姿を目にして、喜びと驚きのあまり何と言葉を掛けていいのか分からなくなったくらいだ。
そうして、ただ呆然と彼女の方を見ていると、彼女はこちら側に手を上げて、微かな笑みを浮かべながら俺に声を掛けてくれた。
約束を守ってくれたこと、貴重な昼休みに俺ごときの存在を優先してもらえたこと、それが嬉しくて、危うく泣いてしまうところだった。
その姿、まさに有頂天。
「どうしたの?」
何も言えずにただ彼女を眺める俺に、彼女はそう聞いた。
はっと我に返り、いかん、早くなにかしら気の利いた言葉を言わねばと思案を巡らせた瞬間だった。
手の施しようのない、ある一つの問題が発生してしまったのだ。
話題が、ないのである。
あ、あれ? 俺、凪先輩とどうやって話してたっけ?
以前は意識なんかしなくても、頭の中に湯水のように湧き出る言葉を使って滑らかに話せていたはずなのに、今は、言葉を紡ぐのにえらく苦労してしまう。
話すべき言葉が、語り合うべき話題が頭の中に浮かばず、間に合わせの言葉ですらも口の中に突っかかってしまうのだ。
どうしてこんな風になってしまったのだろうかと、違和感の原因を自身の内なる部分から急いで探した。
そうして、おおよその見当がついた。
おそらく、今、目の前にいる凪先輩が、俺の知っている凪先輩とは若干異なるのがこの違和感の正体であり、原因なのだろう。
今の俺達には、積み上げてきたものがない。
二人の独特の間とか、呼吸のリズムが噛み合わない。
そう言った細々とした認識のズレが、不協和音を鳴らしているのだろう。
ど、どうしよう……
突如訪れた危機に固唾を飲んだ。
何か、状況を打破できる裏技はないかと必死に頭を回転させた。
焦りに焦って、掌から溢れ出る汗。
それを制服のズボンで拭った時、ポケットの中に丸い輪郭をした固形物の存在を感じた。
こ……これは……まさか……
頭の中に、ピカーンと光明が差したような気がした。
これなら、この重苦しい雰囲気をぶち壊せるかもしれない。
そう思って、彼女にそれを差し出した。
ここで、ようやくシーンは冒頭に巻き戻る。
「やっぱり君……ストーカーなんじゃ……」
「ち、違いますよ! たまたまです、たまたま!」
そう言う彼女はやっぱり少し引いた表情をしていて、俺は焦てて冤罪だと声高らかに主張した。
最近、幸が薄すぎる。
今朝、西野に貰ったカントリーマ〇ムをその場で食べずにポケットに入れていたのは本当にたまたまで、決して意図した結果ではなかった。
けれど、その過程がもたらした結果は最悪なもので、運が悪いどころの騒ぎではなかった。
というか、カントリーマ〇ム好きだったの?
そんなの、こちとら初耳だよ……いや、待てよ? どこかで聞いたな?
一体誰に……あぁ、西野だ。
一度目の夏、彼女の素性を調べるために、西野に彼女のことを根掘り葉掘り聞いた時、確か言っていたはずだ。
不覚。
覚えていれば、こんなヘマを踏むはずはなかったのに……
自分の詰めの甘さに呆れの感情が湧く。
人間は忘却の生き物だとは言え、もっと自分のミスを律するべきだった。
現に、自分の好きなお菓子を唐突に差し出された彼女は、大型犬に臆する子猫のように怯えている。
そうなったのは俺のせいで、全ては俺の責任。
自らの行動を悔い改めなければ……いや、これ半分西野のせいだろ。
「そ、そう言えば、友達、大丈夫でした?」
沈黙と、身に纏わりつく彼女の訝しむような視線を取り払うために、無難で、論点をずらせそうな話題を彼女に振る。
「……大丈夫だよ、用事があるって言ってきたし」
「そ、そうですか……」
すると、彼女は依然として疑うような目つきを光らせながらも、そう、俺の質問にそつなく答え、会話は終了。
また、屋上全体に静謐な雰囲気が充満していく。
えぇ……会話って、こんなに難しかったかしら……
自分のコミュ障っぷりが露呈し、劣等感が心を苛んだ。
「あっ!」
肩を落としていると、彼女が何かを思い出したかのように唐突に声を上げた。
「どうしました?」
「そういえば、君の名前聞いてなかったね」
「あぁ……」
助かった……と胸をなでおろす。
俺の余りのヘタレっぷりに、見かねた彼女が自ら話題を提供してくれたのだろう。
いや、それともただ純粋に名前を知りたかっただけか?
どちらにせよ、この難攻不落の状況が改善されそうなのでよしとする。
翌々考えると、今の、二度目の彼女には、自分の“夏目隼人”という名前を教えていなかった。
うっかりしていたと言う表現よりは、必死過ぎて名乗るという行為自体が頭の中から抜け落ちたという表現の方が正しかった。
これだから、余裕のない男はお粗末である。
“それってもしかして、彼女は名前も知らない男に付きまとわれて、迫いかけられていたってこと?“
突如、天から舞い降りた素朴な疑問。
それを考えると自害を決意しそうだったので、深追いはせず、首をブンブンと降って彼女の質問に答えることにする。
「夏目隼人です。鳥の隼に人、苗字は……流石にわかりますよね」
簡単な自己紹介を済ませると、彼女は右手の親指と人差指の先を顎に当て、表情を歪めた。
何やら考え事をしているようだ。
「夏目……隼人……」
何かを思いだそうとしているような、そんな声音で彼女が俺の名前を口にする。
心臓が、ドクンと跳ね上がる。
まさか……もしかしたら……
何かの拍子に、特別な、言葉では説明できないような力が働いて、彼女が俺を思い出そうとしているのではないのかと、一抹の期待が頭の中にちらついたのだ。
彼女が俺を思い出し、二人で泣きながらハッピーエンドを迎えるのではないかと。
想いが通じるのでないのかと。
そんな、淡い希望を胸の内に抱いた。
「君……さ……」
何らかの意思を含んだ表情でこちらを見ながら、彼女が言う。
彼女の言葉に、息を飲んだ。
彼女が俺を見つめ、俺が彼女を見つめる。
雑多な音が消えていき、シーンと屋上が静まり返る。
微かな風の音だけが響く中で、願った。
頼む、思い出してくれ。
それは、切実な願いだった。
理屈で分かっていても、やはり、心のどこかでは、彼女に忘れられてしまったことを悲しんでいたのだろう。
何かに縋る様に、続く彼女の言葉を待った。
「夏目漱石と同じ苗字だね!」
……………………。
ってそっちかーーい!
ガクリとうなだれて失墜する。
いや、分かっていたけれども。
思い出すだなんてあり得ないけども。
それでも、それでも、何かこう……もっとシリアスな雰囲気を生かしてほしかったというか……
そもそも、今時の女子高生が夏目漱石だなんて口に出すか普通?
彼女の教養の深さは尊敬するけれど、今、それを見せてほしくはなかった……
分かりやすく落ち込んでいると、それを見た彼女が不思議そうに首を傾げていた。
変に思われても嫌なので、すぐに表情と体勢を改める。
しかし、簡単にダメージが回復するわけもなく、心は傷ついたまま。
漏れ出しそうな溜息を堪えて彼女に向き合った。
「やっぱ好きなの? 夏目漱石?」
「全く」
「そうなんだ……せっかく同じ苗字なのにもったいないね……」
いじけた態度で接すると、彼女が少し残念そうな顔をしたため慌ててフォローを試みる。
「い、いや、多少は知ってますよ? ほら、あれですよね? 吾輩が一人称の数学教師が親友をKILLする話書いた人ですよね?」
「なんか色々混じってるし、ところどころ解釈が違う……」
呆れたように彼女が溜息を吐く。
え、またオレ何かやっちゃいました?
彼女と俺との間の文豪に対する認識は、若干というか、大幅というか、設定盛り過ぎでもはやそれラノベじゃね? と言われてもおかしくないほどにズレていた。
改めようにも知識がないので、何も言えずに乾いた笑い声を腹から出した。
夏目漱石って、何書いた人だっけ……
小学生のような問いが頭の中をぐるぐると回る。
…………教養って、やっぱ大事だよね!
……まずい……おかしいヤツだと思われないうちに話題変えよ……もう遅いかもしれないけど。
「せ、先輩はよく本を読むんですか?」
「うーん……どうだろ、それなりには読むと思うよ」
「へぇ……じゃあやっぱり、好きな作家とか、人生を変えた一冊とかある感じですか?」
「えーっと……好きな作家さんはいっぱいいるけど、人生を変えるような本は…………あ」
「先輩?」
「ん、いや、な、なんでもない」
うまく話題を切り替えたのは良いものの、またもや微妙な空気が屋上に充満する。
「え、今、絶対頭の中に何か思い浮かんでたじゃないですか」
「い、いや、違う。あれは、人生を変えるとかじゃなくて、ただ小さい頃から好きってだけで……」
「何ですかそれ、気になるんで教えてくださいよ」
そうも頑なに事実をひた隠されてしまうと、逆に気になってしまうというのが人間の性である。
見るなと言われたら覗き、来るなと言われれば這ってでも向かい、触るなと言われれば雑巾と箒で野球をし校長室の前にあるツボを割る。
これこそが人間の、いや、男の性だ。
一度気になってしまったら、意地でも答えに、真理にたどり着こうとする。
逆らえない、少年の本能だ。
だから、今回だって彼女が何を思ったのかを口にするまであきらめるつもりはない。
そんな信念を込めた視線を彼女に送ってみる。
彼女は、うわぁ……と心の中で呟いていそうな表情を浮かべるも、少しだけ悩んだ素振りを見せた後、消え入りそうなほど小さな声で言った。
「……わ、笑わない?」
「笑いませんよ」
不安そうな彼女の問いかけに、優しい笑顔を浮かべて誓った。
彼女が好きだと言うものを俺が笑うはずがない。
確固たる自信があった。
いつだって、彼女の全てを受けれてきたつもりだ。
今更何を言われようと、動じるようなことはない。
だから、俺を信じてほしかった。
「……国……リス……」
「え? 何て?」
俺の真剣な眼差しを信用してくれたのか、彼女がゆっくりとその固く閉ざされた口を開いた。
しかし、ごにょごにょと消え入りそうな声で放たれたその言葉を聞き取れず、耳に左手を当てて聞き返してしまう。
「だから……」
すると、彼女は恥ずかしそうにもう一度、今度は良く通る声でその言葉を口にした。
「……不思議の国のアリス」
「はい?」
彼女の声は、確かに俺の耳の奥に届いた。
届いてはいたのだが、その言葉の意味を理解できずに、もう一度だけ彼女に疑問符を投げかけた。
「だから、アリス!」
「…………あ、あー、はい、なるほど……」
彼女は少し怒ったような態度でそのタイトルを繰り返し、それでようやく、彼女の頭の中に思い浮かんだであろう、人生を変えてしまうほどの作品の名前を知ることができた。
あぁ、うん、なるほど……アリスね……はいはい……いや、まぁ、女の子なら、うん、まぁ……たとえ今年十八歳になる彼女がそれを好いていても、何らおかしいことは……
「…………………………………………ぶはっ!」
堪え切れずに、その場で盛大に吹き出してしまう。
すいません、高校生でアリスはさすがにきつかったです、ごめんなさい。
ちゃんと、ちゃんと堪えたんですよ?
でも、それでも我慢できませんでした。
それに、笑って誤魔化しておかないと、世界一有名なネズミに存在を消されてしまいそうで怖かったんです、ほんとに。
いや、大丈夫だよね?
好きなのって、絵本の方だよね?
童話の方だよね?
頼むぞ、マジで。
「わ、笑わないって言ったじゃん!」
真っ赤な顔をして、彼女が声を荒げた。
言い訳したいところだったが、“絶対に笑わない”という約束をしていた手前、これ以上不敬を働くわけにもいかず、込み上げる感情を抑えて詫びを入れる。
「ふふ……いや、すいません。ぷっ……なんか、意外と幼いなって思って」
感情を噛み殺し、彼女に頭を下げ……いや、これ、できてねぇな。
謝罪にすらなってないし、所々で感情と本音が漏れだしてしまっている。
え、これ怒ってるかな?
怒ってるよね?
彼女の顔を恐る恐る覗いてみる。
先ほどよりも数倍赤みが増し、頬はパンパンに膨らんでいた。
ほら、怒ってる!
やっぱり怒ってる!
激オコスティックファイナリアリティぷんぷんドリーム!
そりゃそうだ。
だって俺、約束破ってんだもん。
彼女が怒ってしまうのも当然である。
はは……ははは……はぁ……どうしよう……
「ふ、ふん! いくつになったって、女の子は女の子なんです!」
そう言うと、彼女は腕を組んでそっぽを向いてしまう。
彼女のその様子を見て、俺はホッと胸をなでおろす。
どうやら、俺が想像していたほど彼女は怒ってはいなかったようだ。
もし彼女が本気で怒っていたのなら、口を聞いてくれないどころかそのまま直帰され、あることないことをSNSで拡散され、社会的に抹殺される可能性まであった。
女の人は怒らせたら怖いのである。
それに比べれば、彼女はまだまだ優しい部類に入るのだろう。
「ごめん……やっぱ違うかも……」
「えぇ……どうして急に自信失くすんですか……」
彼女の優しさを改めて確認していると、突然、彼女の弱気な発言が俺に向かって浴びせられた。
彼女の表情は暗い。
もしかしたら、本当に落ち込ませてしまったのだろうか。
心配になって、慌てて彼女に問うと、活力を失ったような声音で彼女が言った。
「何か……もしかしたら私だけなのかなって思っちゃて……」
「い、いや、きっとみんな憧れてますよ………………多分」
「な、慰めるならちゃんと最後まで慰めてよ! 途中で突き放すのはやめて!」
弱気な彼女を慰めようと、それらしい言葉を並べてみる。
しかし、言っている途中で“安っぽい言葉ではかえって彼女のプライドを傷つけてしまうのでは?”という疑念が頭の中をよぎり、瞬間的に方向転換、沢村賞投手の投げるスライダーばりに自分の言葉を捻じ曲げた。
彼女はそれに驚き、愕然としていた。
信じられないものを見る目だ。
けれど、そのおかげで彼女の暗い表情は晴れた。
結果オーライ。
後はうまく話題を切り替えてしまうだけである。
「まったく……本当に君は……」
「一番好きなシーンとかあります?」
「え?……あ~……う~ん……」
ぷりぷりと怒っている彼女にベクトルを変えた質問をぶつけてみる。
すると、彼女は速攻で頭の上にクエスチョンマークを浮かべ、自分が怒っていたのを忘れてしまったかのように素直に悩みだした。
ちょ、ちょろい……相変わらず、びっくりしてしまうくらいにちょろい。
いや、そういうところが彼女の可愛いところであり、良い所でもあるのだけれど、ここまでちょろいと、正直、将来が心配になってしまうレベルである。
テニサーとか、学生投資家とか、売れないバンドマンとか、簡単にホイホイとついて行っちゃダメだよ?
上っ面のいい人間ほど、甘い言葉を吐き散らす人間ほど、その化けの皮の下は醜くおぞましいのである。
「そうだなぁ……まぁ、全部かな!」
弾けるような笑顔でそう言う彼女を前に、俺は本日二度目のズッコケを披露する。
「それは反則ですよ」
「えー、だって、どの場面も素敵だよ?」
「確かにそうですけど、俺が聞いたのは全体の一部分ならどこが好きかってことで……」
「そんなの選べないよ! ケチ!」
「えぇ……まぁ、先輩がいいならそれでいいですけど……」
「シーンって言うか、まずキャラクターがいいよね」
「たとえば?」
「白うさぎだったり、女王だったり、チェシャ猫だったり……」
「あの猫……かわいいか?」
「かわいいの! あと、何て言ってもアリスがかわいい。しかも、かわいいだけじゃなくて性格も好き」
「無邪気なところとかですか?」
「それも好きだけど、何て言うのかな……自分の道は自分の道で切り開こうとするところとか、考えるよりも行動を優先するところとか、とにかく前向きなところがいい」
「なるほど……確かにそういう性格って憧れますよね。慎重な日本人ならなおさら」
「うん! Looking forwardってやつだよ!」
「……いや、何で突然英語?」
「えへへ、この前夏目君が突然英語で話すギャグやってたから、マネしてみた。つまらないね、これ」
「うわぁ……意地が悪い」
そう言って笑う彼女は、紛れもなく、俺が知っている彼女、九条凪先輩だった。
「何か、この言葉好きだな私……あ、もしかして夏目君も気に入っちゃった? いいんだよ? 座右の銘とかにしても」
「しませんよ……」
「あはは」
悪戯っぽい表情を浮かべ、ケラケラと俺をからかう彼女。
それは、嫌がる俺を無理やり自分の都合に巻き込むかつての彼女と同じだった。
時間が戻ったような感覚だった。
いや、実際に過去の世界に舞い戻ってしまっているわけなのだが、何と言ったら良いか、今、この瞬間は、心と言うか、体感的と言うか、それらの内面的な感覚が、以前と同じようなものに戻った、戻ることが出来たと、そのように感じられたのだ。
その感覚は、その関係性は、一度目の夏、未来の世界に置き去りにしてきたとばかり考えていた。
誰も、俺を理解してくれる人はいない。
誰も、俺を信じてくれはしない。
そんな、底の知れない孤独感に押しつぶされそうだった。
けれど、今は違う。
俺と彼女は、この瞬間、紛れもなく過去の形に戻れていたと思う。
あるべき姿に成れていたと思う。
くだらないことで驚き、くだらないことで怒り、くだらないことで笑う。
当たり前のようで、当たり前ではなくなってしまった日常。
それを取り戻せたことが、そう感じれたことが、俺はたまらなく嬉しかった。
彼女を見た。
数日前までは人の家から借りてきた猫のような雰囲気を放っていたけれど、今は、俺がよく知る、優しさと包容力を持つ、いつもの彼女だった。
思わず泣き出してしまいそうなった。
けれど、彼女がきょとんとこちらを見ているのを察し、必死に堪えて笑って見せる。
もう二度と、この関係を手放したくはない。
もう二度と、この繋がりを手放したくはない。
そう、心の奥底で何度も叫ぶ。
生温い風が頬を撫でる。
今朝の天気予報では、最高気温が二十八度まで上がると小奇麗なアナウンサーが言っていた。
季節は夏へと向かい、時は、刻々と“あの日”へと近づいている。
時間は、あまり残されていない。
喜びと安心を得る反面、焦燥と不安を再確認し、もう一度、彼女必ず救うのだと、胸の内に固く誓いを立てた。
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