亀裂 2
そのまま朝食を終えたふたりは、しばらく食卓についたまま取り留めのない談笑を楽しんでいた。
デラールフは多くを語るわけではない。ただ、ローサシアがペラペラとよく喋り、デラールフはそれに辛抱強く耳を傾けている……そんな、いつものふたりの情景だった。
「……それでね、先生は大地のずーっと上で天体が回ってるって言うのよ。デラールフは信じる?」
「ふうん」
「もう、デラってば聞いてる? 先生が……天体の授業で、世界に朝と昼と夜があるのは、天がわたしたちの頭上をぐるぐる回ってるからだって言うの」
「へえ」
「それで、デラはどう思う? 先生が言ってることは正しいのかな。もしかしたら回っているのはわたしたちっていう可能性もあるでしょう?」
デラールフは机の上で両手を開いて、「さあ」とぼやいた。
結局、デラールフは学校と呼ばれる種類の場所で教育を受けずに十八歳を迎えている。イーアンは相変わらずデラールフに知恵を授け続けてくれていたが、この穏やかで知的なローサシアの父親は、なにかを断定するということがあまりなかった。
歴史でも、計算でも、天文学でも、通説にはこだわらなかった。
いつだって他の可能性……新しい発見……異なる意見……そんなものがあるかもしれないと言い、デラールフにはイーアン自身を含めたすべてを疑うよう奨励した。
そんな父親を持っているのだから、ローサシアは良くも悪くも、目上の教えを盲目的に信じたりしない。おそらく女学校の教師にとっては、あまりありがたくない存在だろう。
デラールフにとっては、そんなローサシアこそが愛しかったけれど。
「……たとえ本当に天が回ってるとしても、逆に回っているのは大地だとしても、他の理由で朝と昼と夜があるにしても……現状が変わるわけじゃないだろう?」
「それは、そうだけど」
「どちらにしても朝は来る。どちらにしてもお前は毎朝のように俺の家に勝手に入り込んでくるし、どちらにしても俺は仕事に、お前は女学校に行かなければならない」
「ううぅ……」
ローサシアは食卓の上に頭を乗せて小さくうなった。
子供の頃だったら、このままふたりで森に入り、日が暮れるまで一緒に過ごすことができた。しかしそんな日々はもう遠い思い出になりつつある。
家族のためだけでなく、個人での注文も受けはじめたデラールフは、ここのところかなり多忙になってきていた。そしてローサシアには女学校がある。
このふたりの乖離を、ローサシアはおおっぴらに嘆いた。
デラールフは……嘘をついて回っている。ローサシアにも、家族にも、彼自身に対しても。
「ローサシア、お前も早く兄離れしたほうがいい。俺なんかとつるんでばかりいないで、学校で友達を見つけるんだよ」
そして、苦渋の思いでつけ加えた。
「俺も……お前の相手ばかりしているわけには、いかないんだから」
ローサシアの傷ついた顔を見るのが怖くて、デラールフはふたり分の汚れた皿を持って席を立った。彼女を振り返らずに調理場へ向かい、そこで息をひそめる。
胸の奥がキリキリと痛んだ。
たった数歩と壁一枚の距離の向こうでローサシアが悲しんでいることを思うと、今すぐ彼女の前に舞い戻ってひざまずき、許しを乞いたい気分になった。
しかし、そうするわけにはいかない。
ローサシアが女学校で浮いた存在でいるのは、秘密でもなんでもなかった。成績が悪いわけではないが、集団に馴染めていない。
友達ができないでいる理由は、多分いくつかある。ひとつは田舎の集落では珍しいほどの美しさだった。嫉妬という名の差別が、時々ローサシアを苦しめる。
もうひとつは、イーアンの教えにより個性的な考え方をするローサシアは、保守的な田舎では冷たい視線を向けられることが少なくなかった。あの娘は変わってるから、つき合ってはダメだと子供に言うような親が、存在するのだ。
そしてもうひとつ、最後の……そして最大の理由が、デラールフだ。
調理台の上の桶に溜めた井戸水で皿を洗いながら、心を鬼にして無表情をとりつくろっていると、居間からヒタヒタと小さな足音が近づいてくる。
デラールフは息を止めた。
足音はデラールフのすぐ背後で止む。
「デラ……」
デラールフが答えないでいると、ローサシアは背後からぎゅっと彼の腰に両腕を回した。細くて白い少女の腕が、すでに大人になったデラールフの腰回りを抱く。
デラールフがこの腕を拒否しないのを──できないのを──おそらくローサシアは知っている。
この怖いもの知らずの小鹿は、彼の心を読むことができた。ずっと昔から。今でも。きっと未来でも。
「そんなこと言わないで。他の友達なんていてもいなくてもいいの……」
手の動きを止め、ほんの少しだけ背後に目を向ける。ローサシアはデラールフの背中に頭を押しつけ、頰をすり寄せて甘えてきた。
「俺が、お前の相手ばかりしていられないという話は、聞いていなかったのか?」
「そうね」
ローサシアは顔を上げ、じっと探るようにデラールフの横顔を見つめた。そして蚊の鳴くような声でささやいた。
「じゃあ……もう来ない方がいい? もう会わないようにする……?」
沈黙。
沈黙。
沈黙。
狂ったように高鳴る己の心臓の音だけが、デラールフの鼓膜を叩いた。どこに傷を負ったわけでもないのに、痛い。心に形はないはずなのに、確実に血を流している。
ただ、ひとつふたつの質問を受けただけで。
こんな。
デラールフの反応を見たローサシアは、驚いたように目を丸くした。
「待って、デラールフ……冗談よ。嘘なの。冗談だから……!」
冗談もクソもない。
ローサシアはただ質問を投げかけただけだ。単なる提案。しかもデラールフの言に従うことを匂わせただけだった。しかし、焦げた匂いがする。ローサシアのベーコンと玉子ではない。ふたりがさっきまで座っていた食卓と椅子が燃えていた。
「落ち着いて、デラ。大丈夫よ。わたしはどこにもいかないから」
すがるように抱きしめられて、デラールフは自分の目が黄金に光っていることに気がついた。《能力》を酷使しすぎたり、気持ちが昂りすぎたとき、こういうことが起きる。理由はわからない。もしかしたら魂についた炎が、瞳に写るのかもしれない。他に説明のしようがなかった。
「落ち着いて……」
ローサシアに背中をさすられて、徐々に正気を取り戻したデラールフは、まず派手に燃えている食卓の火を消した。
スッと音もなく橙色の炎がなくなり、黒こげになった食卓だったものの残骸が残される。
そして、気まずさだけがこの空間を支配した……はずだった。
「もう、デラってば! わかりやすいんだから!」
響いたのはローサシアの明るい笑い声だった。水色の瞳にさらに透明な涙を浮かべながら、一歩後ろに下がって腹を抱え、腰を折って笑い転げている。
怒りは感じなかった──少なくとも、彼女に対しては。
「いい加減にしろ。この魔女め」
「だ、だって……デラがひどいこと言うから……」ローサシアはまだ笑っている。
「俺は正論を言っただけだ。お前は俺だけじゃなくて、外の世界を見なくちゃいけない」
デラールフは向き直り、昔のようにローサシアの腰を抱いて持ち上げ、眉間にシワを寄せてすごんだが、彼女はコロコロと笑い続けるだけだった。
「わたしの世界は外側も内側もぜんぶデラールフでいっぱいで、それで誰よりも幸せなのに?」
──俺の世界だって、外側も内側もそれ以外のすべてもお前でいっぱいで、それで誰よりも豊かで、幸せだよ。
そう素直に口にできれば、デラールフの心は軽くなっただろう。
代わりにデラールフは居間にある(燃えなかった)安楽椅子にローサシアを座らせ、彼女の腰をくすぐった。ローサシアは笑い、デラールフは悲しみを呑み込んだ。こんなふうにふたりが戯れ合えるのは、いったいいつまでだろう。
「もう止めて、デラ。これ以上無理よ……」
笑い涙を指の背で拭いながら、ローサシアがささやいたときだった。音もなく扉が開くと、デラールフの兄・ハイデンが姿を現した。
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