第二章 君という名の星

運命 1



 ──デラールフ8歳、ローサシア誕生──



 もうすぐ夜更けになるという頃になって、隣家から小さな産声が漏れ聞こえた。オギャア、オギャアと、空気を求めるように泣く痛切な声。

 デラールフはかけ布をまとったまま、その泣き声に聞き入った。


「これでサリアン家もお前のことを歓迎しなくなるだろうな、デラールフ」


 部屋の端から、兄の陰気なつぶやきが響いたが、デラールフは気にしなかった。少なくとも、気にしないように努めた。兄・ハイデンが刺のある言葉でデラールフをいたぶるのは日常茶飯事で、もういちいち傷つくこともない。

 だから、返事もしなかった。

 ハイデンの苛立たしげな舌打ちが聞こえる。


「お前をまともに扱ってくれるのは、サリアン家の夫婦だけだったのにな。これで、お前みたいな危険な奴を近づけるわけにはいかなくなった。せっかくできた赤ん坊を焼き殺されたら、たまったものじゃないからな」


 ハイデンの言い分はもっともだったので、デラールフは黙って赤ん坊の産声に耳を澄ませた。

 オギャア、オギャア。


 兄の指摘するとおり、この泣き声はデラールフの数少ない幸せを奪う象徴であったはずだ。しかし、恨みつらみはまったく感じなかった。

 男児だろうか。

 女児だろうか。

 どちらにしても《能力》など持たず、持ったとしてもデラールフのように厄介なものではなく、普通に、幸せに成長して欲しいと願った。


 オギャア、オギャア。


 女の子かもしれないと、デラールフは予感した。

 なんとなく……声色が柔らかくて、その必死さの中にも、周囲に甘えるような……あたらしい環境を受け入れながらひたむきに道を探しているような……いじらしい可愛らしさがあった。

 まあ、すべてはデラールフの想像にすぎないのだろうけれど。


 新しい命の叫びを聞きながら、デラールフは目を閉じて、かけ布を力の限りに引っ張って体に巻きつけた。ハイデンには寝台があるが、デラールフにはなく、床で夜を明かさなくてはならない。

 季節は冬だ。

 もう少し上手く《能力》を制御できたら、火を焚いて温まることもできたのだろう。しかしデラールフの力はまだまだ不安定で危険だった。家をまるごと焼いてしまわないとも限らない。


 実際、デラールフはすでに二回、納屋を全焼させている。

 家畜を焼き殺してしまったことも。

 母親に火傷を負わせてしまったことも。


 赤ん坊が生まれたことでサリアン夫妻がデラールフを歓迎しなくなっても……それどころか他の皆と同じように嫌悪するようになっても、それはごく自然なことだと、納得していた。だからデラールフは静かに耳を澄ませた。

 オギャア、オギャア。


 しばらくすると産声はやんだ。

 多分、乳を与えられて落ち着いたのだろう。

 サリアン夫妻は心優しく善良であったが、裕福ではなかったので、デラールフは赤ん坊を温めるための十分な薪があるかどうか、心配した。


 デラールフがもっと正しく《能力》を扱えれば、彼らに暖を取らせてやることもできたかもしれないのに。



 * * * *



 翌朝、デラールフはいつも通りに森へ入るつもりで、家の裏で身支度を整えていた。


 家族はデラールフを煙たがっていたが(文字通り。デラールフの炎は煙も出す)、彼が家族に提供できる労働に関しては、貪欲なほど欲しがっていた。


 デラールフの八歳とは思えない長身は、三歳年上の兄・ハイデンを超えるほどだったし、体力も筋力も、大人の男のそれと比べてもほとんど遜色ないほどだ。おまけに制御しきれないほどの《能力》がデラールフにはある。


「お前が我々に与えられるのは、それくらいだからな」

 厳格な父はいつもそう言って、デラールフがどれだけ努力しても礼や称賛を口にしたことはなかった。

 木材の切り出し。乾燥。薪割り。

 狩猟。

 水汲み。

 デラールフは普通の同年代の子供より何倍も働いた。もしかしたら何十倍かもしれない。


 通常は十年以上かかる木材の乾燥をデラールフの能力により一瞬で済ませてしまうセンティーノ家は、大工としてはかなり成功している部類に入った。


 それでもノーマン・センティーノ、通称パパ・センティーノが、妻の焼けただれた手を忘れたことはなかった。許したことも。

 当時、デラールフはまだ四歳だったにもかかわらず。



 デラールフは革のベルトに短いナイフを刺し、手袋をして、極寒の冬の森と闘う準備は整った。

 数日前の雪がまだ濃く残る森へ視線を向ける。デラールフが吐く息は白い湯気のように宙を舞った。肺が痛むような寒さだった。しかし、休むわけにはいかない。

 兄のように家でぬくぬくしていても、肩身が狭いだけだ。あの家にデラールフの居場所はない。森は一種の逃避行の場だった。


 霜の立つ土をざくりと踏みしめて出発しようとした時、隣家の玄関が開いた。

 顔を出したのはイーアンだった。

 サリアン夫婦の、夫の方だ。


「デラールフ、こんなに早く、もう森へ入るのかい? まだやっと朝日が登ったばかりだろう。朝食は済ませたのかい?」

「おはようございます、イーアン」

 デラールフは質問には答えず、落ち着いた口調を心がけた。「それと、おめでとうございます。シアーナは元気ですか」


 イーアンはすでに白髪の混じる壮年の男だった。妻のシアーナも若くはなく、今回の赤ん坊はかなり遅くにできた待望の子で、夫婦はこの日を今か今かと待ちわびていたのだ。


「妻かい? ああ、神に感謝を。母子ともに元気だ。娘は眠ってばかりで、真っ赤で、シアーナにそっくりさ」


 娘。

 やはり、女だったのだ。なぜかデラールフの胸はうずいた。


「そうですか。よかった。じゃ……」

 特に意味もなく手袋をいじって外套を直しながら、デラールフは足早にその場を去ろうとした。

「待ってくれ、デラールフ。こんなに早朝に急ぐ必要もないだろう。どうか娘の顔を見ていってくれ。シアーナもまだ起きているよ」

「え……」

 イーアンの声がデラールフの足を止めた。ドクンと鼓動が高鳴り、緊張が身体中の血管を走った。不安げにイーアンを見つめると、彼はすべてを理解した瞳でデラールフに微笑みを向けた。


「怖がることはない。あの時、君はまだ四歳だったんだ。今はもうだいぶ制御できている。わたしたちは君を信頼しているよ」


 喜びと悲しみの両方がデラールフを呑み込む。

 イーアンの信頼と愛情にいたみいると共に、もし彼を裏切ってしまったらと思うと、恐怖に手が震えた。この心優しい隣人が授かったばかりの新しい大切なものを、この手で壊したくなかった。

 躊躇しているデラールフに歩み寄ったイーアンは、まるで父親のように、八歳の少年の肩に手を置いてポンポンと叩いた。


「……手が震えるということは、君はその力の強さを理解しているということだ。君の心は正しい。わたしは君にはぜひ、ローサシアの兄のような存在になって欲しいと思っている。わたしたちは歳をとりすぎているからね。誰かに彼女を守って欲しい」


 結局、デラールフはイーアンに肩を抱かれて、サリアン家の玄関をくぐった。

 イーアンはそれほど長身ではなかったので、デラールフはまだ八歳だというのに、やっと頭ひとつ分の身長差があるか、ないかといったところだ。


 一家は広めの居間がひとつと、調理場、そして小さな寝室があるだけの質素な造りだった。が、いつも不思議な温かさと清潔感がある。

 今朝はそれに加えて、まだかすかに鼻をつく血の匂いと、甘ったるい赤ん坊の香りがした。

 デラールフを居間に招き入れたイーアンは、「失礼」とだけつぶやいて寝室へ消えた。


 そして、白いおくるみに包まれた小さな生き物を腕にして、戻ってきた。

 デラールフが生まれてはじめてローサシアを目にした瞬間だった。


 デラールフはこの時の衝撃を忘れない。

 この瞬間に胸に宿った保護欲を。

 心を焼いた焦燥を。

 魂に刻まれた愛情を。


「ごらん、ローサシア。これがデラールフだ。お前の隣人で、友人で、兄になるひとだよ」


 耳鳴りがして、穏やかなイーアンの声がいやに遠く響いた。

 ローサシアと呼ばれた赤子は、フワフワの短い黒髪で、うっすらと開いた瞳は目の覚めるような清らかな水色だった。小さな、小さすぎる手が、なにかを求めるように宙をかく。

 なにかを──


「ほら、見てくれ、デラールフ」

 イーアンは笑いをこらえながら、おくるみの中の神聖なものをデラールフの胸元に近づけてきた。

「きっとローサシアは君と手を繋ぎたいんだよ。握ってやってくれないか」


 手元に視線を落とすと、汚れた手袋が目に入った。デラールフは慌ててそれを外し、頼りなく動いている赤ん坊の手に、恐る恐る……触れた。

 ただ、イーアンの願いを叶えたかっただけだ。赤子に触りたかったわけじゃない。


 しかし、ローサシアの手がデラールフの指の先を握ったとき、彼の運命は決まった。デラールフの未来は、彼女を守るためだけに存在すると。


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