対面 3
『やめて、デラールフ!!』
ローサシアは声を上げ、健気にもトウマを庇うように彼の前に立ち塞がった。
もちろん意味のないことだ。死者はなにも変えられないし、なにも守れない──少なくとも物質的には。
ボッと発火独特の血の騒ぐ音がして、デラールフの右手がみるみるうちに炎を宿した。
それは幻想的な情景で、これから火に包まれるのが自分でなければ、見惚れてしまいそうな現実離れした炎の踊りだった。
デラールフはひとの顔ほどの大きさの小さな火柱を操り、トウマに手を向けた。
「お前にもローサシアと同じ思いを味わせてやろう……」
肌が粟立つような、低すぎるデラールフの声。
『トウマさん、逃げてください! 早く外に出て!』
「ちょっ……話が違うじゃないか! こういうのは、ただの脅しだって……」
『いいから早く!』
デラールフの瞳が冷酷にきらめき、トウマが逃げ出そうとした瞬間、足元に火が移った。
「ぎゃ! 熱いっ!」
靴とズボンが燃える。
狂ったように足踏みをしながら、トウマは炎から逃げまどった。デラールフはいたぶるようにトウマの足元に向けてひとつ、ふたつと、次々に火の玉を放った。死に物狂いになって出入り口の扉に向かうトウマを、デラールフは冷酷に眺めている。
逃げろ、逃げろと叫ぶローサシアの声に後押しされ、トウマは転がるように外へ飛び出した。古い木の扉は乾いた音を立てて軋んだが、なんとか役目を放棄せずにバタンと閉まった。
トウマは砂利道に尻をつき、まだ赤く燃え焦げている靴の先を必死で消火した。
そこにローサシアが現れる。
トウマはまず、怒りよりも困惑に突き動かされて、ローサシアに怒鳴った。
「くそ、絶対にこうなるってわかっていたから嫌だったんだよ! なにが『誰よりも平和を求めている』だ! 『穏やかで愛情深いひと』だ! あいつは狂人だよ!」
滅多に声を荒げないトウマの怒声に、ローサシアが涙を浮かべる。すぐに後悔が襲ってきたが、煙のくすぶる焦げた靴とズボンの端が目に入ると、それもすぐに引いていった。
『ごめんなさい……。ごめんなさい。あんなふうに怒るとは思わなくて……』
「とにかく、僕は約束通りやってみたからね。駄目だったらそこまでだって言ったよね? もうここまでだからね。二度と僕の前に現れないでくれ!」
『は……はい……』
癇声を起こしながら立ち上がるトウマに、ローサシアはあくまで手を貸そうとしてくれた。
きっとそういう性分だったのだろう。
ローサシアは、手まで白くて小さくて可愛らしかった。これがあの野獣のような大男と愛し合っていたのかと思うと、人体の不思議について考察したくなるくらいだ。
しかし、トウマはその手を振り払った。
もちろん振り払ったりしなくてもローサシアは触れられない。ただ、怒りを表明したかったのだ。こんな状況にトウマを陥らせたローサシアに、小さな復讐をしたかった。
『ごめんなさい……』
果たして、その復讐は遂げられた。
ローサシアは心臓に刺が刺さったみたいに顔をゆがめ、実体のない涙を数粒こぼした。
──そらみろ。やっぱり死者に同情なんかしちゃいけないんだ。痛い思いをするのが関の山で、結局誰も、なにも、救えない。
ローサシアは潔かった。許しを乞う以外、トウマにはなにも懇願してこない。
ここで食い下がってくる死者は多かった。お前が助けてくれなかったらどうすればいいんだ、と。トウマの良心や親切心を逆手にとって、糾弾してくる死者は山ほどいた。もちろん生者も。
しかし、ローサシアは一切、そんなことを言わない。
いたたまれなくなって、トウマは寂れた酒場を見上げた。
デラールフはまだ追ってこない。
酒場はまだ普通に建っている。
トウマの足元を焼いたのが普通の炎だったなら、木材の調度だらけだった酒場のホールは今頃、激しい火の手が上がっているはずだ。それがない。本当にデラールフの火は特殊らしかった。
トウマはゆっくりと後じさった。
このままピートルの酒場と、美しい死者と、気の触れた英雄に背を向けて森に帰るべきだと、理性が声の限りに叫んでいる。
ローサシアは、そんなトウマを、涙に濡れた瞳でじっと見つめていた。
足が動かなくなった。
「僕は帰るからね」
まるで自分に言い聞かせるように、トウマは陰気につぶやいた。ローサシアは抵抗せず、小さくうなずいた。
『わかりました……。本当にすみませんでした。あんなにいきなり、あそこまで怒って火を使ってくるとは思わなかったんです。お怪我がないようでよかったです』
そして死者は、うつむいた。
多分──ローサシアは、どれだけデラールフに愛されていたかわかっていない。
だからこそ、トウマのような他人を使ってデラールフを説得できるかもしれないとか、デラールフが冷静にトウマに耳を貸すだろうとか、そういうありえない予想をする。
トウマに死者を見ること以外の《能力》はない。
おまけに引き篭もりだ。
しかし、ひとを考察する目はあるつもりだった。銀細工を見るのと同じだ。そこに自分が関わっていなければ、ひどく冷静に、的確に、相手の心を読めた。
ローサシアの名を聞いた時に見せた、デラールフのあの顔……。
「ねえ、説得なんて時間の無駄だよ。君が死んだとわかった時、彼の人生は崩れたんだ。少なくとも、幸せな人生はもうありえないんだ……彼にとって」
残酷な真実をつきつけ、ローサシアの表情がさらに曇るのを見つめる。
ローサシアがゆっくり顔を上げようとした──その時だった。
酒場の扉が音立てて開き、のっそりとデラールフが現れた。
デラールフの視線はトウマをとらえていたが、完全に感情の欠落した目つきだった。
はじめて日の光の下で見るデラールフは、酒場の薄闇の中で目にしたよりもわずかに若く感じられた。
「まだここにいたのか……」
かすれた低い声とともに、ふたたび右手に火柱が宿る。
逃げろ。逃げろ。できるだけ遠くへ、できるだけ早く。逃げろ。ローサシアももうトウマを引き止めない。
逃げるな。逃げるな。
ここでトウマが逃げたら、誰がこの発狂気味の戦士を止める? いつか大陸中を火だるまにしてしまうかもしれないのに? ローサシアはどうなる?
もうすぐ消えてしまうのに?
「……聞いてくれ、デラールフ。さっきのは誤解だ。こんなふうに君が危害を加えてきたら、僕はもう関わらないとローサシアには言ったけど、ひとつだけ聞いて欲しい……」
と、言いかけた時。
デラールフの掌に踊る火柱は、トウマの身長を軽く超える大きさになった。と、思うと、獲物を捕らえようと空から降下する鷹のような速さで、トウマを目掛けて飛んできた。
「ぎゃーーーー!!!!」
どんな正義も、どんな良心も建前も、すべては命あっての物種だ。トウマは全速力で逃げ出した。
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