第4話 超常現象の理由

「な、なんなの、これ……?」

 輝夜はその奇怪さに――というよりお粗末さに、あっけに取られて立ち尽くした。歯磨き粉のチューブから、でろんと中身がたれる。


 朝起きて、もはや何かしら用意されていることが定番となったダイニングテーブルの上。

 本日のメニューは、べっとべとにジャムが塗りたくられたトースト、殻の入った目玉焼き、端っこがバリバリに焦げたベーコン。マヨネーズがもりもりかけられたサラダ付き。

 輝夜は、ダイニングテーブルに両手をついてがっくりとうなだれた。

(いったい誰が……)

 両手がわなわなと震える。

「いったい誰が、こんな食材の無駄づかいしたのよー!!」

 頑張れば食べられなくもないが、頑張ってまで食べたくはない朝食である。

 その時。

 キッチンのほうを、何かが横切った気がした。

 怒りに燃えていた輝夜は、不審者だと警戒することもなく、つかつかとキッチンに足を踏み入れる。

 相変わらず、電気ケトルにはすでに湯が沸いており、今日はその隣に、ティーバックの入ったマグカップが置かれていた。どうやら、紅茶を入れる直前だったようだ。その横に置いてあるしょうがチューブがなんなのか、考えるだに恐ろしい……。

(ひょっとして、ジンジャーティーでも作るつもりだったのかしら)

 だとしても、先ほどのダイニングテーブルの惨状を見る限り、まともな状態で提供されるとは思えない。


 こぼした歯磨き粉を片付け、慌てて洗顔を済ませた輝夜は、何気なくリビングの入り口付近に置いてある全身鏡を見た。

 映っているのは、パジャマから薄いイエローのワイシャツと濃いネイビーのスカートに着替えた自分。髪はまだととのえていないので、自慢の黒髪は肩のところで変な方向に跳ねている。手に持っているのはうっすらとシルバーに輝くスマートフォン。

 どこにもおかしなところなどないその光景に、しかし輝夜は違和感を覚えた。

 違和感の正体を探ろうと、じっと鏡をのぞき込む。スマートフォンをひらひら振ってみると、鏡の中の輝夜もひらひらと振り返してくる。

(……え?)

 そこで、違和感の正体に気付いた。

 鏡の中の輝夜は、をしているのだ。

 ふつう、鏡に向かって右手を振れば、鏡の中の人物は左手を振るものだ。

 ところが、輝夜が右手で持ったスマートフォンを、鏡の中の輝夜も持っている――。

「うそ……っ!」

 これには驚き、輝夜は後ろに飛び退すさった。フローリングの上にペタンとしりもちをつく。鏡の中の輝夜が、驚きの表情でこちらを見つめている。


「おどろかせちゃったかな?」

 耳元で聞こえた声に、輝夜は慌てて後ろを振り返った。

 そこに居たのは、ひとりのまだ少年と言ってよい年頃の男の子だった。


 病的なまでに白い肌と、ぶかぶかのパジャマ越しうっすらと見える細長い手足。身長は輝夜に少し届かないくらいで、何より、ほとんど銀色に近い真っ白な髪と、対照的な黒々とした瞳が印象的な少年だった。


 少年はにっこり笑った。無邪気で人懐っこい笑顔だった。

「おねえさん、今心の中で、僕のこと『少年』って呼んだでしょ。僕にもちゃんと名前があるんだよ。これからは、怜史さとしって呼んでね」


 怜史の笑顔にすっかり毒気を抜かれた輝夜は「え~っと……」と無意識に毛先をもてあそんだ。

「つまり、怜史くん、とはがあるってことなのかしら?」

「うん。だって、これからも一緒に暮らしていくんでしょう?」

 輝夜はなんとも言えない心地になった。そんな「これからも同棲続けるでしょう」みたいなノリでさらっと言わないでほしい。何と言っても、輝夜はまだ彼のことを何も知らない。

「えっと、怜史くんは一体どこのだれなのかしら?」

 怜史は、今度は少し陰りのある笑みを浮かべてこう言った。

「ボクは、このうちの子だよ。ボクがなのかは、鏡を見てくれれば分かると思うけど」

 輝夜は振り向いて、鏡を見た。

 そこには、輝夜ひとりしか映っていない。

 もう一度振り向いた。怜史は、ちゃんとそこにいた。


「……鏡に映らない特別な訓練を受けた、隠密特殊部隊の一員とか?」

「おねえさん、この状況でその設定、限りなく可能性が低いと思わない?」

「だ、だよねぇ……」


 怜史はひたひたと裸足で鏡の前まで歩いて行った。にもかかわらず、その姿は鏡に映らない。あいかわらず、フローリングに座り込んでいる輝夜がぽかんと口を開けているのが見えるだけだ。

「鏡ってね、日向と日陰の境界みたいなものなんだ。さっきボクがくぐりぬけたから、空間がおかしな風にねじれちゃったみたいだけど……ほら、これで元通りだよ」

 怜史が何をしたのかは分からない。しかし、さっきと同じように輝夜が右手を振ると、鏡の中の輝夜は左手を振り返してきた。確かに、これが鏡のあるべき姿だ。


 輝夜は、腕組をして「う~ん」と唸った。

「あまり考えたくないけど、つまり君は幽霊ってことでいいのかしら?」

 怜史は笑顔で頷く。

「そう。分かってくれて、嬉しいよ」

「つまり、今までの迷惑なポルターガイストの数々は、君の仕業だったってことね?」

「え……?」

 怜史は、きょとんと瞬きをした。長い睫毛が上下して、ぱちぱちと音が聞こえてきそうだ。

「ボク、おねえさんのお役に立てるように頑張ってきたつもりだったんだけど……?」

 傷ついたような表情にほだされそうになる輝夜だが、そこはぐっとこらえて怒りを呼び覚ます。

「あんたねぇ。スリッパくらいならまだしも、水道光熱費とか、食費のこととかなーんにも考えずにやったでしょ! 無駄にならないようにするの、ホントに大変だったんだから……あっ!」

 輝夜はリビングの時計を見て、「やば! もうメイクしないと!」と悲鳴をあげた。

「とにかく!」

 指さされた怜史は、ぽかんと輝夜の顔を見つめる。

「この話の続きは、今夜帰ってからにしましょう。」

 そう言って輝夜は、慌ただしく部屋に駆け込んでいった。部屋の中から、「朝食、食べられなかったから冷蔵庫入れといて!」という声が聞こえる。


「いってらっしゃい」

「はい、いってきます!」

 輝夜は腕時計を気にしながらバタバタと家を出て行った。


 残された怜史は、ふふっと花がほころぶように笑みをこぼした。


 帰って来てくれるんだ――。


 姿を見せたのに。幽霊だと言ったのに。

 気味悪がらず、きちんと話をきいてくれた。


 今度のおねえさんは、きっとボクの望みをかなえてくれるに違いない。


 だからもっと、お姉さんのお役に立てるように頑張らないとね。


 屋根裏には明るい朝の陽ざしが差し込み、怜史の体は半分光に透けて、キラキラと透明な輝きを放っているのだった。

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