第17話

 このところ、エヴァさんの元気がない。

 原因はなんとなく分かっている。

 俺だ。



 当たり前だった。


 いやほんとに。





(今まで嫌われようとさんっざん努力してきたものなあ!)


 努力が実を結んだ、という言葉は素晴らしいのに、まったくもって嬉しくない。今までの自身の行いを改めて思い返した。悪行と言ってもいいのかもしれない。彼女と食事で顔を合わせて、会話がないのはいつものことだ。そのはずなのに、どこかひどく空気が重くて、うまいはずのパンの味がまったくしない。



 考えてみれば、いつも彼女から話しかけてくれていたのだ。俺はただ彼女の言葉をぶっきらぼうに受け止めて、食事の感想一つも満足に伝えていない。それでもいつも彼女はにこにこしていて、どこか楽しそうだったから、ほっとして、嫌われるつもりなのに、これじゃあ駄目だろう、と自分に嫌気がさしていたのだ。



 でも嬉しかった。エヴァさんがいるだけで、ただの帰るだけの屋敷が、少しずつ家という場所に変わっていく。それは純粋に綺麗になった屋敷だとか、温かくてうまい食事を食べることができるとか、そういうこともあるけれど、きっとそれだけじゃない。彼女がいて、おかえりなさいと声をきくとホッとした。


 兄弟ばかりが多くて、家族を守ろうとずっとがむしゃらに生きてきて、ふと、振り返ったら彼女がいた。




 俺は彼女に、何もしていない。


 なのに楽しかった。大した会話もしていないくせに、庭で草いじりをして、二人で並んで、花の苗を植えた。頭の上ではふよふよと雨水を溜めた膜が揺れていて、まるで俺のことを笑っているみたいだった。残りはたったの8ヶ月。そう思うのに、まだ半分だって過ごしていないとほっとして、彼女の名前すらも呼んでいない。




 正直、自分でもどうかと思っていたのだ。限度がある、と指摘したシャルロッテ殿の言葉にどきりとした。だから数日ばかりの時間を経て、決意と気合を入れた。そうして撃沈した。それからだ。エヴァさんが笑ってくれなくなったのは。




 いや、笑っている。いつもと変わらず、にこりとしていて、優しげで、おかえりなさいと言ってくれる。でもなぜだろう。ほっとしない。嬉しくない。これが求めていた姿であるはずなのに、彼女に声を掛けようとしても、喉の奥で何かがつかえてひどく距離が遠かった。




 いつもみたいに笑ってほしい。


 そう考える俺は、なんて身勝手なんだろう。剣を振るえば、街の治安が気になるし、彼女のために野菜の収穫をしても、頭の底では仕事のことばかりを考えている。なのに警備のためと街を歩けば、すっかり茶色く色づいた葉を拾い上げて、彼女のことを思い出した。時間ばかりが過ぎていく。






「リオ、お前、今日はもう帰っていい」


「は、うわ、団長!?」



 さて午後の訓練だと重たい剣を持ち上げたとき、後ろから肩を叩かれた。あまりの強面に、毎度のことだが飛び跳ねそうになる。どちらかというと、自分は高い背をしている自覚があるのに、団長はそれよりもさらに大きい。人から見下ろされるなど子供の頃が最後だから、近くに立たれると毎度妙な気分になる。



 周囲ではえいやあ、えいやあ、とむさ苦しい声が溢れていて、剣がぶつかり合う度に、火花が飛び散り、巻き上がる土煙に鼻がくすぐられた。それから即座に背を伸ばした。



「いえ、申し訳ありません、気合を入れ直します」



 自分の情けない姿と顔を思い出して、ばちんと力強く頬を叩いた。集中せねば。「いやお前の気がそぞろなのは、いつものことだ」 なんだと。「それだけ考えが深いんだ。騎士団は脳筋なやつらが多いからな。お前くらいの小心者も必要だろう」 褒められたのか馬鹿にされたのかよくわからない。



(小心者……?)



 兄上から図体がでかいわりに、お前の中身は室内犬だ、と時折表される言葉に首を傾げていたが、そういうことなのかと合点がいったが、いやそれはないだろうと納得できない。恐らくひどく微妙な表情で団長を見上げていた。「まあ、そういう話ではなく。お前は新婚だろう」 な、とこちらの肩をぽんと叩く。



「お前の休暇の少なさには、正直どうかと思っていたんだ。これを機会に、少しずつ手を抜くということを覚えてみろ」




 たまった休みは、これくらいで減りはしないぞ、と団長に見送られ、ぼんやりと街を歩いた。剣もなく、鎧もなく、軽装で街を歩くのは、どれくらいぶりだろう。この間の休暇のときは、マルロから花の苗を融通してもらったから、そのまま屋敷に引きこもって庭をいじった。



 恐らく団長は、さっさと帰って嫁孝行の一つでもしてやれと、そういう意味だったんだろうが、今の俺が帰ったところで、きっとエヴァさんは嫌気がさすに決まっている。少しでも帰る時間を延ばすのが、彼女のために違いない。




 ――――俺が家にいないことだ! 俺の嫁さんは、俺が休暇になると途端に不機嫌になるぞ!




 先輩騎士の言葉を借りるのなら、まあ、そういうことだ。





 この街については、端から端まで知っている。そうでなければ王都の警備など任されない。観光地の一つである、おせっかいと名高い過去の王様の像を見上げて、あんたのせいで、俺は随分たくさんの書類を書かされたよ、とぺちりと台座に手を置くと、ひんやりしていた。当たり前だ。もう冬だ。



 せっかくだ。街の端まで歩いてみることにした。


 たまにはこうして歩くことも必要だろう。近頃物騒な話をきく、と団長も言っていた。神から授かるギフトだが、犯罪に使われることも少なくはない。いや、ギフトに振り回される、というべきか。これではまったく休暇になっていない、と分かってはいるものの、他の時間の使い方がわからなかった。




 夕方に向けて、街は少しずつ店じまいをしていく。人通りも少なくなる時間なのに、この時期は炎色石がよく売れた。寒い中で指先を赤くしながら、背中のカゴいっぱいに石を詰め込んだ行商人が、声を高らかに歌っている。売れ行きは好調なようだ。クグロフ兄上が騙されたのもあの石の採掘だ。石さえあれば、生活に困りはしない。眉唾の儲け話もよくよく耳にすることだ。目がくらむのも、無理がないと思うべきなのか、どうなのか。




 一歩一歩と踏み出すごとに、小さな家が多くなる。すっかりと店もなく、この辺りは人の入れ替わりも激しい。そろそろ戻るべきか。そう考えたとき、「わんっ」 犬の鳴き声が聞こえた。



 エヴァさんが、犬が好きだと言っていた。ような気がする。いや自分の気の所為で、彼女はただ犬の話をしていただけかもしれない。



 そんなことを思い出して顔を向けると、小さな老婆が道端に店を広げている。犬はどこに? と首を傾げると、彼女の懐から、ぴょこんと白い顔が飛び出した。あんまりにも小さいからわからなかった。




「いらっしゃい」




 彼女の店に並べられた花を見て、犬の頭を撫でていると、いつの間にやらそれを買い込んでいて、白い息を口いっぱいに吐き出しながら駆けていた。



 馬鹿だな、と思う。嫌われようと、そう考えていたじゃないか。『花だな! 贈り物だ!』 反対のことをすればいいと思って、嫁に好かれる方法を教えてくれと先輩方に尋ねたときに、彼らの一人がそう言っていた。そんな単純なわけがない。こまめなコミュニケーションが大切だ。そう言っていた人もいた。それをないがしろにした結果がこれだ。わかってる。結果は大成功だった。それが辛くて、たまらなかった。だから花を買い込んだ。




 あまりにもちぐはぐな自分の行動に、わけがわからなかった。屋敷の前で息を整えて、顔をこする。背中に花を隠したまま、玄関に立つと、エヴァさんがびっくり顔でこちらを見ている。おかえりなさいのいつもの言葉をもらって、彼女はすぐさま背中を向けた。だから叫んだ。




「エヴァさん!」



 彼女の名前を呼んでしまった。それから花を渡した。俺は片手で持つことができるのに、彼女は腕いっぱいにかかえて、ぱちりと瞬きをしたあとに、じいっと俺を見上げた。それからゆっくりと笑った。ありがとうございますと。そう言ってくれた。




 その笑顔が、あんまりにも可愛らしかったから、俺は自分の口元を押さえた。必死に息を飲み込んで、後ずさった。走り抜けたときよりも心臓が飛び跳ねて、胸があつい。なぜだかわからない。ただ、ここから逃げ出さないと、と思った。




 もう、彼女の顔を見ることもできない。

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