第3話


「リオ、どうか一生のお願いだ! 何も言わずにこの書類にサインをしてくれぇ!!!!」



 実の兄が額を床にこすりつけながら、いや、ガンガンと叩きつけながらかまされた土下座に一瞬意識が遠くなった。一体何故こんなことになったのか。思わず両手で顔を覆って幾度も思考を整理してみる。残念なことに俺はどうにも気がそぞろなところがあるから、一つのことを考えようにも、いつの間にか別のことを考えている。だから今回も、色々と思い出しながら、自分自身の境遇までさかのぼって、一人頭をくらくらさせていた。






 俺、リオ・フェナンシェットは4人兄弟の次男坊だった。


 あのフェナンシェット家とカルトロール家は分家と言えど、こちらはただの貧乏子爵。その上、兄とはただの一つばかりの年の差ではあるが、次男に家督を相続できるわけもない。


 一番下の弟のように愛嬌があるわけでもなく、下から二番目の弟のように、聡明でもなく、背ばかり育って、食べる量だけ一人前だ。一体俺に何ができるんだろう、とひねくれていたこともあるけれど、ある日気づいた。それならば正直になろう。体を使って、ときには領地の民と一緒にクワを振るった。


 俺を見てくれと誰に主張するよりも、ならば俺は声をきき、彼らのためになろうと誓ったのだ。


 そうして、領地で自身ができることと言えば、限られたものだと考えたとき、それならばと王都に飛び出し、自身の保有しているギフトのおかげもあって、トントン拍子に騎士となった。もらった給料の大半は実家への仕送りになるから、満足に侍女も雇えず、忙しさに目が回り、家の中は薄汚れている。


 それでもそのことに後悔はないし、できれば家族が幸せになってくれればありがたい。俺ができることと言えば、本当に小さくてちっぽけだけど、それでもないよりはマシだろう。


 ときおり届く手紙にほほえみながら、小さな甥っ子達の姿を思った。そろそろすきっ歯も目立たなくなっているだろうか。弟たちの記憶と重ねた。



 ――――そんな中だ。兄であるクグロフ・フェナンシェットが土産を片手に屋敷のドアを叩いたのは。





 ***





「兄上、一体どうなさったのですか。まさか仕送りが遅れてしまった件でしょうか? 申し訳ない、この間手紙にしたためたばかりで、そちらまで届いていないのでしょう。新人騎士が多く編成されたため、通常よりも決算が遅れてしまいまして」


「いや大丈夫だ。その手紙は届いているよ」


 俺よりも小さな背で、兄上はどこか不安げにきょろきょろと視線を迷わせた。

 スプリングもきかない安物のソファだ。座り心地も悪かろう。なぜだか彼はぶるりと震えた。大して寒くはないが、暖炉の脇に置いた炎色石を2つ取り出して、かちりと叩いた。それからすぐに暖炉の中に放り込む。過去に採掘のギフトを持った炭鉱夫が見つけたものだが、今では日常生活に欠かせない、便利な石だ。


「ああ、そうだ。リオ、お前に土産を持ってきたんだ」


 そう言って、口元を引きつらせながら箱の中からワインを一本取り出した。「いや、兄上、俺は……」「そうだ、そうだった。お前は酒が駄目だったな」「お前はというか」 そもそもフェナンシェット家の人間は、そろって酒に縁がない。


「そうなんだ。そうだよな。なら、そうだ。酒好きの友人がいただろう。せっかくだからな。渡してやってくれ」


「わかりました。あいつも喜びます」


 酒と言えば飛んでやってくるような男だ。兄上の気持ちをありがたく受け取ることにした。せっかくのワインだ。暖かい部屋に入れていてはだめになってしまう。地下の貯蔵庫に持っていこうと立ち上がったとき、彼はしっかと俺の腕を掴んだ。そうして土下座した。冒頭の言葉だった。





 ***





「何も言わず! どうか何も言わず、サインを!!!!」


「いやサインと言われましても」



 彼がワインの他に後生大事にかかえていた、山程もある紙束の一番上に目を通した。気のせいかと思ってもう一度見た。気のせいなどではなかった。「あの、これは」「カルトロール伯爵家、ご令嬢との婚姻届ダァーーーーーー!!!!」「ウワアーーーーー!!!!?」 意味もなく口元に手を当てて飛び跳ねながら叫んだ。想像よりも大御所の名前が飛び出した。


 慌てて手の中から滑り落ちたワインを救出して、とりあえず、と話をきくことにした。冗談だろう、と口元がひきつるばかりだが、自身の心情は裏切れない。


 一言でまとめると、カルトロール伯爵から、俺に対して、エヴァ・カルトロール様との縁談が来たと。何故俺の名を、と不思議に思うが、兄上はすでに既婚でいらっしゃるし、弟たちはまだ成人もしていない。それならば、と納得できるのかはさておき、「ちょっと待ってください」 さすがにストップをかけさせて頂いた。



「いくらなんでも、今どき強制的な婚姻もないでしょう。そのためにこんなに分厚い書類にサインをするわけですから。なのに何故、俺が会ったことすらもないご令嬢と、その、そういった話になるのですか?」


「恋人がいるのか!?」


「い、いませんよ! そんな暇もない!」


 何故実の兄に力強く否定せねばならないのか。悲しみからか、耳の後ろが熱くなったが、そういう問題ではない。明らかにごまかそうと視線をそらす兄上を睨んだ。これでもでかい図体だ。多少使い慣れていない表情であろうと、いくらか説得力はあるだろう、と考えたところ、意外にも効力はあったらしい。兄上は細い体をさらにひょろひょろとさせて、小さくなる。「いや、兄上、俺は怒っているわけでは」 あるかもしれないけれども。


「本当か? 俺を怒らないか? 罵らないか?」


「罵りはしないかとは思いますが、内容によります」


 相変わらず兄が土下座のままであったので、俺も地面に座り込んだ。汚れすぎた床を見て、いい加減掃除をしようと肝に銘じた。


「実は、実はだな。本当に、のっぴきならない事情があって」


 うん、と頷く。「実は」 兄が、恐る恐ると声を出した。顔を上げて、正座をしつつ膝に手のひらを置いている。






「持参金目当てなんだ」


 想像以上に最低だった。






「兄上は、人として、どうかしていらっしゃるのですか……?」


「ひえっ!? 罵らないって言ったじゃないか!」


「罵ってなどおりません! 純粋なる感想です! もしこれがランダンなら、心根の弱い兄上なら一週間は立ち上がれなくなるほど言葉という暴力を叩きつけているはずです!」


「それもそうだな! っていうか心根が弱いって普通に言ったな!」


 このやろうこのやろう、とぽかぽか細っこい腕を向けられても、正直痛くも痒くもない。ただ兄上が言うには、流石に何らかの事情があるのだろう。今でこそ隠遁していらっしゃるが、このことを父上が知らぬわけがない。考えた。そうして、しばらく前に末の弟から届いた手紙を思い出した。「まさか」 このところ、日照りが続き、農作物の育ちが悪い、とそう濁していたではないか。


 はっとして兄上を見上げた。こくりと彼は頷いた。「シューケルから聞いているだろうか。今年はな、気候がよくなくてな。もう本当に不作の不作で」 苦しんだ末なのだろう。なのに自分は呑気に、もう少し仕送りを増やせばいいだろうかと、そればかりしか考えていなかった。「まあ、それだけなら、なんとかやっていけるギリギリだったんだが」 雲行きが怪しくなってきた。


「父上と二人で相談してな? ちょっと炭坑を新しく開こうと思って、ばあん、と投資事業に手を出してみたんだ。そしたら驚くほどにすっからかんになってしまって」


「アホなのですか……?」




 純粋なる感想が漏れた。

 しかしさすがの兄上も思うところがあるのか、腕を組みながらしおしおと再び頭を下げた。



「炎色石がたんまり出る鉱山だと聞いたんだ。でも待てども待てども……」


「当たり前でしょう。そんなにホイホイ採掘できるなら、誰しもが大金持ちですよ。といいますか、何故ランダンに相談なさらなかったのですか!」


「あいつの冬期の休暇まで待てなかったんだ! 今すぐに買わねば次の買い手がいると言われて」


「よくある手法ではないですか!」




 再び意識が遠くなった。


 ランダンとは、下から二番目の弟だ。俺とは違って聡明であり、兄上と父上を支える知識をつけるべく、宮廷学院に通っている。せめて母上が存命であったのなら、彼らを止めてくださったに違いないのに、と死者に声を届けても仕方がない。


「とは言っても、最悪、他の貴族に借金を申し込むなど、他にもやりようはあるでしょう。いや、それこそ、フェナンシェット家はカルトロール伯爵家の分家ではありませんか。大切なご令嬢だ。そんなところに嫁入りをさせようなど、誰が考えますか。正直に話して、融資を願いましょう」


「伯爵にはすでに過去、お力をお借りしたことがある……我らが幼き頃だが、一度きりという約束だった」


 言われた言葉で、思い出した。それこそ家族総出で、哀れな姿に見せてやろう、とカルトロール家に乗り込んだのだ。あのときの呆れた伯爵の顔を思い出して頭が痛くなった。とは言え、他の貴族に頼み込む、というのは自分で言っておきながら、案外いい手かもしれない。


「兄上、これではご令嬢にも大変申し訳がない。この話はお断り致しましょう。カルトロール家に頼らずとも、知恵を絞れば道は見えてくるものです。兄弟全員の力を合わせれば、できないことなどありません」




 時間はかかるかもしれないが、だましだましでなんとかやっていけるはずだ。いつかこんなときがあるかもしれないと、人脈も作ってきた。


 頑張りましょう、と兄上の肩に手を置いた。細い肩だ。この体で、家族と領地を守り、戦っている。クグロフ・フェナンシェットは泣いた。ほろほろと涙をこぼした。いつもどこか飄々として、ふらついていて、それでも家族のためにとひ弱な体に鞭を打つ、彼が泣いた。




 あまりにも辛かった。兄上なりに、フェナンシェットのためにと尽力していたことを知っている。


(俺にも、何かできることがあるはずだ)


 そのために方法を模索し、王都まで来たのだから。兄上は静かに首を振った。そうして、涙を片手で拭いながら、声を震わせた。






「持参金は、もう全部、使ってしまった後なんだ……」










 さすがに閉口した。

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