30 否定されないってことは褒められるよりもずっと特別なことよ


 夜会の夜から数日王都で過ごし、それからジェリー侯爵領に戻る。折角持ってきていたのに出番がなかった図鑑をようやく広げられるのは着ている物の布量が減ったからだろう。夜会用の気合いを入れすぎたクリスティーナのドレスはやっぱりボリュームがありすぎたわ。

「あ、この鳥見覚えがあるわ」

 図鑑を開いて【旦那様】に見せる。

「最初のお手紙の便箋、この鳥でしょう? 旦那様はこういうのがお好き?」

 銀星風琴鳥ギンボシフウキンチヨウというらしい。スパンコールみたいな面白い羽毛の鳥ね。青くて小さくて【旦那様】好みかもしれない。

「個性的な柄だったからね。アンジェリーナの印象に残る紙を選びたかったんだ」

 そもそも便箋の印刷技術がものすごく特殊だと思うのよね。薄い紙にあんなに鮮やかな鳥の絵を、しかも同じ紙を何枚も印刷しているのでしょう? 他の文明に対して印刷技術が発達しすぎている気がするわ。

「これもジュール様の仕業なのかしら。いろいろアンバランス過ぎるのよね。未だに戦争は剣持って戦うくせにお絵かきは『端末』で出来ちゃうとかいろいろおかしいけど、あたしは便利だから嬉しいわ」

 そもそも転生者多過ぎ疑惑だし。もしかしたら【旦那様】も頭を強打したら前世の記憶が蘇ったりするのかもしれない。

「旦那様は本当に転生者じゃないの?」

「ん? ああ。そうだね。残念ながらこの国以外で育った記憶はないよ。念のため言っておくと頭を強打したり雷に打たれた経験もないよ」

 そこまで聞いていないのに随分と具体的に答えてくれるのね。

「それはジュール様の入れ知恵かしら? アレクもとっても個性的だったし」

 アレクシスというコートニーのお気に入りの技術者は本当に個性的だったわ。あたしも流石に敗北を認めたくなるくらい。ええ、面会に行ったはずなのに、ご本人じゃなくてパネルがお喋りするんだもの。びっくりしたわ。技術提供はしてもいいけどあたしには会いたくないとかものすごく失礼なことを言われた気がするけれど、繊細な人だったらあたしを見て気絶しちゃうかもしれないものね。仕方がないわ。我慢してあげる。

「うーん、技術的な部分ならそれこそ、一度も顔を合わせることのなかったアレクシスだと思うけれど。あの奇妙な板はなんだったのだろうね。姿は見えないのに声がするし、女性の声になったり男性の声になったりと不思議だったよ」

 そこでちゃっかりあたしの声を録音出来る装置を注文してきた【旦那様

】にも驚いたけれど。普段人見知りのくせにものすごく仕事が出来る人みたいな雰囲気で余計な買い物をしていたわ。知らない物にもう少し警戒して欲しかったけど。欲望に忠実だったわ。

「あたしも特殊顔料の可能性が広まったところは有意義だったと思うけれど……」

 あんまり顔を見せないのが悔しくてあれこれ注文付けたら全部可能って言ってたのよね。しかも、王都から出る前に一部の試作品が届くとか、やっぱりアレクは未来人なんじゃないかしら。もしくは宇宙人。

「そう言えば、タイムトラベルは過去にしか行けないって聞いたことがあるわ。アレクはあたしの前世が生きていた世界よりもずっと未来から来た人なのかも」

 千年後には本当に考えただけで性別を入れ替えられるような技術も出来上がっているかもしれない。肌の色もオレンジや緑色なんかに変えたりしてもっと面白い装いも増えるかも。

「私の頭ではさっぱり追いつけないけれど、アンジェリーナの創作活動が捗るならいくらでも投資するよ」

 本当にこういうところだけぶれないのね。そんな【旦那様】も好きよ。

「あたし思ったんだけど、旦那様だけあたしの声を録音していくなんてずるくない? 工房に旦那様の声でハウスを知らせるアラームがあったら作業中断して大人しく帰れるようになるかもって思ったのだけど」

「……うん。君がすっかり犬のような躾けをされたいということは理解したよ。まあ話を聞いた限りだと技術的には可能だろうけれど。アンジェリーナの集中力にその装置で太刀打ちできるかは未知の領域かな」

 うん。【旦那様】に落書きしてやろう。あたしをなんだと思っているのかしら。

 でも、ただ落書きしても喜ばれるだけよね。

 やっぱりむしゃくしゃしたから図鑑を片付けて化粧道具を取り出す。

「アンジェリーナ?」

「旦那様~、創作意欲が刺激されたからそこで大人しくキャンバスになって頂戴」

 ものすごくリアルなミツバチを描いてあげるわ。馬車から降りたときにぎょっとされればいいのよ。もしかしたら誰かがぎょっとして【旦那様】のお顔を叩いてしまうかもしれないけれど。

「私をキャンバスに? 一体なにをしてくれるのかな?」

 楽しみだと目を輝かせる【旦那様】のお顔をおしぼりで拭いてからちゃちゃちゃっと下地を塗っていく。企みがばれないように念入りに。眉毛も糊で馴染ませちゃう。

「これ、アンジェリーナがいつも使っている化粧品?」

「そうよ。直したり途中で変えたくなったりしたときに備えて基本的な物は大体持ち歩いているわ。このアイシャドウパレットは特注品よ。あんまりみんな使わないようなグリッターカラーもたくさんあるの」

 そう言いつつ細い筆を掴みながら口紅を探す。どこかに黒いのがあったはずだ。落ちにくいのを選ばないと。ええ。食器用洗剤で顔を洗わなきゃいけなくなるくらい頑固なメイクにしてあげるわ。

 興味深そうにアイシャドウパレットを眺める【旦那様】はもしかしたらこっち側の人間なのかもしれない。元がいいからきっと素敵に化けるわね。でも今日はヘンな方にしか変身させてあげないわ。

 それでもキャンバスは美しくないと。シミひとつない完璧な美肌だけど、きっちり色も整えていく。

「アンジェリーナは毎日こんなことをしているのかい?」

「その日によるわ。お肌の調子とか気分とかで使う物を変えたり、色味も変えたり。これでも結婚してから少し大人しくなったと思うわ」

 お肌をオレンジにしたりピンクにしたりしていないもの。

 折角だから面白い眉毛を描いちゃおう。

「旦那様は青がお好きだからグリッターの青にしようかなー」

「おや? 私の好みも考慮してくれるのかい?」

「勿論。でもあたしの好みが優先よ」

 アイシャドウパレットの中からラメのたっぷり入った濃い青を選ぶ。顔の印象は美しい眉毛で決まるのよ。とっておきの美女眉毛にしてあげるわ。グリッターブルーの。でもやっぱり先がちょっと割れてるような眉の方が面白いかしら?

「アンジェリーナ? 何か悩むことでも?」

「うーん、眉毛の形を左右対称に描くかどうかで迷っただけよ。両方違う色でも面白いかなって」

 とことんヘンにしちゃえばいいのよ。うん。そうね。左は黒の太眉にしましょう。

「アンジェリーナが楽しいのなら構わないけれど……鏡を見るのが楽しみだ」

 ふふふと笑っていられるのも今のうちよ。最終的には怒るか噴き出すか言葉を失うかのどれかなんだから。

 アイラインはシンプルに。アイシャドウもヌーディーな印象にしておく。インパクトは眉毛とミツバチちゃん。あとは虫刺されの痕も作らないとね。

 おでこを何カ所か刺されてほっぺにミツバチちゃんが止まってる感じに。本当は立体物をくっつけてもっとリアルな虫刺されを作りたいところだけれど色で立体感を出していくしかないわね。馬車が揺れるから少し描きにくいけれど、あたしは浮いてるから【旦那様】がじっとしていられたら手元はそんなに狂わないわ。

 黙々と、時々【旦那様】の質問に答えながら着々と完成させる。

 どうやらすっかり美容に興味を持ったみたいで化粧品の用途や保湿のコツなんかを聞かれたわ。持っている物にあぐらをかかないのは素晴らしいことよ。

 たっぷり二時間半。そのくらい時間をかけて力作の完成よ。出来が気に入ったから『端末』で写真を撮ってカロリー様に送る。でもまだ【旦那様】には見せてあげない。そのまましばらく屋敷で過ごして使用人達に変な目で見られていつもの【旦那様】だなーって思われればいいわ。ええ。いつもの【旦那様】ね。ちっとも面白くない。

「……旦那様ってあたしがなにをやらかしてもにこにこ喜んじゃうから……面白くないわ……」

「え?」

 一瞬、固まりそれから信じられないと言う目で見られる。

「わ、私はアンジェリーナに退屈な男だと思われているのか?」

「いいえ。とっても個性的で面白い性格だとは思っているわよ? 旦那様が退屈な男ならこの世界に面白い人なんてそうそう居ないわよ」

 ちょっと面倒くさいけれど。

「しかし、君が今面白くないと……」

 ああ沈ませちゃったわ。

「だって、旦那様ってあたしが旦那様の上等な上着を切り刻んでドレスを作っても、寝込み襲っても、お屋敷中の壁を好き勝手に塗ってもちっとも怒らないもの。門限破ったら悲しそうなお顔をするくらいで……」

「私を怒らせたいの?」

 真っ直ぐな瞳で訊ねられても……今のお顔、面白すぎるわ……。

 思わず笑ってしまう。

「アンジェリーナ?」

「……旦那様……そのお顔で言われると……面白すぎて……」

「私の顔はそんなに面白いだろうか?」

 首を傾げ、少し悲しそうな表情を見せられる。

 今のお顔はとっても面白いわ。だって蜂にたくさん刺されて両眉の色と形が違うヘンな人よ。それにほっぺにキュートなミツバチちゃん。それなのに真顔で質問されたら笑わないように堪えるなんて無理よ。

「あたしはとっても面白いと思ったけれど……」

 そこで『端末』に返信がある。


 ジュリアン様が寝込まないか心配だわ。


 と、常識人っぽい一行の後に「今度ジュール様にもお願い」と添えられている辺り、カロリー様は『端末』の向こうで大笑いしているわね。あの人ジュール様になにか恨みがあるに違いないわ。

「アンジェリーナ?」

 困惑した様子の【旦那様】に『端末』を奪われてしまう。

「またカロリー嬢と密談かな?」

 ふふふと笑うくせに、車内の温度ががくっと下がった気がする。

 態度や表情にあまり出ないだけで本当は怒っているのかしら? 少し身構えながら【旦那様】の反応を見る。

「ジュールにもって……」

 メッセージの履歴を遡って写真を見たのだろう。完全に硬直している。

「……随分と楽しそうだとは思ったけれど……鏡を貸してくれないか」

 最早命令だ。慌てて手鏡を渡す。

 怒らせてしまっただろうか。思わず背筋を伸ばしたくなってしまう程まじまじと自分の顔を観察する【旦那様】。

「……これは……」

 まるでヴォーグみたいにポーズを取りながら鏡の中の自分を見ている。

 この反応は……所謂「これがあたし?」ってやつかしら。怒ると言うよりは単純に驚いているだけみたい。冷気が消えていく。

「素晴らしい! 私がアンジェリーナの作品の一部になれるなんて!」

 大興奮で立ち上がり、馬車の天井に思いっきり頭をぶつける。ものすごく痛そう。

「旦那様、大丈夫?」

「……あ、ああ……平気だ……慣れている……」

 頭をさすりながらしゃがみ込む【旦那様】をとりあえず椅子に戻してあげる。

「風呂に入ったら消えてしまうのが惜しい。できるだけたくさん写真を残しておきたいのだけど」

「やっぱり旦那様は頭がおかしいわ。普通はこんなヘンな顔にされたら怒るのよ?」

 まあ、あたしも鱗だらけの顔で夜会に行ったこともあるけれど。

「なぜ? こんなに素晴らしい出来なのに怒る理由が見当たらないよ」

 うん。あたしの【旦那様】ね。

「シャーベット出して」

 平べったい金属のお皿を手に取って言う。

「え? あ、ああ……」

 困惑した様子で、それでも色とりどりのシャーベットを出してくれる。

「頭に乗っけたら少しは冷えるんじゃないかしら」

「……確かに……私のシャーベットは溶けないが……こんな使い方をするとは思わなかったよ」

 頭を打った時って応急手当がいろいろあった気がするけれど、あたし医学ってさっぱりなのよね。

「お屋敷に着いたらお医者様に見て貰わないと。頭を強打したのと、やっぱり頭の病気かもしれないのと」

 虫刺されを描かれて喜ぶなんてまともじゃないわ。

 思わず溜息が出る。

 でも、そのくらいヘンじゃないとあたしと結婚なんて出来ないのよね。




 お屋敷に着いた途端、【旦那様】より先に馬車から飛び降りて【旦那様】が思いっきり頭をぶつけたことを報告すると、アーノルドはお出迎えもせずにお医者様を呼びに行った。やっぱりジェリー侯爵家の使用人って【旦那様】には過保護よね。

 【旦那様】にはお医者様が来るまで頭を動かしちゃダメと言って、あたしはそさくさと自分の部屋へ向かう。久々にベティにお風呂に入れて貰うんだとそわそわしていると、後ろから悲鳴が聞こえた気がする。

 あ、ハチメイクに誰かが引っかかったのね。ダメよミツバチくらいで騒いでちゃ。嫁はハニー伯爵家の人間よ? 蜂蜜を愛さないと未来はないわ。

 遠くで【旦那様】の叫びも響いてた気がするけれど、あたしはゆっくりお風呂を楽しんだ。

 お風呂から上がって寝室に入れば沈みきった【旦那様】の姿がある。なんだか魂が抜けてしまったみたいね。

「どうしたの? 大丈夫?」

「……アンジェリーナ……君の作品が……無残にも……よりによって台所洗剤によって壊されてしまったんだ……」

 涙目で訴えられて、化粧を落とされたのかと納得する。

「そりゃあジュリアン・ジェリーをあの顔のまま放置するのは使用人的にありえないでしょう」

 そもそもあたしがなにかをやらかすこと前提でお屋敷にお医者様を待機させていたアーノルドだもの。あらゆる塗料に対抗する手段を用意して待ち構えていたに違いないわ。

「台所洗剤って、本当によくお化粧が落ちるのよねー。お肌には良くないけど」

 蜂蜜たっぷりの美容液でケアしてあげましょう。

 洗面所に美容液を取りに行こうとするとがっちりと手を掴まれてしまう。

「旦那様?」

「アンジェリーナ……側に居て欲しい」

「大丈夫よ。美容液を取りに行くだけだから。ほら、台所洗剤で洗われたお肌をケアしておきましょう」

 そう言っても納得しないのかぎゅっと抱きしめられてしまった。

「君の作品が失われてしまったというのに、君は怒らないの?」

「化粧よ? 正直半分は旦那様への嫌がらせのつもりだったわ。絶対に気に入られないようにしようと思ったのに、あんなに喜ばれたことの方に驚いたわ」

「私が君の作品を喜ばないはずがないだろう」

 力強く言われてしまうと反論できない。

「……もう負けでいいわ。うん。あたし旦那様には絶対勝てない」

 大人しく胸に身を任せる。

 最初っから勝てっこないのよ。あたしの熱意よりあたしの作品に対する執着が強いんだと思うわ。

「でもあたしの作品にばかり夢中になってる旦那様は嫌いよ」

 あたし自身を見て。

 少し拗ねた仕種をすれば額に優しく口づけられる。

「うん。君が一番だ」

 宗教じみた執着をされるのは困るけれど、結局あたしも【旦那様】には弱いのよね。

 そのままベッドに引きずり込まれて、いつの間にか下敷きにされている。

「ねぇ、アンジェリーナ……ずっと言うべきか迷っていたのだけれど……」

 まだ躊躇っていると言う様子で視線を合わせない。こういうときは待ってあげるべきなのか急かすべきなのかまだわからない。

「なぁに?」

 一応聞く気はあるのよというアピールだけはして続きを待つ。

「……あー……その……君は……どうして私を名で呼んでくれないのだろうか……」

 躊躇いながら飛び出した言葉を理解するのに数秒必要で、それから自分でも困惑してしまう。

「言われてみればそうね。どうしてかしら? もう、旦那様は旦那様って感じになっちゃってるわ」

 ああ、そうだ。このお屋敷に来たときは【旦那様】は【旦那様】であたしの【旦那様】以上に考えたことはなかったから、別にジュリアン・ジェリーじゃない別の人でもあたしの【旦那様】ならそれでよかったのよね。

「えーっと……ジル様?」

 ジュール様もそう呼んでいるし、きっと親しい仲は愛称で呼ぶべきよね。そう思ったのに、なぜか瞳を大きく揺らし、それから赤くなったかと思うと左手で口元を覆って視線を逸らされてしまう。

「え? これダメ? ジュリアン様の方が……」

 よかったの? と訊こうとしたのに、手で口を押さえられてしまう。

「……い、今まで通りでいい……」

 どうしてそんなことを言うのだろう。名前で呼んで貰えないと拗ねていたのではないだろうか。

 理不尽。 

 そう思いながら解放されるのを待つ。

「……君の愛らしい唇に呼ばれて……正気を保てる自信がない……」

 照れているのか、恥じらっているのか。

 悶えて動けなくなっている【旦那様】の手を払う。

「名前で呼べって言ったり呼ぶなって言ったりどっちよ」

「……今まで通りで……うん。破壊力がありすぎて……昇天するかと思った……」

 本当に重症ね。

「まあアイドルに名前呼ばれたら興奮しちゃう感じかしら? あたしももう旦那様相手なら多少のことじゃ驚かないわ」

 宗教扱いからは抜け出したいけれど【旦那様】を見る限り無理そうね。すっかり崇拝対象だもの。

 でも、あたしとしてはもうちょっと普通の扱いをして欲しいわ。

「旦那様、最近あたしにも大分慣れてくれたと思ったのに」

「すまない……その……今のは……心の準備が足りなかったというか……予想以上だったもので……」

 そんなに申し訳なさそうにされると居心地が悪いわ。

「ちゅーしてくれたら許してあげる」

 できる限りいつも通りに言ったつもり。けれども優しく頭を撫でてくれるだけで、キスは期待出来なさそう。

「……あー、その……少し待って欲しい……まだ鼓動が落ち着かなくて……」

 興奮しすぎよ。名前呼んだくらいで。

「落ち着いてー、ミツバチちゃんを数えたら落ち着くわ」

「警告色だから余計に落ち着かなくなるよ……」

 うーん、ハニー伯爵領以外だとこの案は拒否されるのよね。

 とりあえず【旦那様】がいつもしてくれるように背中をとんとんしてみる。あたしはこれですぐに寝かしつけられちゃうけれど、【旦那様】は少し落ち着いたのか、いつの間にかあたしの胸に顔を埋めている。

「……旦那様ー? いくら夫婦だからって少しは遠慮してくれませんかー?」

「やだ」

 子供みたいな返事がくる。どうやら完全に甘えたい【旦那様】になってしまったらしい。本当に気分の波が激しすぎるわ。

「確かにこの弾力はあたしもお気に入りだけど……お肌のケアをしない悪い子には触らせてあげません」

 手で押っつければ嫌だとしがみつかれてしまう。

「いくら原型が良くてもお肌がぼろぼろだったら台無しよ?」

「……結局君も、私の外見だけかい?」

 泣きそうな目で見られ驚く。

「金があって外見が多少整っていれば誰でもいいのではないか?」

 ああ。拗ねちゃってる。

「……誰でもいいならこんなわがままな困った子は選ばないわ。あたし、その気になれば王宮でジュール様に可愛がって貰うって手もあるのよ? 肥満まっしぐらになりそうだけど」

 王子様の愛人って外聞さえ気にしなければ結構おいしい立場だと思うけれど。おいしいものたくさん食べられるし。体重は百三十キロ以上にされちゃうけど。

「それに大事なことを忘れているわ。あたしみたいな変人に求婚したのは旦那様だけよ」

 ヘンで居ることを楽しんでいたい。【旦那様】はそれを認めてくれるわ。

「あたしが美しくないときもかわいくないときも旦那様はあたしを一番って言ってくれるでしょう? ヘンなあたしを認めて貰えるの凄く嬉しいわ」

 否定されないってことは褒められるよりもずっと特別なことよ。

「そりゃあ旦那様はうじうじぐずぐず時々面倒くさいときもあるけれど、あたし、そういうところも含めて旦那様がお気に入りなんだから」

 あ、しまった。余計に落ち込ませてしまったかもしれない。ぷるぷる震えているわ。

「あ、あの、旦那様? 今のはちょーっと言い過ぎちゃったかしら?」

 またやらかしてしまったのねと様子を覗えばとうとう声を上げて笑い出す。

「ああ、本当に君と居ると悩むと言うことが馬鹿らしく思えるな」

 くっくっくと美形台無しの笑い方をされてしまい驚く。

「大丈夫?」

「ああ。君に嫌われていなくて安心したよ」

 さっきまで捨てられた子犬みたいな目で拗ねていたくせに、本当に浮き沈みが激しい。

「じゃあ、まずはお肌のお手入れよ。ぼろぼろのお肌にすりすりされるのは流石に嫌だもの」

 パーツの形はそんなに重要じゃないけれど質感は大事よ。

「それにしても旦那様……お髭が薄いのよねー、この時間でも伸びていないし、寝起きでもじょりじょりしないし……永久脱毛した?」

 羨ましい。ハニー伯爵領にはなかった技術よ。伯爵令嬢の財力なら永久脱毛くらい出来るはずなのに! と何度思ったか。

「生まれつきの体質でね……やはり髭がないと貫禄が出ないだろうか……」

 あら、本人は気にしているのね。

「いいじゃない。お肌がすべすべだとお化粧しやすいわ。それに、ないなら描いちゃえばいいじゃない。どんなお髭にする?」

 付け髭もあるし、ない時はどうにでもなるのよ。

「ない方がアンジェリーナの好みならないままでいい」

 こつんと額をくっつけられる。

 本当に浮き沈みが激しすぎるわ。

「最初は面倒かもしれないけれど、習慣化するとそうでもないの。お肌のケアしている姿ってあんまり見られたくないと思っていたけれど、旦那様も一緒にやる? 毎日一緒にやったらそんなに気にならなくなると思うの」

 まあ、いろいろ夢を壊しちゃうことはあるかもしれないけれど……。今は女装男じゃないから化粧を落としてもそこまで絶望はされないと思うわ。

「やる。もしかしたら肌だけでもアンジェリーナになれるかもしれない」

「それはそれで怖いわ。でも、あたしのお顔にしたいって言うなら……結構似せられるかもしれないわ」

 今気がついたけれど、お鼻の形と眉間の距離が結構似ているかもしれないわね。ってことはあたし結構男顔ってことかしら? まあ前世で描きまくったお顔になれるんだからそう言うことかもしれないわ。

「大丈夫よ、この顔は描き慣れてるから」

 あら? ってことはあたしも【旦那様】のお顔になれるのかしら?

 なんて考えていると【旦那様】は興奮した様子でぷるぷる震えている。

「アンジェリーナ! 私が君になれるのかい?」

「え? あ、お顔はね。似せられると思うわ……」

 こんなに食いついてくるとは思わなかった。

 これは面白そうだから完成したらジュール様に写真を送りつけましょう。

 女装趣味者を増やすなって怒られそうだけど。

「是非! 今すぐ実演して貰えないだろうか」

 痛いくらい手を握られる。これはすぐにでもお化粧してあげないとずっと興奮しっぱなしね。

「わかったわ。お化粧の準備をするから、まずはお顔を洗ってきて。で、あんまり強く握られるとあたしの繊細な手が動かなくなっちゃうかもしれないわ」

 だから強く握らないで。そう告げれば、慌てて放してくれる。

「す、すまない……興奮しすぎてしまった」

「はい、まずはお肌のお手入れからよ」

 まったく……余計なことを言わなきゃ良かったわ。

 だって、きっと【旦那様】はハマっちゃう方の人だもの。








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