20 結局過去のあたしに勝てないんだわ。


 ここ最近、【旦那様】は以前に増してあたしに甘くなった気がする。たくさん可愛がって欲しいと言ったからだろうか。

 お仕事中の執務室にあたしの席を用意して、美味しいシャーベットが食べ放題。上機嫌で書類仕事を片付ける【旦那様】は実は凄く仕事の出来る人らしい。よく知らないけど。

 別館と本館を繋ぐ工事が進んでいるけれど、別館には自由に行ける。ただ、行こうとすると一瞬【旦那様】が寂しそうな様子を見せるから少しだけ旦那様のお仕事を眺めている時間が増えたわね。

 今日はクリスとジュール様が来る予定だから、来客まではシャーベットを楽しみつつだらしなく過ごそうなんて思いながらぷかぷか浮いてこっそり書類を覗き込む。

「アンジェリーナ、興味があるのかい?」

「旦那様のお仕事ってどんなことなのかなって。あたし、よく考えたら旦那様の普段のことなーんにも知らないわ。毎日こんなに沢山のお手紙を貰っているの?」

 封筒がたくさんある。それも、たぶん外国語の物が多いわ。

「うーん、美術商の様な仕事もしているからね。外国の商人や貴族とのやりとりも結構あるんだ。これは、海外に流れてしまった君の作品をなんとか買えないかという交渉の最中で」

 ろくなことじゃなかった。すっごく難しそうって思ったけど、内容が酷いわ。

「そんなに古いあたしの作品が好き? いつでも新作作るのに。うん。このシャーベット食べたらすぐ。やっぱりもう一個おかわり欲しい」

 地味に新作のシャーベット、いろんな色が混ざった変な色でとっても不思議な味でくせになりそう。

「食べ過ぎたらお腹を壊してしまうよ? また明日も用意してあげるから、今日はそれで最後にした方がいい」

 笑う【旦那様】は前だったら絶対に無限に減らないシャーベットを用意したのに、今日は食べたらなくなっちゃうシャーベットだ。

「減らない不思議なシャーベットじゃないのね」

「アンジェリーナは食が細いからね」

 おいでと膝に誘われてしまう。断るわけがないじゃない。

 膝に乗ればぎゅっと抱きしめられる。

「今日はずっとこのまま膝の上に居てくれてもいいんだよ?」

「……このあとジュール様とクリスが来るの。クリスは今度の夜会、ドレスで参加するんですって。コートニーより綺麗になりたいって言ってたもの」

 このあたしが仕上げるんだから当然いい仕上がりになるわよ。

「……君が他の誰かを着飾らせるのか。興味深いな。君の装いは君以外には着こなせないと思っていたけれど……」

 とても真剣な表情で言われても困る。

「どうせ旦那様はあたしのセンスがダサいって思ってるんでしょ?」

「独創的だから多くの人には理解されないだけだよ。君は流行の百年先を進んでいる」

 それは、褒めてない。絶対。

「べーつーにー、旦那様に褒められたくてしてるわけじゃないしー」

 あたしはあたしでいたいだけよ。ただ、【旦那様】にダサいって思われてるのはちょっとショックなだけ。

「独創的な君だからこそ惹かれたんだ」

 ご機嫌取りなのか、頬に優しくキスをされる。

 ずるい。嬉しくないはずないじゃない。

「こーゆーの、らぶらぶっぽくてすごく嬉しい」

「そう? アンジェリーナが喜んでくれるならいつだってしてあげるよ」

 ちょっとだけあたしの兄みたいな顔してるように見える【旦那様】はやっぱり整った美形よね。でも、たぶん、あたしはこんなに美形じゃなくても【旦那様】を好きになっていたと思う。だって、求婚されるまでこの美形になんの興味も持っていなかったもの。

「あたし、馬車に揺られてここに来た日からずっと旦那様に可愛がって貰いたいって思っていたもの、今すっごく幸せよ」

 そう告げれば【旦那様】は少しだけ照れたように笑う。

「アンジェリーナは初日からずっと私に好意を向けてくれていたね」

「あたしに求婚してくれた奇特な人だもの。たくさん可愛がって貰っていちゃらぶ結婚生活を送りたいって思ってたの。今だって思ってるわ。迎えに来て貰えなかったのは寂しかったけれど……お手紙は嬉しかったわ」

 怖くなかったと言えば嘘。ちゃんと女性として夫を愛せるか不安だった。けど、たぶんそれって杞憂ってやつだったのね。だって、今のあたしは【旦那様】が大好きだもの。

「あたし、本当に異性愛者かちょっと不安だったの。今までそう言う感情はよくわからなかったし……全部旦那様に任せちゃえば流れでなんとかなるかなって思ってた。でも……旦那様、全然その気になってくれないから……てっきり男が好きなのかと……悩んだこともあったわ」

 正直今でも時々は思うけど。

「アンジェリーナ……不安にさせてすまない。本当に、憧れの君が目の前に居て……正直今も少し緊張している。けど……君を悲しませたくないから……少しずつ、君に近づきたい」

 ぎゅっと抱きしめられ、やっぱり嬉しくなってしまう。

 だけど、あたしを悲しませたくないから近づきたいってどういうことかしら?

「やっぱりあたしと旦那様の前にはまだ壁があるのかしら? お互いを完全に理解し合うことは無理だとは思うけれど、腹を割って話すってやつが必要?」

 そうなると、疚しいところのあるあたしとしてはちょっとざわついちゃうかも。

「アンジェリーナはいつだって正直だからね。参ったな。私はあまり内心を曝け出すのが得意ではないから……」

 困ったように笑う【旦那様】はやっぱり少し儚い雰囲気に見えてしまう。

「困ったら絵を描けばいいのよ。絵は言葉よりも雄弁よ」

 あれ? 饒舌、だっけ? まあいいわ。あたしは詩人じゃないもの。言葉よりも絵で語るべきね。

「ああ、そうだね。君に絵を習うのもいいかもしれない。うん。なるべく早く仕事を片付けるよ」

 そう言いながらもあたしを放す気が全くない【旦那様】には少し呆れてしまうわ。

 それにしても、あたし、もう少しくらい真面目に座学をやっておくべきだったかしら? 【旦那様】が読んでいるお手紙もそのお返事も全く読めないわ。外国のよくわからない記号の羅列ってことくらいしかわからない。

「この相手の人に絶対に旦那様にだけは売り渡さないで下さいってお手紙を送りたいのだけど、この国の文字じゃ伝わらないかしら」

「アンジェリーナ……そんなに私が君の作品を集めるのが嫌?」

「あたし、お買い物のお小遣いが旦那様が絵を買ったお金だったって知ってとても悲しくなったわ。結構いい値段が付いたのは嬉しかったけれど、結局旦那様の懐から出てるのよ? あたし、自力で稼いだと信じてたのに」

 こんな地産地消は望んでいないわ。あたしは少しでも外に自分の作品を発信していきたいのに。

 悲しい表情を作れば【旦那様】は少し慌てた様子を見せる。

「いや、でも、この絵を買ったのは君に求婚する前だし……」

「じゃあ、今後はあたしの絵を買わないで。旦那様が用意してくれた画材を使って描いた絵を旦那様が買ってしまったらあたしが稼いだことにならないわ。あたしただの役立たずになっちゃう」

 作品で稼いでいればまだ家に居る権利も主張できるけれどこれじゃあただの穀潰しね。こんな状態だったらきっとジーンだってあたしを摘まみ出していたわ。

「そんな……私は作品ごと君を買いたい」

「……あたしより作品の方が好きなのね。わかったわ。旦那様には絶対売らない。他にパトロンを探すわ」

 今までの画材代も稼いで返すくらいのことをしないとあたしが立ち直れなくなりそう。

「アンジェリーナ? 君には最高の環境を用意したつもりだけど、まだ不足が?」

「あたしは旦那様の専属芸術家になりたいわけじゃないわ」

 女の子として愛して欲しいのに、やっぱりそれは難しいのかしら。

 元男のことを隠しているから? でも、それって前世の話で今は体もちゃんと女の子よ?

 頭の中がいっぱいになって、涙が溢れてしまう。

「アンジェリーナ、すまない。私が悪かった。だから、泣かないで」

 慌てた【旦那様】が優しく涙を拭ってくれるけれど、別に泣きたくて泣いてるわけじゃない。

「あたし旦那様のこと大好きなのに……あたし……あたしじゃダメ?」

 こんなこと言ったってなんにもならない。頭の中はぐっしゃで、暗い色がいくつも乱暴に重ねられてるみたい。きっと絵筆は使い物にならなくなっちゃうくらい乱暴よ。キャンバスに穴が空いちゃうかも。

「君を全て独占したいなんて……こんなわがままが君を傷つけてしまうとわかっていても……止められないんだ」

 額にこつんと額を当てられる。

「すまない。もう、崇拝するだけではいられない」

 どこか苦しそうな【旦那様】の声に涙が引っ込む。

「旦那様?」

「君の魅力を広めたいと思うと同時に、君を幽閉して独占したいと思ってしまう。この感情のせめぎ合いとどう向き合っていいのかわからない」

 唇が触れる。想像していたようなロマンチックな空気なんて全くない。もしくは妄想した乱暴さも。

 ただ触れあった。そんな印象の口づけだった。

「君に向けるこの感情は崇拝だけではない。けれども、愛と呼ぶには身勝手すぎる」

 きっと泣いてしまったから彼を困らせてしまった。

「女神を汚したいと考えてしまった時点で私は君の信奉者じゃ居られなくなってしまったのだろう。今の私は天使の翼をもぎ取ろうとしている」

 ロマンスなんて欠片もないわ。それどころか猟奇的にさえ思える。

「あたしの手足をもぐつもり?」

「足くらいなら切り落としてもいいかなと思ってしまったことはあるけれど、君のなにかが欠けてしまうのは嫌だ」

 足くらいならって……。

「あたしの足をなんだと思ってるの?」

「だって、君は浮いているから歩く必要はないだろう?」

「足は筆の一部よ。それにヒールが履けなくなるじゃない」

 あれ? あたしにとっての足ってそんな扱い? なくてもあんまり困らない? いやいやいや【旦那様】がおかしなことを言うから変なこと考えちゃったじゃない。

「君の自由は奪いたくないけれど、君を独占したい」

 また、唇が触れた。やっぱり触れるだけと言った印象で、それでもさっきよりも長い時間触れあっていた。

「せっかく旦那様がちゅーしてくれてるのにらぶらぶ感を全く感じられないわ。どうして? 凄く勿体ない感じがする」

「そのらぶらぶ感というのが理解できないのだけど、どうしたらそんな風になるのかな?」

 真剣に訊ねられるとは思わなかった。けれども協力してくれる気はあるらしい。

「そりゃあもっと新婚感を出して欲しいっていうか、いちゃらぶの恋人みたいに過ごしたいって言うか、かわいいアンジー超愛してる感が欲しいわ」

 あれ、自分で言ってちょっと照れる物があるわ。あたしがあたしをかわいいって言うのはいつものことなのに。

「いつだって君のことをかわいいと思っているよ?」

「あたしの好き好きアピール足りない? 同じテンションは無理でももっといちゃいちゃしたいって言うか、具体的には銀河一アンジーかわいいになって欲しいって言うか……言葉で言うのって難しいわ。でも、あたし、旦那様の世界で二番目になりたいの」

 一番は勿論【旦那様】自身よ。

「二番目? 君は本当にそれで満足できる? 私は、君の一番になりたい」

 そっと顎に触れられる。

「君の瞳に一番映るのが私であればいいと願ってしまう」

「それは無理ね。あたしは世界で一番あたしが好きだもの。自分を愛せないと他人を愛せないの。だから世界で一番あたしが好きなあたしはきっと愛情深いわ」

 自分を憎めない人は他人を憎めないのと同じこと。あたしは自分を憎んだりしないから、他人を憎むこともないけれど、自分に嫉妬できるからきっとチャドにも嫉妬出来るのね。

「そうね。あたしがチャドに嫉妬するのはあたしに嫉妬しているからに違いないわ」

「チャドに? アンジェリーナが? どうして?」

 理解が追いついていない【旦那様】は本当に不思議そうな表情をしている。

「だってチャドの方が旦那様との距離が近いもの。あたしの作品と、チャドと……あたし、結局過去のあたしに勝てないんだわ。旦那様は現在(あたし)を見てくれないもの」

 作品は全部あたしの過去。【旦那様】はあたしの過去にばかり目を向けて、あたしを見てくれないわ。

「君はなにか誤解している」

 頬に触れられ驚く。真っ直ぐ視線を逸らさせないように押さえられてしまう。

「私は、少しでも君の心に触れたいから君の作品を集めているんだ」

「変なの。作品なんてあたしの過去の感情よ。ねぇ、旦那様、もっとあたしに触れて? あたしの熱を、鼓動を確かめて」

 言葉じゃ伝えられないけれど、触れあえば心に触れられる気がする。

「あたしはここよ」

 胸元に【旦那様】の手を運ぶ。きっとこれで鼓動が伝わるはず。

「アンジェリーナ……その……流石にこれは……柔らかくて……温かくて……落ち着かない」

 初めは恥じらっていたくせに、次第に手つきがいやらしくなってる。

 どうやら鼓動の確認どころではないらしい。

「あたしに欲情した?」

「……した……してしまうからこれ以上はだめだよ」

 優しく、それでも少し叱るように、膝から下ろされる。

「どうしようもないへたれね。あたしは旦那様にそういう目で見られたいのに……」

 不満顔を作れば【旦那様】は困ったような顔をする。

「すまない……たぶんそれは、覚悟できないよ」

 落雷に撃たれたような気分だ。

 あたしに欲情したと言ったその口で、あたしをそんな風に見られないなんて。

「あたしが正妻だと思ったのに!」

 ハンカチを噛んで悔しがる仕種をすれば【旦那様】はおろおろとした様子を見せる。

「君以外に妻はいないよ」

 困り果てた末に言うのはそんな言葉しかないのだろうか。

 呆れた。悲しい。上手くいえない。感情がいろいろ交ざっちゃってるわ。

「もう今日は帰らない」

 頬を膨らませて思いっきり拗ねて見せる。けれども【旦那様】は一瞬手を伸ばしかけただけで強く止めることもしなかった。




 苛立ちながら絵の具をこねくり回しているとジュール様とクリスティーナ、それからもう一人女性が来た。

「アンジー、大丈夫かい?」

 真っ先にクリスが心配そうな声を出す。

「べーつーにー! ちょっと頭の中がぐっしゃなだけよ」

 訳がわからない。

「あたし、旦那様に求婚されたからこのお屋敷にいるのよね? あたし、旦那様の正妻よ? 彼も他に妻は居ないって言ってた! なのに……あたしに欲情しても手は出せないってどういうこと? え? あたし魅力ない?」

 あたしの基準だとものすごく魅力的だけど、あたしのことダサいって思ってた【旦那様】から見ればそういう魅力は少ないのかもしれない。

「……ジルがまたなにかをやらかしたということだけは理解したよ」

 ジュール様は溜息を吐く。今日は服を見に来ただけのはずなのに、どうして愚痴に付き合わされているのだろうというところだろうか。

「ジュール様、ジャージー生地のお洋服なら被服室にあるわ。勝手に試着して頂戴。あたししばらく絵の具ごねごねしてるから。折角の高そうなお洋服を汚してしまうわ」

 ジュール様は今日もとっても高そうな服を着ている。貴族のお忍びスタイルとも少し違う。なんだかオリエンタルな雰囲気だ。

「別に服を汚すのは構わないけれど、アンジー、今日はクリスを完璧に仕上げるんじゃなかったのかい?」

 ジュール様は相変わらずむかつくくらい笑みを崩さない。

「そうだったわ。でも、あたし、いますっごくむかむかしてて……今日は絶対に本館になんて帰ってあげないんだから」

 でも【旦那様】がぎゅーってしてくれないのは寂しいわ。

 あれ? あたし、怒って家出したのよね? 敷地から出てないけど家出よね? 家出したくせにもう寂しいとか馬鹿じゃないかしら。

「アンジー、喧嘩したの?」

 クリスが困ったような顔で聞く。争い事が苦手だから、あたしが【旦那様】になにか酷いことをされたとでも思ったのかもしれない。

「喧嘩の方がまだマシよ。今の旦那様とは一生喧嘩なんてできないわ。あの人、あたしに曝け出す気ないもの」

 あたしだって隠し事はしてるけど……でも、普通前世の話っておおっぴらにしないわよね。

 パレットに手を突っ込んで掌で絵の具をこねくり回してその手をキャンバスに叩きつける。あら、いい感じの色。

「こうやってやると子供に戻った気分ね。お母様のドレスにぺたぺたしてすっごく怒られたけど」

 今は絵の具で汚しても怒られることはないわ。

 そのまま混ざった絵の具をどんどん重ねていく。いろんな色が混ざっていて、今のあたしの頭の中と同じ……また【旦那様】のことばかり考えてるみたいだけど。

「……適当に手を叩きつけてるだけに見えるのにちゃんと肖像画っぽくなっているのは流石と言うべきかな?」

 ジュール様が呆れたように言う。

「テキトーにペタペタしてたつもりなのよ。もう手癖ね。ずっと旦那様のデッサンばっかりしてたからかしら」

 ぐちゃぐちゃなのに、ちゃんと【旦那様】の形。不思議。絵の中の彼は、すぐにでも手を広げて「おいで、アンジー」って言ってくれそう。

「結局あたし、拗ねてるだけなのよね。旦那様にたくさん可愛がって欲しいのに、過去のあたしにいつまで経っても勝てないから拗ねてるの」

 作品をどうでも良いなんて言われたら悲しいけれど、それでも、あたし、なーんにも作らない日があってもいいかなって。なーんにも作らないで1日【旦那様】といちゃいちゃしている日があってもいいんじゃないかなって思っちゃうくらいにはいちゃらぶ生活に夢見てるわ。

「新婚ってもっといちゃらぶ感あるものだと思ってたのに……旦那様の譲歩は時々ちゅーしてくれる程度ってことでしょ? 寝込み襲うのは最初の一週間で諦めてあげたんだからもうちょっと旦那様からなにかあっても良いと思うの」

「寝込み襲ったんだ……」

 クリスが呆れている。

 あ、クリスには毎日【旦那様】にたくさん可愛がって貰ってることになってたんだったかしら? まぁいいわ。

「アンジーの言う、その新婚のイメージがたぶん一部の特殊な人を指しているのだとは思うけれど……」

 ジュール様は呆れたように言って、あたしに近づく。そして耳元で囁いた。

「君、本当に前世は男?」

「悪い? 政略結婚並に悲惨だったの。努力はしたわよ。ただ第一印象が最悪だっただけ」

 前世の嫁とも仲良くなろうとは努力したけど……中々性格のきつい女性だった。大失敗してその後は悲惨だったから初動を頑張ろうと思ったのに。

「折角結婚したんだもの、仲良く過ごしたいじゃない」

「アンジーのそういう前向きなところは好きだよ。ただ、少し思い込みが激しすぎるというか、もう少し、ジルのペースに合わせてあげてもいいんじゃないかな? 彼の書斎に入れただけでもかなりの進歩だ」

 励ますつもりなのだろうか。けれどもジュール様はなぜかあたしの顎を撫でている。

「うーん、もう少し脂肪があってもいいと思うのだけどなぁ……あと八十キロほど増えたら愛人にしてもいいと思ったのに」

「……ジュール様、流石に人妻に手は出さないで下さい」

 同伴していた女性がやっと口を開いた。彼女もジュール様に負けないくらい体の魅せ方を知っていそうだ。ラベンダーカラーのロングヘアが個性的で美しい。

「ふふっ、冗談だよ。でも、そう言ったらジルはもう少し慌てるかな?」

「あまりジュリアン様をからかうと暴走しますよ?」

 どうやら女性の方も【旦那様】を知っているようだ。

「アンジー紹介するよ。僕の婚約者のカロリーだ。君も気軽にカロリーと呼んでくれ。ここでは身分の話もなしだ」

「アンジェリーナ・ハニーよ。今は結婚してジェリー姓だけどそれもいつまで続くか危ういわね。気軽にかわいいアンジーって呼んでくれて構わないわ。もしくはアンジー」

 そう言って握手をしようと手を差し出したところで手が絵の具だらけのことを思い出す。

「あらやだ、あたしったら。手は筆の一部なの。洗ってくるわ。それから試着補正しましょう」

 カロリー様は少し驚いた様子を見せ、それからくすりと笑う。

「アンジーは賑やかな人ね。ジュール様から私たちと同じだって聞いたのだけれど本当?」

「さぁ? どんなことを告げ口してくれたのかしら。先に被服室に行ってて。すぐ近くの扉よ。かわいい看板を作ったからすぐにわかるわ」

 ぐしゃぐしゃに絵の具付けちゃったからかなり時間がかかりそう。水道からお湯が出る建物でよかった。石鹸で慎重に洗わないと。

 なんというか、こういう細かい部分でもものすごく甘やかされてるって感じるわね。置いてある石鹸一つだってお肌にいい高級品だし、この先一年毎日使っても大丈夫なくらい予備が棚に詰まっている。蛇口をひねればお水もお湯も出るし、手を拭くタオルだって王宮で使ってるのと同じやつだって噂のブランドだ。正直絵の具まみれの汚い手を拭くのに使っちゃいけないような高級品なのだけれども、全部高級タオルしかない。雑巾まで同じ生地で作らせた物を用意しているとかなにを考えているのだろうと思ってしまう。

 もしかしたら、【旦那様】なりの愛情表現のつもりなのかもしれないけれど、あたしは課金さえすれば愛なんて考え方は嫌いよ。

 まぁ、不器用な人なんだろうけれど。

 でも、あたしだって素直じゃないから【旦那様】ばかり責めるのはフェアじゃないわね。

 情けない。散々わがまま言って彼を困らせているくせに、嫌われるのが怖くて肝心な部分で騙してるわ。

 うんざりする心を誤魔化すように手を洗い流す。

 絵の具が混ざって流されていく様子を見ると少しだけ気持ちが軽くなったような気がした。

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