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 長い間、泣いていた。涙の理由は分からないし、いつから泣いていたのかなど、知る由もない。彼女は透明な水底に閉じ込められているように、全てのモノに馴染みが無いのだ。

 それでも、とめどなく流れる涙で夜の町が歪み、自分は泣き続けているのだと確認できる。

「なんで、泣いてるんだっけ?」

 アカネは体育座りまま、俯瞰の風景で首を傾げる。首を巡らせて景色を探し、遠くに泣き出す瞬間に見たビルを見付けた。

「そうだった。私は悲しいんだった」

 アカネは再び涙を流し直し、先程までの苦悩の再生を始める。

 所長は自分の初恋の人であり、自分の母親の彼氏でもある。一見複雑な立場に思えるが、なんてことはない。自分達は家族というだけの話。母親が言ってたのだから、間違いない。

 つまり、所長は自分と近親であり、自分ならぬ人の恋人なのだ。所長が娘である自分に在らぬ性欲を向けるなど、罪以外の何物でもない。

「………」

 いや、涙が流れてくるのは、そういう理由ではなかった気がする。

 所長の部屋を探って証拠が出てきた時、心の太い筋が切れる音を聞いた。手足に力が入らなくなり、視界が白と黒に明滅し、証拠の品を全部破壊してしまった。

 帰ってきた所長を証拠も無いのに問い詰めた。自分は罵倒を続け、所長は助けを乞い続けた。誰が見ても下らない水掛け論。

 許してくれ、二度としない。

 そんな在り来たりな雛形を並べ立てたところで、誰が許すというのだろうか。そんなモノは聞くに値しないと分かっているのに、自分は意地みたいに全ての言葉を否定した。

 否定して、拒否して、拒絶して。

「どうして、私は彼を喰いもせず、まるで私の方こそ罪人みたいな顔をして、水簿らしく事務所を飛び出したんだろう」

 誰も居らぬ廃ビルの屋上で膝を抱える。

 眼下に広がる街並みは遠く。このビルに入る時に通った道でさえ、手の届かない場所である様に思えてしまう。

 現実感の欠乏したあの街はきっと、誰の統制も利かず、かといって自由がある訳ではない。

 巨悪の根差す不出来なエデン。罪深く、悪の蔓延る街に違いない。正義は既に存在せず、真偽はとうに意味を成さず、強欲のみが渦巻く坩堝。正されるべき不具合の集合体。

 妄想の町の表層に人々の罪を数えていると、ガラス張りのビルが目についた。キラキラとネオンを反射する輝きが真っ赤に思え、アカネは初めて人を喰った時の事を思い出した。

 あれは5年程前。家族でピクニックに行った帰りだった。

 幼い頃から、アカネはいつもお腹を空かせていた。

 と言っても、貧乏で食料が買えなかったとか、檻に入れられて餌を与えられなかったとかではない。彼女の家はシングルマザーで裕福ではなかったが、毎日食卓には手作りのご飯が並ぶ幸せは有った。

 問題が在ったのは、家庭ではなくアカネの方。それも性格ではなく機能の欠陥。彼女は何を食べてもプラスチックみたいな味しか感知できず、無理して食べた所で栄養を補給できなかったのだ。

 体が丈夫だったので死ぬことは無かったが、常に飢餓状態だった。

 誰かの設計ミスのために生まれた地獄。しかし、その中でも救いはあった。僅かながらも味がして、栄養補給も出来る食べ物を見付けたのだ。

 生肉である。ただし、食用に加工したものではなく、今まさに生きている動物の肉に限られた。元気に悲鳴を上げる動物の腹を裂き、意識の微睡の中に痙攣する手足に齧り付き、生命を零していく血を啜れば、暫くの間空腹を抑える事が出来たのだ。

 勿論、これで飢餓問題解決とは行かない。野生の動物なんて、そうそう食う事はできないのだから。といっても、捕獲が難しい訳ではなかった。彼らだって命があり、魂があり、必死に生きているのだという母親の教えが捕食を躊躇わせたのだ。

 つまり、目の前は食糧で溢れているのに、有難い母親の御高説のせいでゴミの様な残骸しか口に出来ないという責め苦を過ごしていた。

 ただ、名前も知らぬ犬猫などに慈悲を説く母親であったが、テレビで報道される犯罪者には厳しかった。生命の尊さを謳うその口でテレビのニュース画面に向かって罵詈雑言を浴びせ、法を犯したのだから殺されるべきといつも唾を飛ばしていた。

 その不可解。その矛盾。いや、アカネの中に矛盾というものは存在しない。背反する二律は統合されることなく独立に存在し、事象に対して個別に取り扱われる。

 つまり、無条件で保護されている法治の生命は、過ちを犯した時点で過剰な死に晒されるべきだと心に刻まれた。

 だから、アカネはゴミ置き場を荒らしたカラスとか猫とか、人に吠え付いた野犬とか。秩序を乱すモノだけを喰って空腹を紛らわせる事にした。

 ――近所の人達は私を悪魔と呼んだ。

 罪の有る動物を見付けては、漏らさず食べてきたアカネだが、対象はあくまでも動物で済んでいた。法には触れるし、本能を逆撫でする行為ではあるが、アカネは『おかしな人間』程度の処置で済む場所にいた。

 曲がりなりにも現象的人間の範疇に居たアカネに事件が起きたのは、母親と母親の彼氏とアカネでピクニックに行った帰りだった。何かの拍子に車が崖から落ち、アカネは怪我をして、母親も母親の彼氏も瀕死の重傷を負ってしまった。

 木々の生い茂る深い森の中。見回せば車の残骸が転がっていた。随分と高い場所から落ちたらしく、折れた枝の遥か向こうに元居た道が見えた。

 辺りに充満するのは、咽返る血の臭いと食欲を刺激する匂い。

 空腹が刺激されて、お腹が空いて、空腹が暴れて、食欲が食欲が食欲が我慢できなかった。

 ベシャベシャベシャと、はしたなく、だらしなく。壊れた水道みたいに流れ出る涎を止められなかった。今まで生きてきた全てを否定する強烈な衝動が、心臓の奥に湧き立った。

 道徳とか人間性とか、下らないとでも言いた気な笑みが脳の中でニタリと口を広げた。眼球を握り潰す刺激が、景色を真っ赤に犯していく。生物として最も発情した状態で行う性交ですらも到達できないと確信できる量の快楽物質が、激流として心を翻弄した。

 ――ああ、我慢できない。

 理解できてしまう。人生を真っ当に歩み切れば、人は僅かながらでも夢を成す事が出来る。万人に誇れずとも、小さなコミュニティーで功績を残すことは出来るのだ。

 人間ならばそれに憧れ、自身を英雄に準えるべきなのだと映画で言っていた。

 しかし、人は約束された栄光を投げ捨ててでも罪を犯すことがある。悪人として生まれ落ちた訳ではないのに…いや、この世に悪人などいないのに、この街は破滅の罪に溢れてしまう。

 腕を動かし、対象を覆うように掌を閉め、そのまま移動する。

 ただそれだけの行為を行った時、対象が自分のモノなら何ら問題ではなく、他人のものなら罪になると言うだけの事。

 所有権などという目に見えないモノがなければ、そもそも罪など存在しないのだ。

 ――だから、少し移動して、口を閉じて。上顎と下顎を擦り合わせて、舌をナメクジのように動かし、喉周りの筋肉を細かく動かすだけ。

 その結果として牙が肉を食い千切り、咀嚼して、嚥下して、美味しく胃に収まったとしても、知ったこっちゃない訳だ。

 人生を賭けて歩む先に有るどんな功績よりも、目の前にある罪が愛おしいのだと。

 アカネは生まれて初めて感じた衝動に揺り動かされた。

 しかし、冗談ではない。

 車から投げ出されて、のたうつあの肉は罪人ではない。未だ法の庇護下にある命を喰らうなど、出来る筈もないのだ。

 でも、少しだけなら――

 少し味見するくらいなら、許されるのではないか?

 根拠のない魔が差して、ちょっとだけ肉を齧ってみる。

 ああ!極上の食事!

 今まで自分は何一つ望みを満たしていなかったのだと教えられた。言い知れぬ快楽が舌を通して体中に駆け巡った。

 その姿を見て。

 ――母親は私を悪魔だと罵った。

 火事場の馬鹿力というヤツだろう。母親は外れていた車のシートを持ち上げ、アカネを殴りつけた。母親の彼氏だった人は、立ち上がって母親を引き倒した。その拍子に母親は転び、持ち上げていたシートの下敷きに。体の何処かが潰れて、動かなくなった。

 その光景を見て、アカネはハッとした。

 だって、そうだろう?

 母親は娘を殴った。母親の彼氏は母親を死なせた。

 これで彼らは罪人だ。味見なんてつまらない事を言う必要はなく、喰わない理由なんて何処にもなくなった。

 歓喜の声を上げるアカネを前に、母親の彼氏は静かに言葉を零した。

 ――神様は、何かの間違いで君に罰を与えたんだ。いつか、君はその罰が間違いだと、神様に認めさせないといけない。そんな使命を持った君に、殺人なんて罪を背負わせる訳にはいかないね。

 何を言っていたのか誰も覚えていないが、彼は笑っていた。

 その後、アカネは潰れた足で無理矢理立ち上がって、命のあるまま彼を喰おうとした。

 だが、アカネが辿り着く前に母親の彼氏は拳銃で母親を打ち殺し、自分の頭も撃ち抜いてしまった。

 アカネの逸る衝動は空を切り、肉塊二つを前にするのみ。

 その時のアカネの絶望たるや。

「………」

 事切れた後でも、人肉が美味かった。けれど、これが生きた肉ならば、どれだけの天国を感じさせてくれたのかと想像すると、無念でならなかった。

「そう言えば……」

 あの二人の死に際して、自分は食欲以外の何かを思った気がした。

 大切だった気がするそれを思い出そうとして、景色の上で視線を彷徨わせ――

「あ………」

 アカネは突然の浮遊感に襲われた。腰掛けていたビルの縁から落ち、見えない彼我の境界線が消失し、遠くに見ていた夜の景色が突如自分のモノになった。

 近くは遠く、遠くは近く。

 時の流れも感情の整合も千々に千切れ、景色のナイフで全身を切り裂かれる。

 そうしてアカネは思い出す筈もない言葉を思い出す筈もなく、硬いアスファルトへと墜落したのである。

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