――探偵事務所へようこそ!

月猫ひろ

プロローグ

 教科書を眺めるに、嘗て、世界は希望に満ちていたらしい。

 宇宙は自分を中心に回っていて、暗闇は神秘の住処で、最愛の人は死んだら天国に行って。

 現実なんてそんな曖昧で良かったのに、人は無知を悪と断じてしまった。

 神は死んだと宣って本を認め、不思議は存在しないと地図を書き記した。

 全能は聴衆の下僕に。

 無能は嘲笑の対象に。

 ダーティー・ハリーみたいに正義を下していく。

 挙句の果てには、星の女神様にまでナイフを突き立てた。デコボコの素肌は凌辱され、光の雫は艶めかしさを剥奪される。役目を終えた夢は地に積もり、この水底にはイキグルシサだけが滞留していく。

 そうして世界を白日の下に晒し切った後、正義の味方達は、自身の逃げ場も喪失した事に気付いたらしい。それは神の威光とやらで闇を落とせぬ、最果ての始まりを意味した。

『寒ければ服を着込め、雨が降れば傘を差せ』

 余剰は要らぬと自縄をし、遊びは要らぬと自縛する。

 機械仕掛けの神を捏造し、烏合に墜落して迎合する。

 人間は生まれながらに孤独なのに、自ら自由を差し出す不始末。

 主人なき奴隷に身をやつし、社会的役割に生を使い潰す身勝手。

 個性を殺して従う事を強要するのに、没個性は弱者と断罪する。

 つまらない当たり前だけが声高に叫ばれ、行えぬ者は人間扱いすらしてもらえない。いや、凡才にも理解できる未知として悦ばれ、もはや失われた悪の残影として、気持ちのいい正義を振り下ろされるのだ。

 ああ、大人は傲慢だ。

 幸福な誰かが許せないなら、自分達だけで地獄に落ちればいいのに。


「どうも無駄な事を考える……ダメだね。俺はきっと興奮してる」

 イキグルシイ社会に反発している訳でもないが、俺は今どきの若者というヤツらしい。服に求めるのは流行だし、雨の中をずぶ濡れで走りたい日だってある。

 別に目に写る全てを認めたくない訳じゃない。ただ自分は存在しているのだと、まだ信じたいだけなのだと思う。

「だから自分の身は、自分で護らせて貰う。社会に従わないデメリットくらい、責任を持ってみせるさ」

 本能を逆撫でる星光に急かされながら、腐臭の溜まる裏舞台を歩む。高い壁に切り取られた路地裏には、如月の月明りだけが染み込んでくる。

 雑踏からは隔絶され、醜聞も死に絶えた無人の幕間。読み物によっては閑静な、とでも表現される惨状だ。

 凝縮された冬の残滓が鋭く吹き、思わず両手をポケットに逃がしてしまう。そんな行為で急に体温が上がる訳でもないのに、温もりを感じる脳の錯誤に吐き気を覚えた。

「寒い……でも両手が使えないのは、良くないかな?だって、こんなに緊急事態だ」

 なにを期待しているか分からないが、思わぬ不道徳に口角が上がってしまった。高揚感に足を取られるこの感じは、我ながらハシタナイと思う。

「……いや、本当に落ち着け、俺。小娘2人に追い詰められて、楽しい状況じゃないんだから」

 そうだ。喜んでる場合じゃない。俺にはやらないといけないことがある。

 自由!自由を見せつけてくれる、新しい環境を手に入れないといけない。ブラック校則だとか、親が過干渉だとか。そんな平和ボケした他の奴らとは訳が違う。俺はずっと支配の檻に閉じ込められ、大人にいいように使われてきた。こんな最悪な環境で朽ち果てるなんて、許されざる不公平。今までの苦労が報われなければいけないなんて絵空事を語る気はないが、報われるための努力を、他の誰にだって邪魔させない。

 いや、そもそも自由を求める俺の感情は、周りの環境がそうさせたものでしかない。周りが今更文句を言うのは、道理が通らない。

「だから、足掻け」

 そんなささやかな目標が、今目の前で、無情にも壊されようとしているのだ。何も頭を使わない、建前を本気にした正論によって。

 手段は問うまい。正義感に狂う彼女達を丸め込み、別の環境に追い立てる。万が一にも失敗できないんだ。

「……ふぅ」

 生まれてから何度目かになる、異常な興奮状態に陥っていたらしい。ゆっくり息を吐いて、無意識に早まっていた歩みを緩めた。

 気持ちを落ち着かせて、深く息を吸い込み、正常な緊張感を呼び戻していく。

「ん、なにこれ?」

 吐き出した興奮の代わりに、ぬちゃりとした不快が肺に侵入してきた。一瞬その正体を理解できなかったが、脳みそのどこかは確信していたのだと思う。

 血だ。淀む空気に、血の臭いが混じり始めたのだ。

 興奮状態は飢餓状態に様変わりし、嫉妬がこめかみで脈打った。人通りがない路地裏とはいえ、立派な繁華街の一角。暴力の気配がしていい場所じゃない。

「はは……なにが起こってるの?この先にいるのは、か弱い女子校生2人だけの筈でしょ」

 それがどうして、勝手に暴力の話になる?世界の気でも狂ったか?

 出直すべき?いや、放置するのもリスクに違いない。

「困ったね。目立つことはしたくないのに」

 期待とは違う『いざという時』に備えて、右手をポケットから引き抜く。冬夜に奪われた体温が、硬い空気を溶かしていった。

 ベルトに挟んだナイフを手にすると、霜焼けに似た痛みを訴えてくる。冷えた柄に血が流れ、肉に貼り付いてくる気がした。

「この先かな……」

 路地裏を進んでいくと、急に風中の生臭さが一気に増した。吐き気を催す悪臭は、角の向こうから漂ってくるらしい。

 ――ぺちゃぺちゃという、犬が水を飲む音が聞こえてくる。

 どんな危険が待ち構えているのか分からない。壁に背を付けて、慎重に奥を覗いた。

「は?」

 角の向こうに見たモノを理解できず、世界がぐにゃりと曲がった気がした。

 それはやたらと鮮明で、妙に現実感が無く。例えるなら、この世に存在しない色で描かれた、脈絡のない落書き。

 もしくはAIが描いた絵だろうか。美しく麗しく繊細に描かれているのに、幼稚で稚拙に歪み狂っている不気味さ。描いた側は失敗作だなんて微塵も思っていないだろうが、決して許容できない奇妙な滑稽さが、人生の価値をあざ笑っている。

 だからだろうか?

 ソレから入ってくる感情を、一切理解することができなかった。いや、俺の中から生まれた、初めての感情だったに違いない。

 人格とは繰り返される行動の統計だと誰かが言った。

 人間とは反射と反応だけの心無き生物だと俺は思う。

 纏う誇りも信じられない現象ゾンビの如き自分自身。

 そんな俺でも人生を語るなら、今生まれたこの衝動を口にするだろう。

 壁を染める、紅い紅い血のせいだったのか?

 臓物を散乱させて横たわる、死体のせいか?

 ――一心不乱に死体に齧り付く、血と肉に塗れた少女の姿に見惚れたのか?

 問うては消える堂々巡り。残念ながら、答えは埃のように消えていった。

「誰!?」

「っ!?」

 ああ、だって尋常じゃない。あの少女は死体を喰っているのだ。

 繁華街の路地裏に、偶然死肉が転がっているとは思えない。なら、この少女が殺して捕食したと考えるべきだろう。考えるべきだろうと言うか、うん……?

「……」

「……」

 お互いに見つめ合う、奇怪な時間が過ぎていった。こんなに間抜けな時間は、人生でもう訪れないだろうと断言できる。

「う、嘘でしょ!待って、話を聞いて!!」

「う…うわ……!!俺はなにも見てないよ!」

 美術作品みたいだった少女が動いた途端、世界が意味を持ってしまう。

 大きな腕に背中を押されたみたいで。情けない悲鳴を置き去りに、一目散に逃げ出した。背後からは、少女が追い掛けてくる気配を感じる。

「待って!待ってって!!違うの!」

 縋り付く声に殺意はない。友達に性交を覗かれた女の子みたいに、泣き出しそうな声音だった。

「は…逃げなきゃ……殺される……」

 もちろん待つ気など更々無い。追いつかれれば、殺されるに決まっている。アイツを殺して喰らっていた、紛れもない化け物が。

「あ……くそ……邪魔……!」

 一心不乱に、一生懸命に。道端に転がるゴミ袋やらポリバケツやらを蹴っ飛ばしながら、もたもたと走り続けた。

 後ろを振り返る勇気はない。ただ、ただただ遠くの方に。

 走って、走って、走って、走って……

 走って、走って、走って、走って―――

 走り続けて路地裏を抜け、人ごみに戻った辺りから記憶が薄い。どこをどう通ってきたのか、ストロボ程度にも思い出せなかった。


「はぁ………はぁ……」

 気が付いたら自分の部屋にいて、ドアに凭れて座り込んでいた。天井を彷徨っていた視線を床に落として、初めて靴を履いたままである事を知った。

「あぐ…はぁ……助かったのか……」

 意識が戻ると、麻酔が切れたみたいに体が痛み出した。

 喉が熱い。目の奥が疼く。血が乾いて血管が張り付いているみたい。心臓は酸素を求めて荒れ狂うのに、息を吸う度に肺が焼かれていく。

 長い時間、走り詰めだったのだろう。時計を確認しようと思ったが、首をわずかに上げる気力も残っていなかった。

 何十分か、何時間か。痛みを溶かす方法が分からず、ただ時が過ぎるのを眺めていた。

「は……はは……は……」

 そしていつしか、恐怖すらも忘却の彼方。

 自分でも情けないと思うが、SNSで悪口を書く時ぐらい気分がいい。

「ははは……彼女に怯えないといけないのに、それが出来ないとはもどかしいね……」

 鼻水垂らして逃げていた、先程までの俺が呆れるであろうこの歓喜。喉元過ぎれば熱さ忘れるとはよく言ったもので、今まさに自分がことわざの僕なのが面はゆい。

 それでも、この衝動に祝福を。猛る性欲に効かぬ抑えを。

 記憶の中の赤い路地裏に危機は無く、ただ鮮烈に美しい。

 ああ!あの光景が焼き付いて離れない。両目をくり抜いて、誰かに見せ付けてやりたい。あの感動を誰かの脳に刻み込んで、ナイフで掻き回してやらないと気が済まない。

「ははは…はは……は……」

 食い掛けの死体と、巻き散らかされた血、脳を抉る悪臭に、足元が歪むような感触。肉の赤と脂肪の白で頬を染める、行儀の悪い黒ジャージの少女の姿。

 酷く背徳的で、凄く滑稽で。

 常識を疑うくらい官能的で、下ネタのように世俗的。

「…………ハァ…ハァ……チクショウ」

 あの光景で抜こうと思ったが、上手くいかなかった。酒でも入っているように体が熱くて、苛立ちだけが募っていく。

 ――なんで自分を置いて行ったのかと、恨みがこもった瞳が高揚に水を差す。

「くそ……」

 脱いだジーパンを、乱暴に服の山に投げ入れる。勢い余って服の山を崩し、部屋を散らかす要素の1つになり下がった。

 洗濯物の溜まった部屋を思い出すと、アイツの眼が蠢いた気がした。

「くそ……!」

 どういう経緯で、アイツがあんな死に方をしたのかは分からない。

 死に際には恐怖があったかもしれないし、幸福が有ったかもしれない。勇敢な死だったかもしれないし、悍ましい死だったかもしれない。

 かもかもかもかもかもかもかもかも。

 結局、マッチ売りの少女だ。俺はアイツのことをなにも知らなかった。

 カワイソウニ

 偉そうな感想に耐えられなくて、床にナイフを突き立てた。

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