現実との対話Ⅲ

「勝手に殺すな。彼女は奥深くに眠っているだけだ」


 先生は僕の言葉をあっけなく否定する。死という言葉を嫌悪するように顔をしかめる。眠り続けることは死と同じように思えるけれど。


「違うさ。眠っているだけなら起きることができるが、死んでしまえばそれは難しいだろう」


 何を当たり前を、と先生は鼻で笑う。僕はさらに質問を続ける。これはずっと僕が抱いていた疑問、そして恐れだ。


「……お前の言う通り、一生醒めない眠りは死と同義だ」


 なら、と鼻息を荒くした僕を先生が手のひらで止める。そう興奮するな。先生はそう言って短くなったタバコを灰皿に押し付ける。


「だが、一生醒めないと誰が決めた。彼女の傷が癒えるには時間がかかる。だからこそ、お前たちは学校ここに来たんだろう。慌てるんじゃない。ありふれた言葉だが、時が解決してくれることも世の中には確かにあるんだよ」


 T大学病院付属神了しんりょう学園――僕たちのいる場所。心に傷を負ったものたちが、社会に復帰するべく心のリハビリテーションを行う学園型ホスピス。たしかに僕と先輩はここで過ごし、平穏を取り戻しつつある。でも、ここにきてもう三年が経とうとしている。


「変化はないように見えて、確実に出ている。お前だって最初に比べれば感情豊かになったじゃないか」


 新しいタバコを取り出し咥える。軽く息を吸いながら火を近づけると先端が赤く灯る。先生が息を吸うたびに脈動のようにそれが光る。


「……ショック療法だ? 馬鹿を言うな、それは最後の手だ。確かに成功すればゴール手前までのショートカットになるが、それはいちかばちかの賭けになる。いや、賭けにもならない。おおよそ負けが決まっている、いかさま勝負みたいなものだよ、それは」


 聞きかじった知識を先生に尋ねてみた。しかし、先生は難色を示した。それは多分に危険を孕んでいるのだと。


「彼女の場合、それをやるのは簡単だがな。あの日の事件を思い出させればいい。それだけで彼女の中のバランスはあっけなく崩れ、精神は崩壊する。うまいこと傷ついた部分だけが剥がれればいいが、たいていの場合、健常な部分も道連れになる。そうなれば彼女は一生元には戻れない。それこそ、精神の死だよ」


 くんじゃない、と先生は殊更にゆっくりとタバコを吸ってみせる。タバコがじりじりと火に食われ、灰になり落ちていく。


 先生の言うことはわかる。だけど、僕の脳裏に腐った卵の映像がこびりついて離れなかった。

 あの腐った卵が。

 硬い殻に守られてゆっくりと腐っていったあの卵が、どうしても、先輩に見えてならなかった。

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