作者による自作の誤読(或は自作を批評すると云う事について)

@Pz5

はじめに—そもそも「作者の解説」とは—

 私の「小説(お話)」は小難しいらしい。

 慥かに、暗喩や寓意をフレイバー程度に盛り込んだり、通奏低音としての複層的隠し味を入れる事はある。だが、それは飽く迄も「香辛料」であり、本筋は別に単純至極に書いて居るつもりである……と断言したいのだが、例えば今回出した「カルナヴァル」でも注釈や解説が欲しい、との声が寄せられた。


 そこで、試みに前述のを題材に「私の創作方法」を書いてみる事にしたのだが、しかし、これより先をご覧頂く前に、先ずは一言申し上げておきたい。


 それは、「全ての感想は『誤読』である」と云う事である。


 これは、仮令たとえ作者自身が自作に関して語るときにも同様である。

 何故なら、如何なる文章も、作者自身が込めた「想い」と、それとは別に無意識に入ってしまったモノ、また実際にでき上がったモノを見るときの時間経過や心境の変化等、作者自身でさえ自身の心を制御している訳ではないし、別の人の感想によって自作の見方を変える事は当然の事だからである。後に見返して「ああ、自分はこんな形にしたのか。今なら別の形にするな」と云う事は、小説や創作物に限らず、職場や人間関係等、今これを御覧になられている貴方自身を振り返って頂いても枚挙に暇が無い事だろう。


 故に、これから私が語る私自身の事に関しても、今現在これを書いて居る時点での私自身の「想い」である、以上の事は無く、後に全く反対の事を云っているかも知れない。

 そもそも、「自作を解説する」とは、「ユーモアの分析」以上に錯誤的な事であり、カエルを解説する為にカエルを解剖して殺してしまう様な事なのである。


 更に云えば、私は自身の「本業」を「油彩を主とする芸術家」としており、実は文章よりも視覚芸術の方をより得意としている(残念ながら、ただでさえ無名のこの小説より、さらに知られていないが)。

 なので、私の創作方法にはそう言った現代芸術的な方法論や西洋近代主義的抽象論が多分に混じっている。詳しくは後に述べるが、私はお話もまた、非常に「視覚的なモノ」として描いているのである。


 だから、もし貴方が私の物語から何かを得ていたとして、これから先私が語る自作に大しての愚かな誤読に接しても、それは一人の狂人が「作者」と云う特権を振り回して好き勝手に云っている事だと想い、貴方自身の素敵な「感想」を保持して頂く様、深くお願い申し上げる次第である。

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