第2話

 5


「それでは、古城さんのご活躍を期待して、乾杯」

 夜。騒然たる居酒屋の中で、野神課長がビールのジョッキを掲げた。

 三人だけの歓迎会だ。

「今日はありがとうございます。野神先生と渡條先生から多くのことを学びつつ、心理士として一人前の仕事ができるよう努力しますので、これからもご指導の程よろしくお願い致します」

 古城は殊勝なことを言った。保護室のときは私の言うことなんか全然聞かなかったくせに。と成美は皮肉の一つでも言いたくなる。

「前の病院と比べてうちはどうですか、雰囲気とか」

 野神先生が訊いた。

「思っていた通りの、素晴らしい病院です」

 当たり障りのないことを言うが、どう素晴らしいのと突っ込んだらなんと答えるだろう。

 うちに入ってきた動機、今夜こそ突き止めてあげるから。

「まず、通常の心理の仕事に専念できるのがいいですね。前の病院は総合病院だったので」

「院内の全診療科から依頼が来るということでしたね」

「『他科へのコンサルテーション業務』というもので、治療拒否や病棟トラブルなど起こす問題患者の対応とか、難病やターミナルケア段階のスタッフ側の不安を解消するとか。若いドクターの学術発表の基礎解析もします。あとは、一般の精神病院でも同じですが、心理アセスメントや心理治療、家族療法の実施と、学会発表ですね」

 業務の範囲が広すぎる。

 わたしはできるかな、と成美は思った。

「ここはいい感じの店ですね」

 古城はネクタイをゆるめながら店内を見回した。店の名前は「江戸屋」。中央に日本庭園があり、各小上がりをすだれが仕切っている。漆黒の座椅子も雰囲気がある。オーナーが江戸時代を意識して作ったという。

 この店を予約したのは成美だ。

「たまたま割引券持ってたから。気に入ってくれました?」

「はい」古城は豊かな笑みを表わした。

 成美はなぜか当惑した。

 鯛鍋、刺身盛り合わせ、魚介の味噌グラタンなどがテーブルに並べられていく。最近の社会的事件や趣味のこと、仕事のことを話題にしてそれなりに盛り上がり、古城の歓迎会は終わった。

「私はこれで帰りますけど、お2人で二次会でも行ったら?」

 野神先生は笑って言った。その笑い方が妙に意味ありげだった。先生は私が応接間を覗いていたことを変にとらえているのだろうか。

 もっともこのまま帰るわけにはいかない。古城君のこと、まだ何も訊いていないのだ。

「どうします?」

 野神先生を見送ってから、成美がほのかに赤く染まった声で聞いた。

「いいバーを知っていますけど、そこに行きますか」

 古城が何気ない仕草で言った。

 成美は頷いていた。


 え……、ここ、どこ?

 成美は知らない部屋のソファにいた。

 薄暗い空間。窓にカーテンが引かれている。テーブルにステレオ、テレビ。誰の部屋? なんだっけ、わからない。体に毛布がかけられていた。頭、痛い。

 昨日、私は……。

 そうだ、古城君。彼とバーに行ったんだ。

 それからのこと、思い出せない。急速に不安が高まる。

 物音がした。成美は毛布を抱いた。ドアが開いた。

「あ、おはよ」

 古城が言った。

「なにしたの、私に」

「そう言うと思った。なにもしてないよ。昨日のこと覚えてないだろうけど、君がバーで酔いつぶれたから、ここまで連れて来てあげたんだよ」

「本当でしょうね」

「信じてもらうしかないです」と頭をかく。

 成美は自分の服の乱れを特に感じなかった。まあ信じてやるか。

 テーブルについて、古城が出してくれたコーヒーを飲んだ。頭はまだ痛かった。

「昨日、どんなこと、話したんだっけ」

 我ながら間抜けな問いだと思う。記憶があいまいなのだ。

「いろいろ」

「なに、そのいろいろって」

「ともかく」

 古城は黒い液体で唇を湿らせた。「一通りのことは話しましたよ」

「もう一度話して」

「大切なことを話すのに二度目はないです」

「意地悪」

「意地悪じゃないですよ。本当は伏せておきたいんです。昨日だって渡條さんがどうしても聞きたいというから」

 成美はコーヒーを一気に飲み干した。せっかく謎を解くチャンスだったのに、失敗してしまった。

「わたし、帰る」

 と立ち上がる。

 古城は地下鉄駅まで送ってくれた。土曜の朝の住宅街は静かで、雀たちの鳴き声が耳を刺すようだった。

 そっけなく手をふって改札をすり抜け、東豊線に乗った。駅から徒歩数分のアパートに帰る。バッグから鍵を出し、部屋の中へ。二日酔いなんて初めてだった。

 たぶん私、古城さんを酔わせようとして私も一緒に飲んじゃったんだ。

 彼のことだから、秘密の話も私が酔って忘れることを見越して話したのかも。

 シャワーを浴びようと服を脱ぎ捨てたとき、胸ポケットから紙切れが覗いた。文字が散乱していた。縦書きの文字が線で消され、その横に違う文字が書かれている。小さな紙切れの上で戦争が繰り広げられたかのようだ。成美は生き残った文字の群れを読んでみた。

「再会の…よろこび…満ちる…青葉かな」

 五七五だ。これ、俳句だ。

 そのとき、記憶が光った。

 古城は、私が外来のロビーで高畑さんと話しているのを見て、俳句を作ったという。あのときのメモはその情景を詠んだ俳句だったのだ。これを昨夜、古城は私に渡してきた。

「ふざけないで。気持ち悪い」

 成美は紙きれを捨て、今度こそシャワーを浴びた。

 鏡に白い肢体が映る。

 なめらかな肌。スマートなお腹。適度な大きさの乳房。自分の体を見ていた成美の目に、赤いアザがとまる。淡い嫌悪感が滲む。

 古城さんは、これをどう見ているのかな。

 清潔な泡立ちと香が浴室を満たしている。


   6


 11月にK市で日本精神医療学会がある。大会テーマは「精神医療の多様性」だ。今回は第五十回という節目で規模も大きい。平和病院として参加したい。何でもいいから症例を発表して欲しい、期待している。以上。

「……と院長先生に言われました」

 古城がパイプ椅子に腰をかけて言った。

 場所は臨床心理室。この部屋は1階にあり、普段はカウンセリングや心理検査に使用している。狭いが、部屋があるだけ十分だ。

「さすがですね」

 と成美。

 私が学会発表したのは入職して結構経ってからだった。発表は病院の宣伝にもなるだけに、未熟な発表は許されない。しかし私と古城さんを比べても意味がない。彼はこの病院に入って浅いものの、心理業務の経験は豊富なのだ。

「いま7月だから、あと4ヶ月あります」

「間に合いますか」

「全然余裕です」

「だって抄録の締め切りはもっと早いでしょ。学会当日の2、3ヶ月くらい前じゃないですか」

 抄録とは発表内容を一定の書式にまとめたものだ。そして学会事務局が演者から提出された抄録を一冊の冊子にするのである。

「だとしても1ヶ月はあります」

 患者への治療効果を理論的に分析し、内容を構成する。そのあと抄録を書く。それが一か月でできるだろうか。日常の業務もあるというのに。もちろん発表のときの内容はおおまかにしておき、先に抄録だけを書いてしまうやり方もあるが、正攻法ではない。

「できますよ。逆に、どうしてできないんですか」

 古城は自信満々に言った。

「まず、患者さんの治療は長くかかるから」

「治るのに10年かかると見立てれば10年かかるものです。それはそういう関わり方になるからです。もっと早く治ると信じるなら、それこそ1日でよくなるかもしれません」

「症状が軽いなら、そうでしょうけど」

「重い人でも同じです。こっちの信念とやり方次第です」

 成美は吐息をもらした。

 常識が通用しない。子供のようでもある。だけど、古城さんはそれでいいと思うし、その姿をずっと見ていたいとも思う。

「僕は取り上げる症例を、保護室の優作さんにしようと思っています」

「優作さん? 山田さんのこと? どうして名前で呼ぶんですか」

「彼は家族や友達に優作と呼ばれているらしいです。だから僕もそれを真似て」

「ああ……」

 親近感を出すためだろうか。

 間違いではないのだろう。

「ねえ古城さん、先崎先生に怒鳴られたって本当?」

 それはかねてから心配していたことだった。内心、傷ついているのではないか、と。

 いや本当は、自分が心配しているということを古城に伝えたいだけかもしれない。

「本当です。でも気にしていません」

「大きなお世話だけど、行動は少し控えた方が……。入ったばかりだし」

「そういえば今日も怒られました。患者への対応が先崎先生の意向に沿わなかったみたいですね」

「だからあ」成美は少し笑ってしまった。

「でも、自分の主義を捨てて、ドクターの言いなりになってたら、心理士としての自分の存在意義はないと思います」

 古城は立ち上がり、窓辺で中庭を眺めた。

 東屋で看護士と患者が談笑していた。花壇には赤や黄色の花が咲き、百日紅の木々が花をまとって立っている。百日紅の名前の由来は、花の咲いている期間が長いから。どんな言葉にももっともな意味があるものだ。文字の成立過程を辿れば根元的な意味に達することもできる。

 例えば「紅」は、「糸」という意味区分を表わす意符と、「工」という発音を表わす音符とが結合してできた形成文字である。工は、烘に通じている。烘は赤いかがり火の意味を持つ。だから紅にはあかいという意味があるのだ。

「ちなみに、かがり火というのは鉄製のかごの中に松を入れて燃やす火のことです。夜中の警護とか照明とか、漁猟のときに使っていました。紅の根底には、そんな意味があって、そう考えると、口紅っていうのも、本来は闇の中で真っ赤に燃え上がるようなものなんでしょう」

 古城は知らずのうちに講義をしていた。

「前から思ってたけど、古城さんは言葉への関心が強いですね。牧村さんという患者にも詩を書いてましたね」

 成美が言った。

「日本には昔から言霊という考えがあるでしょう。万葉集の時代から言葉の力を信じてきた日本人だから、言葉の治療は大きな効果が期待できると、思っています」

 古城の体から光があふれたように思った。背後の窓から入る陽射しが白衣に反射したせいなのだろうが、彼の信念が見えたように思った。


 精神科医は患者を診て、心理検査が必要だと感じたら、依頼書にその旨を書いてカルテに挟む。依頼書は看護婦、看護士を通して心理士に流れてくる。今までは野神と成美の二人でやっていたが、これからは古城も担当する。

 成美が特に苦手なのがロールシャッハだ。処理だけで膨大な時間がとられるし、解釈にもいまいち自信が持てない。その心理検査結果報告書は野神先生に妥当性を確認してもらっていたが、いつまでも甘えてはいられない。先生も忙しいのだ。

 成美はロールシャッハを古城にお願いしたかった。

 できれば解釈のコツも教えてもらいたかった。

 ところが古城はろくに心理検査もせず、病棟の患者たちに詩を書いて回っていた。

「古城さん、何やってるんですか?」

 成美はわざわざ病室まで彼を探しに行くことが腹立たしかった。

「また詩ですか」

「違います。俳句です。この方が昔の美しい思い出を俳句にするのを手伝っているんです」

 年老いた患者がエヘヘと笑った。

「わかりました。あの、ドクターから心理検査のオーダー出てますよ。手伝ってください」

 と依頼書の紙を示す。それは中年の患者に対して知能検査を実施してほしいというものだった。担当医は先崎先生だ。

 古城は紙を見てから、

「それは必要ありません」と答えた。

「は?」

「この患者に知能検査は必要ありません。この患者さんの知的能力を考えると負担が大きすぎます」

 古城は成美の目を見てはっきりと告げた。

 成美はケダモノに襲われるような恐怖を覚えた。精神病院で肩身の狭い心理士が誇れる数少ない業務――心理検査。それを自ら拒否するというのだ。こちらの常識が通用しない。この人は本当に人間か。でも負けられない。

「ドクターからの指示です。やって下さい」成美は意図的にドクターと言った。

「では、ちょっと行ってきます」

 古城は患者に笑みを送ると、病室を出た。

「よかった。知能検査やるんですね」

「いえ。説得に行きます。検査の必要はないと、先崎先生に」

 心が無重力状態に陥る。なに、なんて言ったの? 心理士が医師に反抗するの?

「ちょっと、待ちなさい!」

 成美はあわてて追いかける。病室を出たところで看護婦とぶつかる。転倒。古城の白衣が遠ざかっていく。

 もういい、勝手にして。

 クビにでも何でもされちゃえ!


「なるちゃん、とっておきの情報、あるよ」

 朝日野光造が事務室に成美の姿を認め、声をかけた。

「情報って?」

 成美はカルテの棚を探す手をとめた。

「彼のこと」

 古城のことだ。

「響子から聞いたよ。調べてるんでしょ。俺、少し知ってるから後で教えてあげる」

「結構です」

「いいからいいから」

 朝日野は事務室を出ていった。

 成美は目的の患者のカルテを探し当て、机に着いた。胸ポケットからボールペンを取り、患者の環境の変化について書き記した。そうしながら頭は古城のことが気になっている。

 彼を調べようと思ってバーで酔いつぶれて以来、謎のことはどうでもよくなっていた。でも知りたい気持ちもある。妙に彼のことが気になっている。

 その日の仕事が終わり、アパートで休んでいると、携帯が鳴った。

「なるちゃん。古城情報仕入れたよ」と響子。

「朝日野さんから聞いたのね」

「あ、知ってる?」

「まだ聞いてない」

 後でと言われたが、何の連絡もなかったのだ。

「朝日野、急に夜勤入ったって。それでさっき私のところに連絡来て、話してくれたの。聞きたい?」響子はウキウキしている。

「べ、別に」

 成美は本心を隠した。

「はい、嘘ついてるね。じゃいまから教えてあげるから、よく聞いて」

 成美は携帯電話を握りしめる。

「朝日野、朝霞大学の卒業生だったの。学生時代に精神看護研究会というサークルに所属してて、卒業後もOBとして飲み会などに参加してたの。そこに古城君と同期で同学科の人がいたんで、話を聞いたみたい。やらしい男だよね」

 響子はそこで笑ったが、成美は黙って聞いている。

 古城語楼には懇意にしている教授がいた。精神保健学部長の池森教授だ。彼は講義をする他に附属病院の臨床心理士としても患者の治療に当たっている。大規模な学会の理事長を務め、いくつかの著書もある。そして、古城が朝霞大学付属病院に就職したのも教授の力が働いていたと言われている。

「それで、彼が平和病院に来た理由だけど」

 響子が続けた。

「やっぱり教授の力で?」成美はサスペンス映画に引き込まれるようだった。

「知りたいでしょ」

「知りたい、焦らさないでよ」

「あとで冷菓屋のバニラ&レモンアイスおごってくれる?」

 それは有名なアイスの店だった。

「おごるおごる」

「えへ、実はまだわからないんだ」

 成美は水たまりに顔面から突っ込んだ気分だった。

「あのねえ」

「あはは、もうちょっと待ってて。朝日野、働かせるから」

 成美は電話を終えると、心理学の本が並ぶ本棚から池森という著者名を探した。何かわかるかもしれないと思ったが、彼の名前は見あたらなかった。

 翌日の昼休み、病院の資料室を訪れた。ここには平和病院の記念誌や職員の論文、心理学や精神医学の書物、学会誌などが揃っている。手あたり次第、学会誌を手に取って調べると、「日本言語臨床心理学会」の学会誌に池森教授の名前を見つけた。理事長だった。

 言語臨床という言葉に成美は頷く。

 本棚から池森都司雄の著書を探すとハードカバーの本が見つかった。タイトルは「治療的言語の有効性」。成美はふと古城の行動を思い起こした。病院のロビーで俳句を書き、山田優作に自ら進んで言葉をかけ、牧村陽治に詩を贈っていた。

 本の最後のページに、教授の顔写真と経歴が載っていた。

 白髪まじりの髪を七三分けし、シルバーフレームの眼鏡をかけている。穏和な面差しだが、目つきは鋭い。

 次に経歴を見る。

 ――九三七年、札幌に生まれる。五九年、V大学人間社会学部実験心理学科卒業。六四年、同大大学院実験心理学科博士課程修了。同年、同大実験心理学科助手。六八年、アメリカのN大学臨床心理学科研究員を経て、現在、朝霞大学精神保健学部臨床心理学科教授。――

「V大学卒業……、あれ、たしか院長も」

 記念誌が創立10周年から40周年まで棚に並んでいる。10周年の記念誌の「院長の挨拶」には先代の院長が載っていた。20周年の記念誌を開くと、現院長の穏和な面差しの顔写真があった。このとき40才だ。経歴を見ると、V大学医学部を卒業している。しかも37年、札幌生まれ。

 池森教授と大杉院長は、同じ年、同じ大学だったのだ。

 救急車のサイレンが聞こえた。

 資料室の窓から正面玄関前に救急車が停車するのが見えた。髪の長い少女が救急隊員に両脇をつかまれ、中に運び込まれていった。これから診察、入院か。ふと自分の今していることが、けっ飛ばした石ころの行く先を眺めるような、取るに足らないことに思えた。

 記念誌を片手に、成美は昼下がりの青い空を見上げた。

 取るに足らないことだけど、でも、彼のことが知りたい。ただの好奇心じゃない。

 成美は記念誌を広げ、目次を調べた。

 ――記念講演「精神科医療のあるべき姿とはなにか」 池森都司雄 朝霞大学精神保健学部心理学科助教授――

 あった、あった。

 これで二人が繋がった。

 ページを開くと、演台で講演をする池森の写真が載っていた。潜水艦のスクリューのような目だ。

「……私は学生の頃、実験心理学を学んでおりまして、それはネズミを実験材料にして動機付けなどのメカニズムを研究するものでありまして……そういったことをしているうちに、ふと疑問が浮かんで参りました。つまりネズミの実験から得た知見を人間の心理の分析に適用していいのかということです。それでアメリカに行って、臨床心理学というものを学んできました。この学問は当時の日本では遅れていて、アメリカが進んでいたんです……」

 池森はそのあと、日米の精神病院を比較した上で「日本は患者を非人間的に扱っている」と非難した。「患者の暴言、暴力を薬で強引にねじ伏せている」「精神科薬に安易に頼り、患者の心の理解を放棄している」「むしろ薬を処方できない心理士の方が、精神科医よりも真剣にそして誠実に患者に向き合える」と述べ、「平和病院では、心理士の数がゼロです。これをどうにかしないといけない。そして薬に依存しない人間味ある最良の医療を患者さんに提供して頂きたく思います」と結論した。

 先の時代を見すえた意見ではあるが、記念講演で批判めいたことを言うのは異常だ。これは院長への敵意の表明とも読める。発言の中に心理士と精神科医の対比がやけに目立つから、敵意というよりも、精神科医に対する心理士の挑戦といったほうが正確だろうか。

「お呼び出し致します」

 全館放送がかかった。

「臨床心理士の渡條さん、至急外来までお越し下さい。繰り返します。臨床心理士の……」

 やばい、今日はカウンセリングの担当の日だった。成美は外来に駆けつけた。朝日野からカルテを受け取り、ソファに座っていた女性患者、立花幽香に声をかける。

 症状は対人恐怖症だ。高校を卒業してアルバイトをしていたが、人が怖くなってやめた。家族構成は両親と高校生の弟がいる。父親は会社員、母親はコンビニでパートをしている。家族関係はいいようだ。カウンセリングを開始したのは1年前からで、ずいぶんよくなったが、あと一歩足りなかった。幽香は治ることに抵抗を示しているのかもしれないと成美は仮説を立てていた。

 臨床心理室にテーブルを挟んで座る。

「この前、友達と海に行って来ました」

「あの、幼なじみの友達ですか」

 幽香の日常的な話題に成美は答える。

「うん。その日、朝から気持ちがね、なんとなく落ちこみ気味だったんだけど、その子に会ったら元気が出たんです」

「元気が出たんですね」

「そうそう、ああいう関係っていいなと思いました。余計なこと考えないでいいし、疲れないし、元気になりますから」

「昔からの友達は、考え方も性格もお互いによく知っているから、気楽につき合えますね」

 最近、カウンセリングの内容が同じことの繰り返しになっていた。

 共感的理解を原則にして立花さんの感情に沿っていくだけでは、これ以上先に進まないと思った。

「知らない人に、まだ恐怖を感じますか」

「はい。動悸がするし、やっぱりまだ、ちょっと恐いです」

「それでも以前よりは良くなったんですよね」

「はい、以前よりは……」

「どんなところが良くなったと思いますか?」

 成美が聞いた。

 幽香は猛スピードで走る車に乗ったみたいだった。

「コンビニに行けるようになったのも、良くなったところですね」

 幽香は以前と比べて明らかに行動範囲が広くなっていた。人の中にいること、人と会話することの恐怖が薄らいでいる証拠だろう。

 にもかかわらず、それ以上進まないのはなぜだろう。成美はもどかしさを覚えていた。

「もし恐怖がなかったら、立花さんの対人的な問題ってどうなるでしょうね」

「……解決するかも」

 幽香は自分の髪をなでた。

「解決したら、どんな気持ちになりますか」

「……」

 成美は静かに沈黙の息を吐いた。

 視線を幽香からテーブルの上に落とした。焦ってはいけない。それはわかっている。しかし成美の速度は落ちなかった。

「仮に、もう対人恐怖症が治っているとしたら、どんなことができるようになるでしょうね」

「先生は、そのアザがなかったら、どうしますか」

 幽香の口から機械的な音が響く。

「先生は、もっと人と気楽に話せるし、自信をもって楽しく生きることできるかもね」

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