第15話 少女の家族(2)




「彼女が、母親から過度な教育を受けていたことはご存知ですよね」と私が確認すると、目の前の男は認めました。


 男は「妻は、あの子が生まれてから豹変しました」と語る。まるで人が変わってしまったかのように、年々教育の激しさが増していったそうです。最初の頃は子育てに熱心だと認識していて、度が過ぎれば注意していたそうですが、まつりとの親子関係が否定されてから、男はとくに何も思わなくなったというのです。「あの子がどうかよりも、妻の方が心配でしたので」と目の前の男は話す。


 豹変したものの、いつか元の妻に戻ってくれる。そう希望を抱いていたそうです。私としては、なぜそのような不確かな可能性を信じ続けられたのか、疑問でしかありませんでした。最初から騙すつもりで猫を被っていて、子供が生まれてから本性を露わにした可能性だってあり得るのに。まつりの教育方針の件で母親に対する印象が最悪となっている私には、むしろそちらの方が得心するのです。


 この男は妻の浮気によって自分とは無関係な子供を扶養することになり、さらにその子供が虐待の域に達する教育をさせられていたとしても、妻への愛が強すぎて盲目的なのか離婚などせず家庭を維持し続けていました。私には理解できませんが、たとえ他人の子供であっても、良心を麻痺させて虐待を見逃してでも、愛する妻と一緒にいることができるのであればそれでよしとしたようです。


 そうしてこの男は妻だけを見て、まつりには同居人程度の関心しか抱かないという、全てが歪な家庭は、あるとき唐突に崩壊していきました。まつりの感情が爆発し、金髪にした結果母親を殴り倒し、そのことによって母親が病んでしまい自殺してしまったのです。


「私にとって、あまりにも突然の出来事でした」と男は語る。男は精神が病んでしまった妻だけを心配し続け、病む原因を作ったまつりを憎み続けたという。「あの子さえいなければ、妻は心を病むこともなく、そもそも豹変することもなかったのです」と、男はあまりにも身勝手なことを話すので、私の嫌悪感は加速度的に増していきました。「奥さんの死については?」と尋ねると、「あれは事故でした」と返すだけでした。妻を偏愛するこの男にとっては事故であり、母親によって支配されていて潜在的な憎悪を溜め込んだまつりは自殺として認識している。そのことに不思議な感覚を覚えるも、どこか納得できてしまいました。


「妻が亡くなってあの子だけが残されたことによって、あの子への愛情はほぼなくなりました。あの子は私にとって愛する妻のおまけのようなものでしたから、あの子だけになってしまえば興味などありません。ですが戸籍上は私と親子であり、妻が亡くなったからといって追い出すわけにも世間体としてできません。よってあの子が成人して自立するまで最低限の金銭的援助と書類上の保護者の役割はしつつ、あの子には過度な干渉はしないようにしています」


 話を聞いて、私は純粋に、この男が気持ち悪くてたまりませんでした。殺意とも憎悪でもない、名状し難い負の感情が沸き起こります。まつりの母親もそうでしたが、父親も反吐が出そうな、唾棄すべき人間であることを充分理解しました。


「……今も二人暮らしで?」と、私は嫌悪感を堪えて聞きました。


「はい。しかし、私はずっと勤め先にいまして、家に帰ってくるのは稀です。事実上、あの子は家で一人暮らしをしています」


 私は想像しました。柏駅から見える高層マンションの、広い家の中でただ一人暮らすまつりのことを。母親も父親もいなくなった家で一人暮らす女子中学生のことを。それは年頃を考えればあまりにも不憫でした。彼女はこれまでの人生が既に不憫なものでしたが、その不憫さは現在進行形であったのです。


 このような家庭環境は、できの悪いドラマの中の世界だけだと思いたかったですが、残念ながら実際に現実として起こっているものでした。まつりが心に闇を抱えて、大人や社会に対する不平不満を曲にして歌っているのも、これで納得できました。痛いほどに理解できます。


「……なぜ、この話を私に?」


 疑問点はその部分でした。あくまで他人でしかない私にまつりの家庭事情を話す理由がわかりませんでした。男は「知っていた方がよろしいかと思いまして」と答える。


「あの子が不登校を止めてまた学校に通うようになったのは知っています。あの子に変化があるのは別に構いませんが、それによって私に迷惑がかかるようでは私が困りますので、何があの子の心理を変化させたのか知るために、人を使って調べさせてもらいました。その結果あなたの存在が明るみになったので、あの子と関わる以上あの子の話をさせていただきました」


「……百歩譲って、私のことを調べたのはいいとしましょう」と言いつつも、私も曲がりなりにも女性であるので、ストーカー紛いのことをされて気味が悪くなりました。ただその感情を露わにしたくなく、「でも家庭環境という個人情報を教えたのはなぜですか? 別に教える必要もないでしょう」と誤魔化すように続けました。


 しかし男は「あの子と関わるのであれば知っておいて損はないかと」とずれた返事をするだけでした。


「失礼を承知で尋ねますが、あなたは人から変わり者と呼ばれたことはありますか?」


「ええ。よく言われます。他には天然やミステリアスなども。よくおわかりで」


 通りで理解し難い話をするわけだ。変人もここまで生真面目で寡黙であると、その変人度合も強烈に振り切ってしまうようです。


 しかし、よくもまあまつりは真人間に育ったものだな、と私は感心しました。いや髪を金髪にして登校拒否するような子が真人間ではないかもしれませんが、でもあの母親とこの父親と比べればかなりの人格者に育ったのではないでしょうか。


「私としては、早くあの子が成人して一刻も早く親子の縁を切りたいのです。あの子がどういった将来を望んでいるとしても、何か目指すべきものを見つけたのは幸いなことでした。このことに関してはあなたに礼を言わなければなりませんね。……いえ、もしかしたら、あなたにお会いしてあの子の話をしたのも、謝意を伝えるためなのかもしれません。あの子の自立への道を示していただき、感謝いたします。あの子が再び学校に通うようになったおかげで、私の世間体は保たれました」


 私は瞬間的に、テーブルにあるコーヒーをこの男にかけてやろうかと思いましたが、それはお店と周囲の客に迷惑がかかると理性で判断したため断念しました。しかしこの男の発言は私を激怒させるには充分過ぎるものでした。私は一度深く呼吸して冷静になってから「別に私も彼女も、あなたのためにしたことではありません。全ては彼女自身の、彼女が自分のために行動した結果です。あなたは関係ありません」と言い切りました。


 まつりの言葉を借りるとすれば、わたしがわたしであるために、です。


 男はさも気にしていないとでも言いたげな無表情のまま「ええ、承知しています」と反応しました。それがまた人を苛立たせる不快な態度でした。


 しばらくの間、私とこの男との間に沈黙が降りました。それが合図となったのか、男は「では」と、話は終わったと言わんばかりに席を立ち、私に退店を促す。しかし私は「もう一杯飲んでいきますので、お先に」と断った。別にこれ以上糖分とカフェインを補給するつもりではないが、しかしこの男と行動を共にするのは生理的に嫌悪感がありましたので、ここに残るほかありませんでした。男は「そうですか」とだけ言い残して本当に私を置いて店を出ていきました。どこまでも身勝手な変人でした。



 男が退店してから、私は深いため息をつきました。まつりには出会った当初から何か事情を抱えていると直感で思っており、実際に彼女のこれまでの人生は波乱なものでしたが、ここに来て輪をかけて家庭に問題があったとはさすがに予想外でした。どこの世界に、片や托卵したうえに教育虐待した母親と、片や妻への偏愛からくるネグレクトの父親という、どちらも常識では考えられない鬼畜人間のもとで育てられた子供がいるでしょうか。


 私は黙考しました。私がしてやれることはなにか、と。


 私自身、無条件で誰かのために行動することは滅多にないですが、しかしこのまま彼女を放置するほど良心を失ってはおりません。ですが一方で、親族でも何でもないただの赤の他人でしかない私に、彼女の家庭問題を解決させることなどできるはずもなく、たとえ解決させる方法があったとしても、自分を顧みず問題に深入りするのはよい選択とはいえないでしょう。


 そんな保身的な性格をしている私が彼女にしてあげられること。熟考の末、彼女の話を聞いてあげる、というとてもシンプルなものに落ち着きました。彼女にとって他人でしかない私だからこそ、部外者としての客観的視点で話を聞くことができるはずです。歳は離れてはいるものの、友人としてよき理解者になるくらいは、私にもできそうです。


 それはつまり、これまでの関係と変わらないということです。夕方の柏駅前の路上で彼女の演奏を聴き、楽器についてアドバイスをし、音楽や小説について語り合い、そして必要に応じて身の上話を聞いてあげる。そんなこれまでの関係を維持していれば、まつりにとって少しでも精神的負担を軽減させられるのではと、私は考えました。


 これまでは妙なきっかけから関わりを持ち、なんとなく関わっているうちに懐かれてしまいましたが、ここに来て、私自身が私の意思で彼女と関わっていく明確な理由ができてしまったのです。




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