大地の使徒

プロローグ

 アレサンドロは右手に髭剃りを持ったまま、何、という感情を覚えることも忘れ、その場に硬直した。

 普段から修道生活を送るカトリックの司祭達の朝は早い。とりわけ、ここ二週間のアレサンドロは眠る暇もないほどに走り回っていた。

いや、正確には飛び回っていたと言う方が正しいかもしれない。何百というメディアに顔を出し、羽を出し、己の身に起こったことは神の意志であろう、ということを説いた。彼はまだ二十歳であるのに、世界で教皇よりも名の知れた聖職者となってしまった。

 アレサンドロの背には純白の翼が一対。二週間前、説教を行っている最中に突如として、耐えられないぐらいの激痛とともに“生えた”のだ。理由は全くの不明だったが、幸いにして血は一滴も流れ出ず、翼が生えた後は痛みも消滅し、飛翔さえ出来るようになった。それには多少のコツが要ったが、まだ若い司祭には簡単なことだった。

 そんな彼は今イタリアから遥か遠く離れたニューヨークにいて、肩まで伸びるダークブロンドの美しい髪を綺麗に直してまとめようともせず、あてがわれたホテルの広すぎるスイートルームの真ん中に立ち尽くしている。

 理由は一つ。テレビの画面から目が離せなくなったからだ。

 その美しい液晶の向こうに映るのが、己と同じ純白の翼を持つ一人の男だったからだ。

『――私は讃えよう、この力を私に授け、異教徒で溢れ荒れた大地を、再び緑で覆い尽くす使命を私に託した神アッラーを。私は遂行しよう、救われることのない者が神の意志により世界の新たな礎となる使命を。私は癒そう、祖国イラクの民の心を、安寧を享受出来るように。私は裁こう、我々を理解しようとしない者が――』

 短い黒髪、伸ばし始めた髭、意志の強そうな切れ長の黒い瞳。二十代から三十代だろうか、目尻や額に皺は見当たらない。だが、高らかに宣言する男の背後には、幾世紀も年月を経てきたような大樹の森が広がっていた。でこぼこと起伏を描くその碧の隙間にきらりと光るのは、割れたガラスだ。

 アレサンドロは気付いた。テレビに映る景色は、マンハッタンではなかろうか?

 喋る男の口元から奥をよく見ると、朝靄にかすむ摩天楼からは数え切れないほどの大木が突き出し、半ば廃墟と化している。方々で、崩れ落ちたコンクリートには無数の枝が絡みつき、残酷な朝日が放つ紅の光を静かに受けていた。

『――私の名はザイトゥーン、救われることのない者を大樹に変え得る素晴らしい力を授かった、おそらく……預言者のひとりであることは自覚している――』

 ザイトゥーン、とアレサンドロは美しい唇を動かし、呟いた。どうして、とも呟いた。

 アッラーの名の下に、あの男はマンハッタンの大勢の命を、生命はあれど動くことのない植物に変えてしまったのだ。百歩譲ってそれが神の意志であったとして、それは人間がやっても許されることなのだろうか? それが神の意志であるかどうかも分からないのに、やっても許されることなのだろうか?

 彼は思わず髭剃りを落としそうになり、慌てて掴み直す。手の平が切れて赤い血が滴り落ちたがそんなことはどうでもよかった。振り返って、特別にしつらえられた服を左手に取る。

『――私は、神に仕える者の為の楽園を築くことをここに約束する』

「……行かなければ」

 そこで初めて自分の顎が泡に覆われていることを思い出し、アレサンドロは舌打ちした。カトリックであろうがプロテスタントであろうが正教徒であろうが、同朋は同朋である、イタリアはローマから出てきた彼は日頃からそう考えていた。

 全てがもどかしかった。髪をまとめることもなく彼は靴底で窓を蹴り破り、飛び出した。


 何故、と問えば、戦争でどれだけ同朋が散ったか、と返された。

「何の罪もない子供、誰かの親、妻、この国のせいで一体どれだけ犠牲になったか、そなたは分かっているのか?」

「だけれども、貴方だって罪のない人々をこのように……変えてしまった!」

「何を言う、司祭よ」

 朝焼けの空を背景に、優雅な羽ばたきを繰り返すザイトゥーンはかぶりを振った。

「そなたらの教義によると、人は皆、生まれた時から罪を背負っているのではなかったか?」

 アレサンドロは何も言い返せず、ただ、奥歯を強く噛みしめた。

「だと言ってこんなことをしてはならない、と言いたげな顔だな、実に。だが、私は罪深い者を、地球の役に立つ存在に変えることによって救おうとしているだけなのだ、若造よ」

 言いながら、イラク人の男は左腕を軽く持ち上げ、向かいに対峙する、同じ純白の翼をぎこちなく羽ばたかせるイタリア人の若い男を指差す。

「……そなたの存在も同様だ」

 アレサンドロは身構えた。己の体もあの大樹と化してしまうのか――救いと称して人の自由を奪うこの男をやめさせなければ、これは本当の救いではないと何とか分かってもらわねばと強く感じていたのに――

 だが、その時は訪れなかった。

 代わりに彼は、腕や足を蔓で縛られるのを感じた。翼にまで絡むそれは此方の身動きを制御し、相手が植物とならないことに納得のいかないような表情をしたザイトゥーンは、しかし羽ばたきをやめたアレサンドロに絡みついている蔓を自らぷっつりと切った。

「――お別れだ、司祭どの」

 アレサンドロは咄嗟に翼を羽ばたかせようとしたが、蔓が絡みついている。重力に引かれる何も出来ない己を感じ、両親の姿が脳裏にさっと蘇って、何年も前に死んだ妹の笑顔を思い出し、そこで自分にもあの大樹の力が使えるのではないかということに気がついたが、もう遅かった。

 凄まじい衝撃が全身を貫き、彼の意識は飛び散った。



※この物語はフィクションです。実在の人物、団体とは一切関係ありません。

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