【7/両者を隔てる溝はあまりにも深い】

 十五年前。


「オデット、君はなんという事をしたんだ」

 ドミニクは険しい顔つきでオデットの腕の中にあるものを見つめた。

 それは赤子だった。白い布に包まれて心地良さそうにすやすやと眠っている。オデットはゆりかごのように腕を揺らしている。彼女は聖母のような微笑みを浮かべ、赤子を見守っていた。

「分かっているのか? 吸血鬼である私達が人間であるその子を育てるという事が、どういうことか」

 オデットは答えない。

「ベレンソンが黙っちゃいないだろう。きっと殺されるぞ」

 ドミニクは脅しをかけるつもりで声を低くして、すごむように言った。しかしオデットはそれに動じることも、怯むこともなく静かに返した。

「ええ、分かっているわ」

「その子だけじゃない! 私達もだ!」

「承知の上よ」

 どうしてこんなにもオデットは落ち着いていられるのか、ドミニクには分からなかった。彼は今度はすがるように彼女に頼んだ。

「お願いだオデット、その子を元の場所に戻してくるんだ」

「でもそうしたら、この子きっと死んでしまうわ」

「だが……」

 ドミニクの言葉を遮ってオデットは続ける。

「捨てられていたの、この子。今日みたいな冷たい雨が降る日にあんなところに放置されていたら、死んでしまう」

 オデットの言うことは正しい。正直言ってドミニクは辛かった。すやすやと寝息を立てて眠る赤子。その寝顔は無垢そのものだった。できることならばこの子にミルクを与え、育てたい。この子を守りたい。けれど無理だ。人間と吸血鬼。両者を隔てる溝はあまりにも深い。

「……仕方のないことだ。そもそも私達がその子を助ける必要なんてない。君が元の場所に戻そうと、誰も責めやしない」

 ドミニクは半ば、自分自身に言い聞かせるような口調で言った。

 そんなドミニクに対し、オデットは優しい笑みを崩さないままゆっくりと首を横に振った。

「そういうことじゃないの。この子ね、私がかがみ込んで見つめたら、笑ったのよ。まるで天使のように。その笑顔のせいで一瞬で私は虜になってしまったわ。それにね、この子の目、綺麗な緑であなたにそっくりだったの。白い髪は私にそっくりじゃない?」

 嬉しそうなオデットを直視できずに、ドミニクは俯いた。

「私達は欲しかったにも関わらず、ずっと子宝に恵まれていないわ。だからこの子はきっと、神様からの贈り物なのよ」

「……だが、その子は人間だ」

「それがなんだっていうの?」

 あまりにも何でもないことのように放たれた言葉。ドミニクにとって大きいと思っていた種族の差は、オデットにとってなんてことのない、些事だったのだと彼は知った。

 ドミニクはふと二百年前のことを思い出す。

 ああ、そうだ。今知るまでもなく自分は既に知っていたはずではないのか。彼女がこういう者であるということを。彼がオデットと会った時彼女はまだ二十歳の人間だった。自分を愛していると告げたオデットに真実を打ち明けた時、彼女は一切迷わなかったではないか。

 けれどドミニクはそれでも、赤子を育てるということに賛成できなかった。心苦しいがその赤子は見捨てるべきだ。彼はオデットとの平穏な暮らしを危険に晒したくなかった。

「もしバレたらどうする」

「バレないようにすればいいのよ」

「そんなことできるわけない」

 必死に説得するドミニクだが、オデットはさらりと「できるわよ」と言ってのけた。

「いい? 十六歳になるまで家から出さないようにするの。この子には吸血鬼は十六歳……成人するまで外にでちゃいけないって、嘘をつくのよ」

「……十六歳になったらどうするんだ」

「十六にもなれば一人で生きていける。だからこの子を人間界に戻す。この村を出れば記憶はなくなるわ。ここは本来そこには存在しない、幻の村なのだもの。吸血鬼達がヴァンパイアハンターに殺されないように暮らしていける村」

 この村がいつからあるのか分からないが、二人が来たときにはすでにそうなっていた。吸血鬼の記憶は消えないが、人間がこの村を出ると記憶はなくなる。どうしてなのかはオデットにもドミニクにも分からない。

「だからこの子は十六になったら、ここにいて吸血鬼と暮らしていたことなんて全部忘れて、一人の人間として、幸せに生きていくのよ。最初は記憶がないことに戸惑うかもしれない。悩むかもしれない。苦労するでしょう」

 オデットの顔が悲痛そうに歪んだ。この赤子の行く末を、やがてくる別れの時を想っているのだろう。オデットはそれでも無理やり笑った。

「でもきっと、いつかはそれも乗り越えて生きていけるわ」

「……オデット、君はそれで、辛くないのか」

 ぽつり、とドミニクは呟いた。虚をつかれたようにオデットは顔を上げた。ぽかんとした顔でドミニクを見る。

「その子を育てるとしたら、きっと君はその子に溢れんばかりの愛を注ぎ、本当の息子のように育てるだろう。そんな愛しい子が十六になったら君に愛されたことを忘れて、もう永遠に会えなくなる。そしたら、その子がいなくなってからずっと君は辛い思いをする。もし君が平均的な年齢まで生きるとしたら、六百年もの間、ずっとだ。それで辛くないのかい? 引き返すのなら今の内だ。その子を元の場所に戻せば辛いのは一瞬だけだろう」

 オデットはしばらく考え込むように赤子の顔を見つめていた。やがて、微笑むと赤子の頬を優しく撫でた。

「……そうね。きっと、辛いわ。でも私は、この子を見殺しにすることなんてできない。見殺しにしたら、私は一生後悔する」

 彼女の声は優しかったが、同時に力強かった。強いなあとドミニクは思った。いや、元から知っていた。二百年前からずっと。

「ねえ、ドミニク。私この子にもう名前をつけたの」

 ドミニクは呆れてつい、笑ってしまった。さっきまで険しい顔立ちだったドミニクが急に笑ったので、釣られてオデットもふふっと笑った。

「全く君って人は……。なんて名前だい?」

 オデットは宝物を両手ですくい上げるように、そっと言った。

「ドナテラ」

「ドナテラ……」

「神様からの授かり物って意味よ。素敵でしょう?」

 オデットは愛おしげにドナテラを撫でた。幸せな夢でも見ているのか、赤子は眠ったまま笑った。

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