【1/閉ざされた窓。僕の部屋と外の世界とを隔てる一枚のガラス】

 空気が動いている。

 そう、思った。

 僕の知っている空気はそう、止まっているものなのだ。でも違う。今僕の頬を撫でている空気は、少し冷たくて透き通っているこの空気は、動いている。まるで生きているみたいに。

 僕は今、というかついさっき、初めて、そう生まれて初めて窓を開けた。母さんと父さんがあれほど開けてはいけないと言っていた窓を。

 僕の目前には黒を背景に白が散りばめられている。窓越しではない夜空はこんなにも近く、なのにどこまでも遠く感じるのだろうか。数えきれない星。大きな月。今日は満月だ。

「ねえ」

 声がした。僕は視線を下に向けた。そして驚いた。普段、僕の家の周りにほとんど誰もいないのに、誰かいたからではない。声をかけてきた人物がどう見ても、十二から十四歳の女の子にしか見えないからだ。女の子は長い黒髪にぱっちりした青い目をしていて、母さんがこの間僕にくれた百合の花みたいなふわふわのドレスを着ている。肌は白いを通り越して青白い。まるでお人形みたいだ。

 僕と目が合うと女の子は微笑んで「ご機嫌よう」と優雅に礼をした。

 僕は驚き、混乱していて何も言えない。

「今日は晴れているから星も月もよく見えるわね」

 僕は何と答えたら良いのか分からない。

「……ねえ、聞いてる?」

 女の子は怪訝そうに僕に尋ねる。僕は慌てて口を開いた。

「あ、えっと、えっと……」

 口を開いたのはいいものの、言葉が続かない。何を言うべきなのか分からない。何しろ僕は父さんと母さん以外と話したことがないのだ。

 僕の様子を見て女の子は可笑しそうにくすくす笑った。

「まるでお化けでも見たみたいな顔ね」

「き、君は……もしかしてお化けなの?」

 僕はおそるおそるそう尋ねた。もしそうなのだとしたら合点がいく。十五歳以下の子供が外にいるはずがないのだから。女の子は更に笑った。

「例えよ、例え。私はお化けじゃないわ」

「じゃあ、吸血鬼だっていうの?」

 そんな、まさか。信じがたい事実だ。お化けじゃないというなら、人間か吸血鬼ということになる。当然この村に人間がいるはずがないから、彼女は僕と同じく吸血鬼という事になる。

「そうだけど……?」

「じゃあ君は、どうして外にいるの?」

「今日は月も星もよく見えるからよ」

「そうじゃなくて……」

 女の子は急に不機嫌そうになって「何よ」と硬い声音で言った。僕は慌てて謝る。でも、どうして彼女の機嫌を損ねてしまったのだろうか。

「ご、ごめん……」

「変なの。……そういえば貴方、名前は?」

 僕は小さな声で「ドナテラ……」と名乗った。

「ドナテラ、ね」

 不機嫌そうだった女の子は、急に上機嫌そうに笑った。

「ふふっ、女の子みたいな名前ね」

「失礼な子だな……。僕は綺麗だから気に入ってるのに。……君の名前は?」

「テレーゼよ」

 「素敵な名前でしょう?」とテレーゼは自慢げに微笑む。確かに綺麗な名前だ。透き通っていて、今感じている空気みたい。だが、さっき名前が笑われたことが癪なので無視した。

「ねえドナテラ、降りてくる気はない? 貴方とお話がしてみたいわ」

「無理だよ」

 僕は首を横に振った。

「どうして?」

「僕まだ、十四歳なんだ。あ、いや今日で十五歳か。それでもまだ、足りないけど……」

 テレーゼの顔に困惑の色が浮かぶ。

「一体全体何のこと? 私には意味がわからないわ」

「僕こそ意味がわからないよ。どうして君は外にいるの? 見たところ、僕より年下のようだけど……」

 テレーゼは自分自身の頭を指差しながら言った。

「貴方、頭大丈夫?」

 その時、僕の背後でドアをノックする音が聞こえた。僕の心臓が跳ね上がる。

「ドナテラ?」

 不審そうな母さんの声がドア一枚隔て、くぐもって聞こえて来る。

「か、母さん??」

 僕ははっとした。言いつけを破って窓を開けていることが知られてはいけない。慌てて窓を閉めようと窓枠に手をかけると、テレーゼが何かを察したのか人差し指を唇に当てて言った。

「また会いましょうドナテラ。それと私と会ったこと、誰にも言っちゃだめよ」

「ドナテラ?」

 僕はようやく窓を閉めた。

 ドアが開いた。ドアの向こうから怪訝そうな顔の母さんが現れる。あれ、今日の母さんはおめかししている。いつもは結んでいない白い髪を編んでいる。

「だれかと話しているような声が聞こえたような気がするけれど……」

 僕は平静を装って必死に取り繕う。

「別に誰とも話してないよ気のせいじゃないかな?」

「何でそんなに早口なの?」

「それも気のせいだと思うよ」

「そう……、そう、そうよね」

 母さんは独り言みたいに言った。気づかれなくて僕はほっとした。が、それも束の間。母さんは何気なく窓の方に視線を向け、顔色を変えた。

「貴方、窓を開けたの!?」

「えっ!?」

 そんな。窓は確かに閉めたはずだ。僕は勢いよく振り返った。閉めたと思っていた窓はほんの少しだけ開いていた。慌てて閉める。振り返る。いつも優しい母さんの目つきが鋭い。怖い。心臓が胸の中で暴れ回る。僕は慌てて弁解する。

「ご、ごごめんね母さん! 部屋の空気が淀んでいる気がしてほんのちょっとだけ開けちゃったごめんね! でもちょっとだけなんだよ嘘じゃないよごめんね信じて母さん! 完全に開けたりしてないからね!!」

「本当?」

 僕は信じてもらえるよう何度も何度も頷いた。

「そう……」

 疑いの眼差しをしていた母さんの目つきが元の優しいものに戻っていく。

「ごめんなさい、ドナテラ。貴方を疑って」

 母さんはそう言うと優しく頭を撫でてくれた。僕はほっとすると同時に、罪悪感が満ちていくのを感じた。

「僕こそごめん。母さんとの約束、少しでも破ってしまって」

「……もうお祝いの準備ができているわ。降りてらっしゃい」

 母さんはそう言うと部屋を出て階段を降りて行った。

 お祝い! それはもちろん僕の十五歳のお祝いだ。お祝い。お祝い。なんてわくわくするひびきだろう!

 僕は踊り出したくなる気分を抑えて母さんの後を追いかけかけて、ふと立ち止まった。振り返る。

 閉ざされた窓。僕の部屋と外の世界とを隔てる一枚のガラス。さっきまでは外の世界はあんなにも近かったのに、今はこんなにも遠い。

「ドナテラー? 早くいらっしゃい」

 階段の下の方から母さんの声が聞こえてきた。

「今行くよ」

 僕は部屋を出て階段を降りた。



「お誕生日おめでとう!」

 僕が一階のリビングに降りると、母さんと父さんが同時に僕にそう言った。

 リビングの中央にある円形のテーブルの上には、蝋燭が刺された白いケーキ。二人の前には血の入ったグラスがある。二人は大人だから血を飲むのだ。ゆらめく炎に二人の笑顔が照らされる。

 僕はテーブルに駆け寄ると席につき、思いっきり息を吹きかけて蝋燭の炎を消した。

「おめでとうドナテラ。立派になったなあ。頼もしい限りだよ」

 父さんが顔をくしゃっとさせて笑った。そして大きな手のひらで肩を叩いた。立派になったなあという言葉が嬉しくて、僕もくしゃっと笑った。

「生まれてきてくれてありがとう、ドナテラ。愛しているわ」

 母さんが僕を優しく抱きしめた。あたたかくて妙にむずがゆい。不思議な気持ちだ。母さんは今まで何度も『愛している』と僕に言ってくれる。僕も勿論母さんも父さんも愛しているが、気恥ずかしくて一度も二人に『愛している』と言えた事がない。いつか言わなきゃなあ。いつか。

「私もお前を愛しているよ」

 僕は驚いた。父さんは母さんと違って中々言わないことなのだ。ぎこちない言い方だ。普段伝えられないけれど、思い切って伝えたということなのだろうか。僕も言わなくちゃ、と思ったけれど恥ずかしいからやっぱりやめた。いつか絶対に言うから、今はいいや……。

 母さんがニコニコとした表情で父さんを見ている。父さんは咳払いをしてこう言った。

「早いものだなあ」

「そうね。あっという間の十五年だわ。つい最近まであんなに小さかったのに」

 母さんは懐かしむように目を細めた。嬉しそうなのに、その目はどこか寂しそうなのはどうしてなのだろう。

「あと一年なんだなぁ」

 僕は感慨深くなって呟いた。あと一年。近いような、遠いような……。

「僕、父さんと母さんみたいな立派な吸血鬼になれるのかなあ……」

「……なれるよ、ドナテラなら」

 父さんはまたくしゃっと笑って僕の肩を叩いた。

「あと一年で僕、外に出られるんだよね。ねえ、外に出たらしたいことがあるんだ」

「それは一体何?」

「お散歩!」

「お散歩?」

 母さんは目をぱちくりとさせて「どうして?」と僕に聞いた。

「父さんと母さんと僕とで、外を一緒に歩いたら楽しいんじゃないかなあって思うんだ!」

「……そうね。外に出たらお散歩しましょう」

「うん!」

 想像したらわくわくしてきた。外に出れたらどこをお散歩しよう。この村を一度、ぐるりと一周してみたいなあ。あ、そうだ、見晴らしの良いところに行って三人で夜空を見たい。

 僕はそこでふと、さっき喋った不思議な女の子、テレーゼのことを思い出した。

「あ、そういえばさっき……」

 と、そこで彼女が最後に言ったことも思い出した。

『私と会ったこと、誰にも言っちゃだめよ』

「なあに、ドナテラ」

「……ううん、なんでもないよ」

 僕は笑顔を作ってごまかした。

「……おや」

 父さんが窓の外に目を向け、小さく呟く。釣られて僕も窓の外に目を向ける。真っ黒の空がいつの間にか青紫色に変化し始めていた。夜が明けようとしている。

「そろそろ、寝ましょうか」

 名残惜しそうに母さんが言った。僕は「うん」と言って席を立った。ケーキも食べ終わったところだったし、丁度良い。

「おやすみ。父さん、母さん」

「おやすみなさい」

「おやすみ、ドナテラ」

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