4.エルネスト

「この度はたいへんな失礼を……。しかし、これには深い理由がありまして。私の話を聞いていただければ、ご理解いただけると思うのです。け、決して悪気あってのことではなく……」

 ――もちろん、そうでなければ困る。

 図書館とは別棟の無人の小部屋に移り、ひたすら恐縮するエルネストに、テュエンは腕組みして相対していた。上級術師だろうが、ともかく事態が判明するまでは態度を崩さないぞと決意しながら。

 震えながら固まってしまったエルネストを弁護して、ホフリーを振り切るのは一苦労だった。今、臙脂の長衣ローブを着た術師は所在なげに立ち、首にさげた黄銀の徽章学鎖メダリオンをしきりに指でこねくり回している。メダル表の〈三日月を掴む鷲〉の浮彫りを見れば、確かに上級位なのだろうが、同職の人間に身分を偽られるなど悪い冗談でしかなかった。

 ただ、先ほどのエルネストの狼狽ぶりには、どうにも尋常でないところがあった。とりあえずテュエンは依頼の件をホフリーには秘密にして、ここまで移動したのである。

 小部屋は、以前は誰かの研究室ででもあったのだろうか。ひととおりの調度品と古びた書類が散乱している。埃の積もり具合からして長年使われていないのは明白で、分厚い胡桃材の扉は声が外に漏れるのを防いでくれるだろう。

 ひとまずテュエンが話を聞く構えを見せると、ようやく落ち着いたエルネストは、きれいに折りたたまれたハンカチを懐から出した。額の汗を拭いながら口を開いた。

「非礼は幾重にもお詫びいたします。まずは自己紹介させてください。私の名はエルネスト・ヴィルヌーヴ。上の街の〈哲人通り〉に、工房〈ミモザの花束ミモザ・ブーケ〉を開く術師です」

「ミモザの……」テュエンは思い出そうとしたが、エルネストは弱く笑って首を振った。

「ご存じないと思います。私の店は錬金工房というより、香水店なのです。私は術師ではなく、どちらかといえば調香師。精油などは錬成しますが、もっぱら香水や香油、薔薇水の製作のためであって、錬金工房らしい仕事は請けておりませんので」

「なるほど。しかし、どこかで耳にしたような……。工房は、あなたの著名なご先祖から受け継いだものですか?」

「いいえ、とんでもない! 曾祖母のアルナーダは宮廷術師にまで上り詰めましたが、その後の血筋といえば、お城でちょっとした文官を務めるだけの下流貴族です。しかも私は傍流でして――」言いながら彼は、常人より長く立派な己の鼻を指さした。「私が受け継いだのは、この鼻だけなのです」

 アルナーダ・ヴィルヌーヴの名は、テュエンももちろん知っている。

 有名なのは、おもにこの公国の第一の名産品である薬用ワイン〈リシュリューズ〉の処方考案者としての功績だ。が、彼女がその他の分野でも広範な能力を示したのは史実にも記されていることだった。

 時の大公の側近くに仕え、調薬や魔術錬金具の製作のほか、内政や外交にも助言を求められることしばしだったという。香水の調香をしていたという話も、確かにちらと耳に挟んだ記憶もある。

 それにしてはエルネストの謙遜ぶりは、少々度が過ぎるようだった。上級免許を得るためには、少なくとも一つの分野で目覚ましい功績を上げ、学匠会議に認められる必要がある。毎年の認可数も数が決められているわけではなし、上の街に工房を開くほどなら、彼もそれなりの職能は持ち合わせているはずなのだ。

 その指摘に対しエルネストは悩ましげに溜め息をついた。全部の空気を吐き出して萎んだ革袋よろしく項垂れて言う。

「それにも事情がありまして……。私は、もとは中級止まりなのです。ただ数年前に創った香水が、ありがたいことにお城で人気を博しました。それが、やんごとない方々が使う香水の製作者が中級術師では体面が悪いという話になりまして。ヴィルヌーヴ本家が何やら手を回して、上級位をいただいてしまったのです」

「とはいえ――」

「いえいえ、自分でも分かっていることです。調香師として私は誇りを持っていますけれども、香水創りは錬金術とは違いますでしょう」

「そんなことは――」

「いやいや、それに学府の格の違いがあります。テュエン師、私はあなたの講学館時代を存じています。あなたは若年で難なく中級免許をお取りになり、帝都大学へ進学するや上級位をお取りになった。講学館と帝大では免許の重さが違いましょう。技術も知識も、私とテュエン師ではまるで比較になりません」

「はあ……」と相手の勢いに押される形で、テュエンは口を閉じた。

 どうやらエルネストの卑屈な態度は、見せかけではなく本物らしい。

 何やら魂胆があって身分を偽ったとはいえ、本心から助けを求めて店に来ていたようだ。身分からいえば、まさに今彼が着ている上等の臙脂のローブこそふさわしい服装なのだろうが、テュエンには先日の哀れっぽい姿のほうが彼の本来に近いように思われてきた。

 憔悴し、打ちひしがれて、何日も満足に眠れていなさそうなエルネストの顔色に偽りはない。彼が店に〈哲学者の箱〉を持ち込んだ理由は、一応納得できた。あの難解な箱を開ける〈水錠〉の錬成が自力ではできないのだろう。

「しかし、なぜうちの店に? 上の街の他の工房ではなく、変装までなさって」

「そ、それは――」ぐっと詰まってから、エルネストは片手の爪を噛んだ。「ヴィルヌーヴ本家から、催促が来ているのです。新作の香水を今すぐにでも送れと!」

「はあ……?」

 エルネストが重い口を開いて説明するには、次のような話だった。

 五日後の冬霊節の祭にあわせ、彼はずいぶん以前から、本家に記念の香水を特注されていた。冬霊節には毎年、ある大貴族の屋敷で上流階級の宴が開かれる。今年は、十六になったばかりの本家の末娘がそこで社交界に初参加の予定になっていて、彼女のための特別な香水を頼まれたのだ。

 目に入れても痛くない末娘のお披露目成功のため、本家は彼女が話題の的になるような薫りをエルネストに期待した。だがこの一年、実はエルネストは仕事に深刻な不振を抱えていた。

 どんな素材をどう組み合わせても納得の出来にならない。過去作品と引き比べては、能力が落ちたと塞ぎ込む日々だった。工房も昔の人気作の焼き直しで維持している有様で、そこに本家が新作を求めてきたとあってはたまらない。あれこれ言い訳して納品日を延ばしてきたものの、当然ながら催促は日に日に激しさを増した。

 かつては学資の面でも工房を開くさいにも、本家には様々に援助をもらった。断りにくい依頼とはいえ、それでも失敗するよりはと、エルネストはそれとなく辞意を伝えてはきたのだ。だが万事に思い込みの激しく、また見栄や名声を重視する彼らはまったく聞く耳を持たなかった。

 始末に負えなくなったのは、彼らが付き合いのある貴族たちへ宣伝まで始めてしまったころ。あのエルネストの新作を、末娘が夜会で披露するのでお楽しみに――という口上で。

 もはや引くに引けない。もししくじれば一族との関係に罅が入るのは当然として、今はなんとかもっている工房の評判も地に落ちるだろう。胃痛を堪えて思い悩んだある晩、エルネストが希望を見いだしたのは、本家に伝わる曾祖母の〈哲学者の箱〉だった。昔、本家の館で見かけたとき、そこにアルナーダの秘密の香水の処方レシピが入っていると自慢されたのを思い出したのだ。

 それから先は無我夢中。用件を作って本家を訪ね、忘れられて物置の肥やしになっていた硝子箱を彼はこっそり持ち出した。どこで話が漏れるかわからない。解錠作業は顔なじみであり、競争相手でもある同じ工房区の術師へは頼みたくない。なかば混乱しながら彼は、藁にも縋る思いで下町のテュエンの店の戸を叩いたのだ。

「かの有名なアルナーダ・ヴィルヌーヴの秘密の香水なら、なにも隠し立てすることはないのではないですか? 本家のほうに箱の解錠の許可を得れば、万事問題なさそうなものですが」

 テュエンは言ったが、エルネストは深々と溜め息を吐いて首を振った。

「今度の夜会サロンが、古典芸術を愛するマリサロシュ家主宰ならば、それで良かったでしょう。しかし本家の末娘が行く会は、新しもの好きで名高い大公一族、パヴォリ家に近い貴族の主宰なのです。古さや伝統は喜ばれません。本家からは、くれぐれも新奇な一品をと念を押されているのです」

「なるほど。処方の出所は、あくまで秘密にしておきたい、と」

「お願いです、テュエン師。どうにか内密に、あの箱を開けていただけないでしょうか」

 懇願口調のエルネストは、ほとんどべそをかきそうになってきた。

「今から新作を調香するなど、私には到底不可能です。最後の頼みの綱なのです。本家の気に入る香水を間に合わせられなければ、私はどうなってしまうでしょう。今度こそ工房は終わりです。一族には一生ねちねち愚痴を言われ続け、人々には後ろ指を指されて、笑われて、石を投げられて、私は街を出るしかないかも……」

 最終的には声も震え、両目から涙がぽたぽたっと落ちた。事情は分かったが、いささかきまり悪い思いでテュエンは何を言おうか考えた。

 独りで思い悩んだ期間が長かったせいか、不安が大げさになっている。実際に人々に後ろ指を指されているテュエンとしては、そこまで悲観的な状況とは思えなかった。

 いい歳をした男が、泣くほどのことだろうか? それほど新作にこだわらなくても、昔の作品に手を加えて誤魔化したりもできそうな気がする。

 とはいえ、テュエンは黙っておいた。ひとえにはエルネストがあまりに憔悴した様子なのもあるし、雅やかな香水を創るのが仕事という男が、芸術家肌の繊細な感性の持ち主らしいと慮ったのだ。

 ――それに、私には近くに親類縁者はいないしな……。

 テュエンは一人の弟子を持つだけで、気楽に店をやっている。エルネストのように、力ある一族が身近にいると気を遣うものなのだろう。先方の人柄が厄介な場合、苦労は倍々になる。親戚は自分で選べないし、簡単に縁を切ることもできないのだ。

「一つお伺いしますが。例の箱は、あとで本家にお返しになるんですよね?」

「も、もちろんですとも! 入っているはずのレシピごと、見つからないうちに戻します。あの箱のような曾祖母の遺品は数多いですから、少しのあいだ見当たらなくても本家は気づきもしないでしょう」

 事情はややこしいが、テュエンとしては依頼品が盗品など、真っ黒な品ではないとわかっただけでほっとした。無断持ち出しは気になるとはいえ、そこはエルネスト自身と本家の問題だろう。依頼人の顔色は、すでに青を通りこして灰色になっている。ここまで話を聞いていおいて見放すのも可哀想だった。

 ただ一つ、エルネストを失望させる問題がすでに明らかになっている。

「わかりました、依頼はお受けしましょう。しかし五日以内に――いや、あなたのお仕事の余裕を考えるなら、二日かそこらで解錠できるかというと難しいかもしれません」

「ど、どうしてです?」

「あの箱は、独自調合の水錠で封印されている可能性があります」

「ええっ……」

 驚く表情を見れば、エルネストがその事実に気づいていなかったのは明らかだ。おそらく〈王と王妃の水錠〉や〈七つの金属の水錠〉など、中級以上の水錠で解錠できると思っていたのだろう。

「そんな。それじゃあ、もうとても間に合わないじゃないですか……」

「一応、希望はあります。あの箱の装飾には、エルフ語で書かれた文章が隠されていました。おそらく暗号と思われますが、私が今日、図書館に来たのも、解読のためのエルフ語辞書を探していたのです」

「ほ、本当ですか? もしや、水錠のレシピでしょうか」

「そう期待しています。まずは翻訳してみないと」

「でしたら」とハンカチで涙をふきふき、エルネストは鼻をすすった。「うちにエルフ関連の資料がどっさりあります。もとは曾祖母の遺した研究資料で、ぼろぼろの古い紙綴りの束ばかりですが……。本家から処分がわりに押しつけられていたのです」

「ぜひ、それを見せていただければ。箱がそもそもアルナーダ師の品なら、使われているエルフ文字も、彼女の知っている語句と思われますから」

「そう言われますと、翻訳用のような、単語を書き連ねた紙束を見かけたおぼえがあります。おお、ありがたい。さっそく探してみましょう。テュエン師、やはりあなたは素晴らしい。たった一日で、誰も気づかなかった曾祖母の暗号を見つけてしまわれるとは!」

 エルネストは感激して頬に赤みを取り戻し、抱きつかんばかりにこちらへ身を乗り出してきた。思わずテュエンは一歩を後じさり、恐縮して頭を下げる上級術師に苦笑する。

 ――その暗号に最初に気づいたのは、十一歳の弟子なんだけど……。

 訂正しかけて、テュエンは言うのをやめた。改めてこちらの両手を握り、感謝しどおしの依頼人は、たおやかな花の薫りを身に纏う、ごく繊細そうな客だった。

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