第4話 哲学者の箱
1.あやしい客
天井近くの採光窓に、街路で遊ぶ子供らの軽い足取りの影が踊っている。外は気持ちの良い秋晴れらしかった。
そもそもサントラジェ公国周辺の気候は、夏に雨がやや多い。他の季節はおおむね晴れで、冬場の降雪もさほどでもない。街の南北を挟む山脈の万年雪の印象には反するが、雪雲は秋の中頃から気まぐれに山地を雪崩れきて、重い鈍色の雲の底から細かい氷華を散らすくらいだ。空は数日で冷たく冴えた
この日、季節はまだそこまでの深まりをみせていなかった。山は針葉樹の濃緑と
初秋から冬にかけ、谷間の街リシュヌーでは、音楽と笑いと満腹の溜め息の絶えない祝祭が続く。まずはチーズ祭り――公国各地の集落で高地から家畜が戻るのにあわせ、昔から酪農家は村民にチーズを振る舞って祝ってきた。リシュヌーでは、その各種チーズを一同に集めた羊飼いの祭が開かれる。
それに、ぶどうの初摘み祭。郊外、北側山地に広がる大公所有のぶどう農園。そのワイン用の実を収穫する第一日を祝う祭は、昨年醸造のワインを飲み干す収穫祭の位置づけだ。続いて祖先の霊を慰め冬季の災異を鎮める冬霊節。もっとも盛り上がるのはやはり、当年仕込みのワインの初物を解禁する新酒祭だ。
心も財布もゆるむ宴は、なにも商人と酔客だけのものではない。街の錬金術師たちにも大いに歓迎される。
宴にかかせぬ花火の新色を創り出すのは彼らだし、街路を飾り立てる夏の花々を、かぐわしいまま冬まで固定する薬も彼らの手になるものだ。連日
――とはいえ、それも下町の雑貨店には関係のない話だけど……。
むしろ静かで良いと思いながら、今日もテュエンは冬用の商品を黙々と製作していた。
下町は
カウンター奥の作業場で、彼が午前中から作っていたのは
雪の森でも平気で活動する霜蝸の殻は、簡単な加工後、均一に砕いて雪綿の種と揉み合わせると終日暖かく発熱する。通常は虫体と粘液が素材として用いられる生物だ。発熱効果の少ない殻は鶏の餌くらいにしかならず、安価に入手できるし、雪綿の種も種苗商人が通年取り扱っている。高価な霜蝸素材の暖熱糸、暖熱布の防寒具とはちがい、使い捨てにはなるものの、安くて便利なところが市井の人々に喜ばれるのだ。
その懐炉を百五十ほど作って、籠がいっぱいになったころ。テュエンは軽く肩を回して「こんなところか……」独りごちた。
懐炉の袋は近所の仕立て物屋の品だから、テュエンの仕事の中では楽な部類である。殻砕きは弟子にも手伝ってもらったし、その間に別の軟膏も調合できた。
昨日作ったその軟膏の壺と、懐炉の籠を杉材の盆に載せ、彼は作業場から隣室の店内へと移動する。取り分け用の薬壺はカウンター上に置いておき、懐炉を並べるべく狭い商品棚のあいだを歩いていった。と、ちりん――入口のベルが鳴った。
使いに出していたレムファクタが戻ってきたようだ。が、常なら元気に挨拶する弟子が戸口付近でまごついている。扉に嵌まった一つ目不死鳥の色硝子――初級錬金術師の象徴――をしげしげ窺っているので、「おかえり」とテュエンは我から声を掛けた。
「師匠! ただいま」びっくりして振り返ったレムは、なおも扉のほうを気にしながら寄ってくる。
「お使いはどうだった?」迎えながら尋ねると、少年は金の巻き毛を跳ねさせて、やっと笑顔をみせた。
「今日は奥さんがいたので薬を渡して、お代金も貰ってきました!」
「ありがとう、ご苦労さまだったね。ところで、何かあったかい? 外が気になっているようだけど」
「はい、あの……、お客さんだと思ったんです。でも違ったみたい」
「誰が?」
「うちの店の前にいた人。ずっと立ってたから、おれ、どうぞ入ってくださいって言ったんです。そしたら、なんかびっくりしたみたいに歩いていっちゃった」
「そうか……。どんな人だった?」
しきりに首を傾げる弟子をさりげなく引き寄せて、テュエンは扉から遠ざけた。今度は自分が色硝子を透かし見るように人影を探した。
この時期レムを使いに出すのは、迂闊だったかなと彼は反省した。祭の期間は国内外問わず見物客が多く訪れる。特に今年は夏のあいだ、魔物の跳梁で避暑客が減ったせいか、それを取り戻すように客足が伸びている気配だった。
当然、中には歓迎されざる人種も紛れ込んでいる。盗人、掏摸、詐欺師、
だが当の本人はあっけらかんと、明るい
「すっごい怪しい人でした! 鼻の上まで頭巾を下ろして、よれよれの
「レム、次はそういう人には話しかけなくていいからね。不審な人には近づかないこと。話しかけられても無視して逃げなさい」
「でもお、なんか、すごく困ってるみたいだったんですよ」
「そうやってね、親切な人の気を引く悪い人もいるから……」
しかし、諭しながらカウンターへ戻りかけたときだった。背後でまたもやベルが鳴り、振り向くと、そこにはレムの形容どおりの不審人物が立っていた。
褪せてぼさぼさに毛羽立った、カーキ色の長衣。古着屋の売れ残りを、銅貨三枚で譲ってもらったような代物だ。背丈は並だが、男はよほど痩せ型なのか、風が吹いただけでぼっきり折れそうな立ち姿をしている。頭巾はしっかり鼻の上まで。防寒としては季節が早い。ほつれた裳裾に覗く長靴も、選んで
薄暗い店内に入って彼は、いきなり目前に二人がいたのに驚いたらしい。ヒッと小さく息を呑み、しばし呆然とした。
「……何かご用でしょうか?」
戸惑っているふうなのでテュエンが声を掛けると、尖った肩をびくっと震わせる客の仕草など、ハムを盗むのを見つかった哀れな野良犬そっくりだ。口元に引きつった笑みをやっとのことで浮かべ、怪しい男はおどおどと小さな声を出した。
「いえ、はい。その――こちらは、錬金術の工房ですよね?」
「工房と言えますかどうか。生活雑貨の取り扱い店です」
「しかし、あなたは店主殿。そうですよね、錬金術師様ですよね?」
「確かに私が店主です。免許は初級ですが……」
「実はその、折り入ってお仕事のご依頼ができないかと。こちらの術師様の評判を聞いて、やって来た者なのですが……」
「一般的な薬の調合などは請け負っています。ただ、錬金術には免許による製作制限がありますので、内容によりますね」
「はあ。実はこちらの……、品なんですけど」
妙に背後を気にしつつ、客は少しだけ小包を掲げてみせた。テュエンが無言でいるので、慎重な手つきで渋い色の布の端をわずかにめくってみせる。
隙間から鮮やかに輝いた反射光は、意外なものだった。それは極夜を思わせる、冷たい藍色の硝子天板だ。どうやら小箱らしいその品は、客の粗末な風体にはまったくそぐわず美しい。テュエンはじっくり見るまでもなく、蓋と側板の境にある特徴的な接続部位を見分けた。内心やはりと頷いて、丁重な断りを入れる。
「申し訳ありませんが――」
「いや待って、待ってください。とりあえず見ていただくだけでも」
「残念ですが、私にはこの箱を扱える技量がございません。上の街の工房区にいらっしゃれば、いくらでも腕の良い錬金術師が――」
「あっちには行けないんですよ」墓穴を掘ったも同然の発言だった。どことなく泣きそうな声で、男はすがるように続ける。「初級術師でも、これは許可される仕事のはずでは? 違いますか」
「…………」
違わない。違わないが、そのあたりの事情に詳しいらしいのも
危なくて、とても承けられた依頼ではなかった。服装からも品物からも盗人と疑われる男は、なおもしつこく食い下がったが、
「申し訳ありません」
テュエンは再度、強く言ってなんとか追い払うことに成功した。
だが厄介事は、そう易々と去りはしないのだ。
男は翌日もやってきた。今度は意を決したようにカウンターまで入ってきて、やはり胸元に例の小包をしっかと抱きしめて。
「先日も申しましたが……」
「いえ、誤解なさらないでください。これは決して怪しい品物じゃないのです」
――そう言われても……。
テュエンは腕組みし、眉をしかめたいのを辛うじて堪えた。
客は先日同様、浮浪者に近い身なりで人目を憚る小声で喋っていた。風体も言動も依頼内容も、全身から疑わしい。テュエンが一目でピンと来たのは、こうした手合いが以前にも店に来たことがあるからだった。
歴とした錬金工房は、慣例的に旧市街である上の街の同地区に固まっている。下町の場末にあるテュエンの小店は、まったく迷惑な話だが、後ろ暗い事情のある者にとって入りやすいらしかった。
これこれの材料で調合してくれと、数年前に持ち込まれた
大抵の場合、金庫として使われる容れ物だ。蓋はすでに密封してあるから、依頼内容が解錠であるのは明らかだった。その箱の外観が、素人目に見ても息を呑むほど美しい。
――彼は、とてもこの品物の正当な持ち主とは思えないな……。
おおかた貧窮してどこぞの貴族屋敷に忍び込み、高価そうな箱を盗み出したものではないか。ところが箱は錬金術で堅く封じられており、困った挙げ句この店へ来た。そんないきさつがテュエンには容易に想像できる。
――盗品に関わりたくはない。
そうと察しつつ手を貸せば、店側も罪に問われることもある。何より一度黒い評判が立ってしまうと、似た客を続々と呼び寄せるはめになるだろう。
闇の仕事を裏で請け負う術師も世にはいるようだが、自分の店はそうではない。どうあしらったものかとテュエンが黙考するあいだに、客はわずかなりとも誠意をみせようと思ったのだろうか。失念に気づいたように、目深な頭巾を脱いで下ろした。
素顔を見せたところで、胡散臭いのは変わらないのだが。年齢は四十前後とみえる。だが後退した生えぎわと、荒れた肌の印象が実際よりも老けて見せているかもしれない。ろくに食べていなさそうな青白い頬、疲れきってしょぼついた、くすんだ緑の気弱な目。常人よりも大きな鼻だけは立派な面長なのだが、痩せた肩を縮めた姿は全体的に浮浪者だった。
ただそこに一点、どうにも不似合いな特徴もあり、それが男のちぐはぐな印象を作っていた。彼が頭巾を下ろしたとき、ふわりと漂った芳香があったのだ。
甘やかな花のような、酸味の爽やかな果実のような――どこかで嗅いだ記憶のある、はっと注意を引く
「――ああ、
「はい?」
ふと客が呟いたので、テュエンは彼の視線を追った。そこには昨日からカウンター上に置いたままの薬壺がある。
確かに兎の耳草で創ったあかぎれ用の軟膏だったが、蓋も開けずにどうして中身が分かったのかと不思議だった。
「
「なんです?」
「あっいいえ、すみません。つい……」
祭の露店でよくない薬でも貰ったのだろうか? 今ひとつ焦点の合わない目で寝言のように呟いた客に、テュエンの不安はますます募った。
「お水でも差し上げましょうか?」
「け、けっこうです。すみません、余計なことを申しました」
それより、と男は小包をそっとカウンターに載せる。丁寧に布を開くと、今度こそ箱の全体像を見せて言った。
「これは我が家に代々伝わる骨董品なのです。私が曾祖母から受け継いだものでして、けっしてその、やましい品物ではありません」
「なるほど、美しい箱ですね。相当な匠の創った芸術品とお見受けしますが」
「そ、そうなんです。それでお恥ずかしい話、私のほうに緊急にお金の要る事情ができまして。箱が閉じたままですと売れませんので、是非とも開けていただきたく……」
「しかしこれだけの品であれば、鑑賞品として充分高値で売れるのではないですか」
「いえあの、中の物を取り出さないといけませんので……。別にたいしたものではなく、曾祖母の個人的な手紙だと伝え聞いていますが。どんな内容かもわかりませんし、一応確認したいのもあり……。あ、依頼料はきちんとお支払いさせていただきます。今日もほら、前金としてこれだけお持ちして、おり……」
どもりながら男が懐から取り出したのは、たっぷり膨らんだ革袋だった。
中身がすべてアス銅貨である可能性もないではないが、テュエンは当然のこと沈黙した。袋がカウンターに置かれたとき、確かな重さで硬貨が鳴った。ついさっき経済的な困窮を訴えた言い訳に、すでに矛盾している。
だが客は、己の失言には気づいていないらしい。嘘をつき慣れないのか、まるで背を炉火に焙られているように、高く大きな鼻の頭へふつふつと汗を浮かべている。
――根っからの悪人というわけでは、なさそうだけど……。
叱られるのを待つ痩せ犬といった感のある相手を見かね、テュエンは箱に視線を落とした。だが厳しい気持ちで口を開いた。
「申し訳ありませんが……」
言いながら再び視線を上げたとき、しかし彼は舌先に乗せた二の句をとうとう継げなかった。
「どうか、恥を忍んで……。なにとぞ、お願い……」
唇をわななかせ、客は骨張った長い指を祈りの形に組み合わせていた。
世にも哀れな風情で、こちらを上目遣いに見つめたまま、両目からぽろぽろと大粒の涙を零しながら。
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