11.闇の底で

 暗闇を歩いて拠点に戻ると、番に残したサムエルは精根尽きたように眠っており、負傷した部下のほうが目覚めていた。

「具合はどうだ」

 マントにしっかりくるまり、瓦礫に背をもたれている彼にクルトは声を掛けた。人差し指の長さほどの、冷光ランプの燃料瓶をかざす。燃料そのものが放つ淡い青緑の蛍火だけでも、状態の悪化ははっきり見て取れた。

 浅い呼吸、落ちくぼんだ目、乾いてひび割れた唇。「隊長……」と、億劫おっくうそうに肩で息をついて部下は呟いた。「悪鬼ゴブリンが襲ってきたら、俺は置いてってくださいよ。格好つけて死にたいんで」

「だったら当分死ねないな。このあたりに悪鬼は一匹もいないぞ」

「隊長が街に帰ったら、母に伝えてください。俺は魔物から、仲間を護って死んだって……」

「まあ、そう悲壮がるな。今、水を飲ませてやる」

 抱え起こした重い身体はひどく熱っぽかった。肩を突いた悪鬼の槍はやはり不潔で、応急処置は施したものの傷口から毒が回ったのだ。きちんと手当してやりたくとも、帰り道がわからない。クルトら五人をこの闇の底へ転送したドワーフの魔術的な仕掛けは、あの谷間の戦いの日以来、沈黙したままだった。

 そこは驚異の技術力を誇った絶滅種族の造りあげた、広大な地下遺跡の奥底だった。

 地底に時間の節目ふしめはなく、はっきりしないが、あれから三日は経っているだろう。あのとき黄金の炎に包まれたと思った直後、クルトら五人は気がつくと、この一片の光もない無窮の闇に立ち尽くしていた。

 最年少のサムエルが、ここが冥界に違いないとおびえたのも無理はない。叱って落ち着かせたものの、今ではクルトもその感慨を否定する気にはなれなくなっている。

 ――冥界より悲惨だぜ。なにしろ生きたまま墓穴に閉じ込められたようなもんだ。

 再び部下を寝かせると、クルトは頭を荒くかき混ぜて励ましてやった。高熱のせいか、彼が寝入る前、誰か親しいらしい女の名を呟くのをたまらない気分で聞く。だが命の危険に晒されているのは、彼だけではないのだ。携行した水の錬金滴は、もってあと一日分。食料なしでも人間は三週間ほど耐えられるが、水がなくては三日が限度だと聞いていた。

 クルトは立ち上がり、手探りで歩いた。拠点の房室は、そもそも転送されてきた場所だ。ランプ燃料瓶の微光では一寸先を照らすのがやっとで、探していた壁の切れ目はいきなり目前に現れた。慎重に外へ顔を出す。探索に出した二人がいつ戻るかと、見えない目をじっと凝らした。

 夜目の目薬を使っても盲目であるかに感じる暗闇は、実は信じがたいほど深遠な空間なのだった。最初の探索でクルトは二十歩ほど踏み出した位置に、壮麗な巨柱の列を発見していた。続いて闇を渡った先にある別の列柱と壁も明らかになり、左右方向に果てしなく延びた空間は聖堂の身廊を連想させるものだった。

 ならば探索は単純だ。左右に出口を探しに行けばいい。そう考えたのは早計で、実際は闇と広さと障害物のために容易な仕事ではなかった。これまで判明したのは、先に到達した右手の端が行き止まりであること。そこに人間の力ではまったく開きそうにない、巨人用としか思えない両開きの扉があることだけだった。

 次に探索は左方面に集中し、動ける三人で手分けして調べている段だった。先ほどクルトは身廊中央を進み、途中で大規模な天井崩落跡にぶつかったために引き返してきたところだ。一方、壁沿いに行った二人は順調であるらしい。彼らが戻るまでに未探査の他の房室を調べておくかと考え始めたとき、闇の向こうに微かな燐光が滲み出てきた。

 ランプ燃料の蛍火だ。同じ青緑の灯で合図を返すと、足音は二人分の駆け足になった。

「やっぱり俺の見立ては正しかったぜ、隊長」姿を見せる前から興奮の早口でまくしたてたのは、部下の髭面ひげづらの三十男である。「この冷えて乾いた空気。そんなに深層の遺跡じゃないって、わかってたもんな」

「出口があったのか?」クルトの問いに、こちらもいくぶん精気を取り戻した声で若い騎兵が答えた。「いえ、右端で見た扉と同じらしいものはありましたが、あれも開きそうになかった。しかし、天井に亀裂の走った箇所がありまして。そこから外光が差し込んでいます」

「その下あたりに、石膏で造ったみたいなでかい柱があるんだよ。なんだかわからんが、あれもきっと魔法の装置だぞ。あんたに確認してもらおうと、急いで帰ってきた」

「触ってないよな?」

「俺も元渉猟兵だぜ、隊長。そこまでじゃねえや」

 サムエルを起こして怪我人の世話を指示し、三人で早速現場へ向かった。

 陽が差し込んでいるなら、今までわずかでも明りが見えなかったのは妙だと首を傾げていたが、左方面に遙かに歩いたその先で、身廊は更に左右に分岐していた。そこを右に折れた彼方に、確かに細筆で刷いたような斜光が注いでいるのが見えたとき、クルトは自分でも意外なほど安堵する気分を味わっていた。

 だが、啓示のような光が指すその下に、報告の遺物がそそり立っていた。

 三段にあつらえられた円形台座の中央に、堂々据えられた巨大な尖柱碑オベリスク。広大な床面から突如、闇を突いて聳え立ったそれは、白亜というにはやや薄汚れた色をしている。まるで殺された巨神の骨から削り出して打ち立てたかのように、神秘的ながらどこか不吉な存在感で、遺跡の静謐せいひつを圧していた。

「下町の時計塔より高そうだな……」

 慎重にふもとまで歩み寄り、三人は首をのけぞらせて遺物を眺めた。

「これも転送装置でしょうか?」

「俺はその装置ってやつを見てないんだ。おまえはどうだ、見たんじゃないのか?」

「俺だって一瞬だったって。そうさなあ、こいつをうんと短くして、上下ひっくり返して天井にくっつけたら、似てるような似てないような……」

「当てにならんな」

 クルトはマントを肩から外し、大きく仰いで円座の埃を払ってみた。軽く数百年は積もっていそうなぶ厚い層が舞い上がり、人々を咳き込ませながら陽光をかすませる。

 どうやら黄金の象眼された厳めしくも美々しい表面が現れると、そこに無骨な手蹟しゅせきの刻印があらわになった。まるで昨日彫られたような鮮やかな印影は、帝都でもまだ解読されきっていない、ドワーフ族の複雑怪奇な文字列のようだった。

 金細工のとろりとした蜂蜜色に、つい誘い込まれた部下を引っ掴んで止めて、「こいつに触るのは最後の手段だ」クルトは遠い天井の亀裂を見上げて言った。「次は本当に山の底に飛ばされるかもしれないぞ。ここのほうがまだ外に近い」

「クルト卿、これは扉を開けるための装置ではないのでしょうか?」

「そうかもな。だが、侵入者を黄金の蛙に変えちまう柱かもしれん。俺はドワーフの遺跡には詳しくないんだ。あんたはどうかな、何かギュンダーから聞いた話はないか?」

「いえ……、そうですね。隊長なら、むやみに触るなとおっしゃるでしょう」

「扉を見てみるか」

 少し離れた位置の扉は聞いたとおり、身廊右端の突き当たりで見たのと同規模の威容だった。鎖をかけた牛五頭に引かせたところで、開くかどうかは疑問だろう。短剣を差し込む隙間もなく密閉されているあたり、たぶん魔術的にか錬金術的にか封印されてもいるに違いない。

 ――テュエンがいればな。

 クルトは一瞬そう思い、すぐに無駄な空想を打ち消した。現実は負傷兵と新兵と、ろくに休息を取っていない三人の兵士の極小部隊でしかない。有効な手をすぐに考えなければ、全滅は間近だった。

 難物そうな扉は置いておき、とりあえず天井の亀裂を観察しようとクルトは思った。オベリスクを振り向き、ふと違和感を抱いたのは、柱の色が先ほどより白っぽくなった気がしたからだ。それから、周囲の明るさも――太陽の高度が変わったらしく、亀裂に差し込む光の量が増えたのだろう。事実、斜光は太さを増している。そして光のは今やオベリスクの尖端に差し掛かり、直接に柱を暖めていた。

 違和感が確信に変わるより早く、古代種族の遺物はその不気味な本性を顕わした。

 陽光に呼応したのか、骨のようだった質感が見る間に乳白色に透きとおる。動揺する兵たちの前で、内部に赤や金やあおみどり、大地の生むあらゆる宝石の色彩がちかちかと燃え出した。同時に円座も発光している。刻まれた文字列が、螺旋を描くように順々に輝きを宿していく。

「隠れろ!」いち早く反応したクルトが仲間を壁際まで押しやったとき、しかし異変は遙か反対側、一定間隔で壁に入り口を開けた房室内で起こっていた。

 まばゆい黄金の輝きが溢れ、鎮まったあと、騒がしい喚きとともに飛び出してきた影が三匹。悪鬼ゴブリンたちだ。だが彼らは狼狽したようすで一目散に駆け去った。

 その理由は明快。直後に房室の小さな入り口を破壊して現れたのが、灰色の巨体だった。

巨鬼トロルだ……」しかも二頭出てきた。

「くそっ、あいつら拠点のほうに……」

「――俺に任せろ。いいか、おまえたちは絶対にここを動くな」

 突然に思いついてクルトは言った。死地を打開するにはこれしかないと思い込んで。

「もし俺がしくじったら、戦おうなんて考えず拠点まで逃げろ。もしかしたら、今ので転移の門が開いたのかもしれん。わかったな」

「またあんた、ろくでもねえこと考えてる顔だぞ、隊長。俺も行く」

「命令だ、聞け。奴らの気が他へそれると困るんだ。隠れてろよ!」

 言い置いてクルトは、隠れていた瓦礫の影から躍り出た。しかし剣は抜かぬまま。駆けながら魔物に向け大声を出す。手には巻いたマントだけを持っていた。

 身廊奥の闇に消えかけていたトロルの肉厚の背が、緩慢な仕草で振り向いた。体躯に比して小さすぎる目と脳がクルトを捉え、獲物と認識し、次の瞬間魔物たちは歓喜に震えて大咆哮した。

 一歩一歩、床石を踏み砕きながら大重量の巨躯が迫る。クルトは背後の位置関係を調節しつつ、群青のマントを振って魔物を挑発した。開かずの大扉の前に陣取り、まっすぐ巨鬼が突っ込んでくるのを待ち構える。

 背後に長くよだれを引いた魔物が身を低め、前のめりの最後の猛突進に移ったそのとき、クルトはマントを大きく開いた。ふわりと空中に広げた直後、全力で横跳びに回避する。爪先を凶風が通り過ぎ、マントに視界を奪われた巨鬼はそのままの勢いで扉に突っ込んだ。駄目押しに二頭目が双子の兄弟に激突する。

 山が震え、遺跡が軋んだ。一瞬の異様な波動が、空間を駆け抜けていく。

 ぱらぱらと天井から降りかかってくる土塊つちくれを浴びながら、クルトの目は巨大な扉の中央に走った光のすじが、次第に幅を増していくのを見守っていた。

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