5.北望館

 北望館の西裏にある暗い木立の中から、うずくまっていたミルレットはすこしだけ首を伸ばした。

 タヴァラン家の敷地は思っていたより広大だった。今いる場所にくるまでに相当の回り道をしいられている。おまけに敷地を囲う石塀は、少女の背丈とかわりないほど低かった。館からは前庭だけでなく、南東に開けた丘陵地まで一望できる見晴らしだった。

 屋敷へいたる坂道を馬鹿正直に登っていたら、かなり距離のある段階で門番に目をつけられていただろう。警戒して、館に対し丘が盾になるよう移動してきた自分を、ミルレットは褒めたい気分だった。

 息を潜めて見守る館のようすは、静かなものだった。監視のうちに郵便かなにかの使いが一人、菜園に野菜を収穫にきた侍女が一人の出入りしか見かけていない。その煉瓦塀の菜園に白鷹草があるのではと足を向けかけてから、少女は温室という言葉を思い出した。それで外壁をぐるりと回り、出くわした小さな森の中を進んでみると、それらしい建物を発見したのだった。

 農村育ちのミルレットには、それはひとつの驚きだった――まぶしい白亜の豪華な装飾壁に、目をみはるほど大きなガラスを張られた美しい建築物。もっと近くで眺めたい欲求に駆られたものの、温室の周辺は木々の切りひらかれた閑地になっていた。しかも屋内には青々と樹木が生い茂っているようで、内部に誰かいるともかぎらない。庭師が屈みこんで作業しているところに、うっかり出くわしたら一巻の終わりだ。

 けれど目当ての薬草は、あの建物の中だという直感があった。とにかく屋敷の死角から、温室内をのぞいてみなければ……。

 意を決したとき、どこからか犬の吠える声が聞こえてきた。

 ――野犬?

 犬は、大嫌いだ。ミルレットは怖じ気づき、耳を澄ます。その瞬間、

「ミル!」

「――レム! やめてよ、びっくりするでしょ!」

 振り向いた先に、少女に負けず劣らず目を丸くした有翼人の少年がいた。木立の茂みにうずくまり、彼は息を潜めて何してるのと聞く。

「ここ、誰かの貴族様のお屋敷だよ! 見つかったら怒られるよ」

「だから隠れてるんじゃない。あんた、あたしについてきたの?」

「どんどん遠くに行っちゃうから、呼び戻そうと思って」

 丘陵で花摘みしていたとき、レムファクタが見かけたのは、丘の底を縫うように北上するミルレットのうしろ姿だった。声をかけるには遠すぎて、あとを追ったはいいものの、北望館の外塀近くでレムは一度少女を見失った。次に見つけたのが、この木立に入りこむ背中だったと少年は言った。

「じゃあ、大人には見られてないよね?」

 用心ぶかい上目遣いのミルレットに、レムファクタは困惑気味に首を傾げる。

「誰も見てなかったと思う。だから早く帰らなくちゃ。師匠が心配するじゃん」

「だめ、帰らない。あの建物の中に、薬草があるって聞いたの!」

「えっ」とレムは温室を見やり、「でもあれ、人の家の建物だよ。きみ、泥棒しにきたの?」

「ちょっと――分けてもらうだけよ。あんたは来ちゃいけなかったのに」

「だめだよミル、もらうならちゃんと頼まなくちゃ」

 強い表情で引きとめるレムファクタに、なんにも分かっていないとミルレットは苛立った。

 夏の白鷹草のひと束もあれば、レムの師匠は何日も仕事を休まずにすむのだ。白鷹草は小さな花だ。根こそぎ盗んでいくような愚を犯さないかぎり、貴族は気づきもしないだろう。小作農の子供が一人、病で倒れても気にしないのと同じように。

 少年を振り切ってミルレットは駆けだそうとする。二人が押し問答をやめたのは、そこへ軽快な足音が急速に近づいてきたせいだった。

 荒い息づかいとともに、二頭の大きな猟犬が屋敷の前庭方面からいきなり森に突っ込んできた。子供たちは驚いて、そばの樹木に身を寄せる。

 犬は灰色に黒のがある一頭と、全身チョコレート色の一頭だ。不審者を嗅ぎつけたふうではなく、ただ活力を持てあましているだけなのか、二人に気づく気配もなくそのまま駆け去った。だがほっと安堵したのも束の間で、またじゃれあいながら戻ってくる。

 庭のほうでは、犬の名を呼ぶ声がしていた。どうやら意図的に放たれたものではないらしい。

 犬たちはあっちの茂みに印をつけたり、こっちの木の枝を噛んだりして遊んだりしている。だが去ったと思うと戻ってきて、はっきり勘づいていないにしろ、子供らの匂いを嗅ぎつけているのかもしれない。気づかれるのも時間の問題に思われた。

 猟犬たちは細身でも、子供らと同じほどの大きさがある。おびえた狐を噛み殺すなど造作もなさそうな牙が、だらりと垂れたピンクの舌に隠れては見えしていた。

 ――どうしよう……。

 激しくたじろぎ、ミルレットは拳を握りしめた。幼いころ、野犬に追われた記憶がよみがえったのだ。

 恐怖ですくんでしまったとき、ぎゅっと肩を掴んだのはレムファクタだった。

「ミル、おれに任せて。おれ、木登りが得意なんだ」

「……?」

「おれが囮になるから。そのあいだに逃げて」

 でも、と言いさすミルレットに、レムファクタはこわばった唇で、しかしはっきりと囁く。

「木から木に飛び移るのも、上手いんだよ。クルトさんも、おれのほうが自分より上手だって褒めてくれたことがある」

「――そういう危ないことはやめるようにと、言わなかったかな」

 木の反対側から、耳に馴染んだ穏やかな声がした。

 二人が振り向く。下生えをかき分けて、ほっとした表情の錬金術師が顔をのぞかせたところだった。

 ひょろりとした痩身を折りまげ、テュエンは茂みに隠れるのに苦労しているようだった。明るい鳶色とびいろの髪が目立つとでも思ったのか、頭に葉のついた枝をかぶっているが、あまり役立っていない。術師はなるべく音を立てぬよう落ち葉を避けながら、這うように子供らの隣へやってきた。

「師匠。師匠もミルを追いかけてきたんですか?」

「いや、私が追ったのはおまえだよ、レム。おまえの白い翼はうしろからはよく目立つんだ。今度どこかへ忍びこむときには覚えておきなさい」

 弟子に対しては珍しい師匠の冗談に、レムファクタが目を白黒させる。さあ、とテュエンはミルレットをうながした。

「一緒に帰ろう」

「でも、犬が……」

「気をそらすものをいくつか持っているから、大丈夫だよ」

「だけど」腕を引くテュエンの力を強く引きかえして、ミルレットは言いつのった。「花が――夏の白鷹草の花が、あそこの建物の中にあるって聞いたんだ」

「あそこの花は、もらえる花じゃないんだよ。心配しなくても、薬は作れるから――」

「何日もかかるんでしょ? 術師様にもレムにも迷惑はかけない。あたしが一人で花をとってくるから――」

「盗むのはよくない、ミルレット」少女の両肩をつかみ、テュエンは言った。「盗みをしたら、これから誰もがきみを泥棒だとしか思わなくなってしまう。農民の子でもミルレットでもなく、泥棒だと言われるんだ。きみが考えているよりも、それはつらいことだよ」

「…………」

 しっかり両目を見据えて言われ、ミルレットはうつむいた。実感は湧かなかったが、怒鳴られるのではなく静かに諭されると、たぶん術師の言うとおり、重大なことなんだろうという気がした。

 灰色の犬が温室を一周し、扉を嗅いで去っていく。やりすごして、三人はもと来た森の中を戻りはじめた。先頭をレムファクタが進み、真ん中にミルレット、最後にテュエンがつづく。だがいくらも行かぬうちに、背後でけたたましい猟犬の吠え声が起こった。

「伏せて。目を瞑って」

 テュエンの声に従い、子供たちはとっさに身を伏せた。カチッと小さな壊音と、次の瞬間、頭の上を猛烈な風が吹き抜ける。明らかに魔的な突風に木立がどよめき、犬たちの混乱した叫びがあがった。

「立って。走るんだ」

 ひるんだのもわずかの間、猟犬は家の者に異常を知らせるべく再び猛然と吠えだした。

「どうした――?」

「犬が――?」

 館のほうから人々の声。テュエンは森を見回して、枝ぶりの密集した月桂樹の古木に子供らを導く。

「ちょっと、私がなんとかしてくるから」背後の騒ぎを気にしつつ、テュエンは二人をあたふたと樹上へ押し上げた。「あたりが静かになったら、二人とも先に帰りなさい」

「師匠、なんとかって、どうするの?」

「なんとかというのは、なんとかかなあ……」

「師匠!」

 シーッと人差し指を唇にあて、どうにも心許ない微笑を残してテュエンは葉叢はむらの向こうへ消えた。もはや隠す気のない落ち葉と枯れ枝を踏みしめる音、樹上に隠れた子供らの足もとを駆け抜ける猟犬二頭がおり、突然、星でも落ちたかと疑うような激しい閃光がどこかで弾けた。

 犬が高い悲鳴をあげ、数を増やしていた人々の驚愕と命令の声が交錯する。遠い木立で猟犬が再び獲物を見つけた声を上げた。男たちの怒声が響き、大地を踏みならす騒音がして、それからすこしのあと、恐ろしいような物音は小さくなった。

 猟犬はまだ吠えていたが、それも間遠になっていた。人々のざわめきとともに、やがて館のほうへ去っていく。完全に騒ぎがおさまる前、レムファクタは憤然とした男の声で、「テオドルド様にお知らせを!」と、誰かが指示するのを聞いていた。

「昨日の錬金術師らしい。大広間へ連れてゆけ!」

 昼間にも関わらず、嵐の去った森は日が落ちたように寒々しく感じられた。

 二人の子供がおびえながら木立を抜け、とにかく花を摘んだ丘へつづく小道まで戻ったとき、日向の路上でこちらに気づいたのはもはや手遅れとなった助っ人だった。

「クルトさん……」

「おお。おまえら、無事だったか」

 レムファクタが戸惑ったのは、衛士隊長がさも位の高そうな貴婦人をそばに伴っていたことだ。女性は三十なかばほど。やや驚いたような愛嬌のある表情を、ふくよかなおもてに浮かべている。

女公レディ、これらが私の申した子供です。こら、おまえら。こちらタヴァラン家の奥方のレティアヌ様だ。ご挨拶とは言わんから、会釈えしゃくをしろ」

「は、はじめまして……」

「偶然、街でお会いして、ありがたくも事情をご理解くださってな。まずいことになってたら騒ぎを穏便におさめてくれる話になってたんだが――どうなったんだ? 先にテュエンが行ったんだろう。おまえたち、やつには会ったのか?」

 まあ、と婦人が気遣わしげに屈みこんだ。

 耐えきれなくなったように、ミルレットが大きな声で泣きだしていた。

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