4.魔術錬金

 五日目、約束の日の夕方が訪れた。けして広くはない半地下の部屋に、大小四人の人影が黙って大理石の卓を囲んでいた。

 炉に火の入っていない岩肌の錬金部屋は肌寒い。散らかっていたさまざまの物品は一応片付けられ、作業台の上には金の鳥籠と道具が整理して置かれているだけだ。

 クルトは腕組みして壁に背を預け、その隣にレムファクタも立っている。まだ気まずそうな顔つきで、自分の翼をいじりながら。

 テュエンは作業台のすみに置いた小さなランプに明かりを灯した。錬金術師と向かい合わせに、楽師セリエラの姿もある。彼女は依頼に来た日と同じ、深い草色のローブの下に漆黒のドレスを纏っていたが、今ではそれが死者をいたみつづける喪の色だとテュエンにもわかっていた。

 卓から二歩ほど離れた位置で、彼女は心許なげに錬金術師の作業の指先を見守っていた。

「先刻、お伝えしたとおり――」

 テュエンが口を開く。準備が整い、手を止めて背すじを伸ばすようにした。

「やはりこの試みも、成功の見込みは低いと言わざるをえません。完成した魔術を生かしたまま、直接手を加えて別の形に創りかえる作業を、私は行ったことがありません。それに籠の戸を開けてしまえば封印の魔術は散失するので、二度と鳥を籠に戻すこともできなくなります」

 白い手で胸元を押え、セリエラは黙ってうなずく。相変わらずやつれた面立ちに、テュエンは罪悪感を抑えきれずに目をそらした。

「もし改術中に風信鳥が傷つくと判断した場合、私は作業をそこで中断します。鳥は解き放たれて貴方のもとでさえずり、言伝をすべて伝い終えたら、術から解放されて微風そよかぜに還るでしょう。魔神の奇跡でも鳥をもとに戻すことはできません。――よろしいですか?」

「無理を承知で、貴方におすがりしました」

 セリエラが唇を震わせた。冷静であろうと努力しながら力がこもる指先はますます白く、生気のない灰色の瞳が鳥籠を必死に見つめている。

 長い睫毛の下で揺れるその瞳と、視線を合わせずにすんでよかったとテュエンは思った。術師自身は一縷いちるの望みも抱いていないなどと、最初から悟られずにすむ。

「私は貴方を信じてお預けしましたの。製作者であるテュエン様にできないというのなら、他の誰にも、あの人の声をこの世にとどめおくことはできないのでしょう。けしてお恨みなど申しません。――どうぞ、よろしくお願いします」

「……では」

 うなずいてテュエンは作業台から両手を離した。

 もう二、三歩さがるよう楽師に指示、クルトやレムにも手伝ってもらって壁龕へきがんの明かりを消す。薄闇ほどに落とした照度の中で、深呼吸して小さな鳥籠と向き合った。

 台上にはクリーム色のなめらかな上質紙が敷かれ、鳥籠はその中心に置かれている。籠の周囲には魔方陣。嵐揺晶らんようしょうの粉末を混ぜたインクで描いた単純な円環術式が準備されていた。

 わずかに鉱石由来の光彩をちらつかせるインク線の一端に、テュエンはそっと指を触れる。指先に熱が灯り、しだいに線を伝って力が魔方陣に行き渡っていった。流れる水のイメージ。あるいは音のない細波さざなみ

 絡みあう蔦草つるくさに似た、複雑優美な古代文字が魔術師の力の呼びかけに目覚め、ほのかにその色を変えていった。漆黒から赤熱へ、赤熱から黄金へ。いまだ常人にはえぬ輝きが強さを増すのを感じつつ、テュエンは片手をかたわらの木椀に伸ばした。

 無色透明の錬金滴をつかみ取り、魔方陣の要所要所に三粒、配置する。それから指を静かに離し、術が錬金滴から魔力を得て自ら安定するのを待った。

 作業台の上、鳥籠の周囲に、ゆるやかな気流が立ちはじめていた。風は微風よりすこし強く、紙上の魔方陣から湧きあがり、見るまに勢いを増して高く渦巻いていく。音はほとんど聞こえない。だが活性を得た魔方陣の輝きと、巻きこまれた塵と埃とが灯火に煌めいたのだろう、見守る三人が目をみはり、何事が起きたのかと宙を見つめた。

 気流の渦は天井に届く前に、すぼむ形で閉じている。指で触れてそれを確認すると、テュエンは渦内部にそっと腕を差しこんだ。呼吸を整えて鳥籠に手を伸ばす。年月でゆがんだ檻の扉が悲鳴を思わせるきしみを立てた。そのたび息を詰めて動きを止めつつ、慎重に扉を引き上げていく――と、開ききる直前に内部から一陣の風が飛び出した。

 核である錬金滴が補う魔力は、かすかに翠銀の輝きを帯びて不可視の風鳥の身体を巡る。人々の目に現れては消え、消えては現れる魔法の小鳥の輪郭は、蜂鳥はちどりめいた動きもすばやく、籠のそばで待ち受けていたテュエンの手をすり抜けた。

 あっと声を漏らしたのはセリエラだったか、レムファクタか。けれどテュエンは落ち着いて、魔方陣の生む気流に行く手を阻まれた鳥を、両てのひらに包んで捕らえこんだ。

 小鳥を封じるため作られた鳥籠は、役目を果たして砂の小山へと崩壊していた。その真上まで両手を戻し、テュエンはゆっくり左右に手を開いていく。指の隙間から零れた金の光が、微妙に強弱を変えつつ細かなひび割れを起こして、欠片かけらとなって広く散らばり、見守る三者が息を呑んだ。

 魔術師の神秘の両手が卓上へ戻ったとき、もはやどこにも、あの不可思議な風をまとう小鳥の姿は見当たらなかった。かわりに現れたのはまばゆい黄金の輝きを放つ、無数の微小片が巡る円盤だ。その中心に、小石がひと粒――超自然の力で宙の一点に留まりながら、くるくる軽やかに自転する、まだらせた灰色のひと粒が浮かんでいた。

「これが、おまえの魔術なのか」思わずといった感じの、クルトの声がした。

「うん……」視線は向けずにテュエンは答える。「魔力の源の錬金滴が、もう灰になりかけている。あと二時間も保たなかったろう」

「その石だけ交換することはできないのか?」

「新品に換えようとして、小鳥から心臓を引き抜いたら死んでしまうだろう? はじめから心臓を複数創っていれば、別だったかもしれないけれど……。でも、それは単に寿命を多少延ばすだけの処置にすぎない。さえずったら消えてしまうのは変わりないんだ。だから今から術そのものを大きく改変する」

 あまり長くは触れていられない、とテュエンは言った。

「もうすでに端々で構造がゆるみかかっているから。しかしともかく……、やってみるよ。クルト、しばらく集中したい」

「了解した。レム少年、黙ってろよ」

 おれじゃなくて、クルトさんでしょ! とでも言いたげに、レムファクタが隣の衛士を引っ張ったのが視界のすみに入った。無意識に強張っていた肩から緊張が抜けるのをテュエンは感じ、それから意識を研ぎ澄まして自らの魔術に向き合った。

 卓上にそろえて置いた、星鉄鋼の箸を手にとった。虹色の泡に似た、遊色の斑の入った細く長い鉄箸てつばしは、テュエンがまだ大学在籍中に考案した独自の道具だった。

 遠い異国の調理器具そっくりのおかしさが、当時から師や同期には愉快がられたものだが、魔力の伝導に優れた材質は細やかな力の制御に有効だった。難しいはしさばきにも習熟してくると、他の道具を持つ気がなくなるほど、これのみで、テュエンはどんな繊細な作業もすばやくやってのけられるようになった。

 星の散る夜色の箸を持ち、術師はその先端を黄金の破片の巡る円盤にゆっくり差し入れた。風とは相反する、大地の力を宿した精油を箸の片方に塗ってある。その力が小鳥の魔法の結節をやわらかく割いていき、けれどあまり力を込めすぎて術の構成を弾き飛ばさぬよう、テュエンは呼吸も忘れて改術すべき箇所を探した。

 ――あった。これだ……。

 やがて見つけたのは、ゆるいビーズのように連なる十あまりの破片の連続だった。生きた微小な魚群のように、魔術を気ままに泳ぎ回っている。

 箸の上下を一瞬で入れ替え、テュエンは魔力をわずかに注いだ。すると小片群が、つと吸い寄せられ、開かれた箸の先端に震えながらまとわりついた。同時にテュエンは片手で用意の浅底皿を引き寄せている。なんの装飾もない、ありふれた陶器皿には碧く透きとおる液体が張られており、それを魔法の中心で自転する灰色の小石の真下に据えた。

 魔術師の箸がすばやく動く。唇から低く穏やかな音色が漏れた。作業部屋の空気が一瞬、かすかに不可思議な鳴動をする――眠る狼の夢見の唸りや、遠い雷鳴の轟きを彷彿ほうふつさせるその抑揚。それをよく聞けば、なにがしかの意味を持つ言語らしいとわかるだろう。けれどそれは現代語ではない。母音が長く引き延ばされて、呪文というよりは呼びかけに似た、神々がまだ力を持っていた太古から継がれた音韻だった。

 壁沿いで見守っていたクルトが、すこし首を伸ばす仕草をする。レムファクタはとうに身を乗り出して、セリエラは口元を両手で抑えて驚異に魅入っていた。テュエンの操る箸先で、八の字を描き踊っていた黄金の微小片――それらがいつしか長さを増していた。砕けた鏡片の形を融かし、明滅のたびに数を増やして、新たに二重三重の鎖を繋いで箸の周囲を踊っている。

 ふいに魔術師が鋭く息を吐いた。同時に増えた光鎖の一端が、下方の皿へするりと垂れる。皿の水面は逆に、突然はげしく沸きたって、両者が出会ったと見えた刹那、無音の光球がふくれあがった。

 思わず目をつむった見学者たちが、おそるおそる瞬きをする頃――小鳥の魔術の円盤は最初と同じに見える形で、何事もなくそこで自転していた。

「最初の作業は終了しました。なんとか、うまくいったようです」

 箸を置き、額を手でぬぐったテュエンの顎から汗が滴っている。それほどの緊張を強いる作業だったかと、クルトは無駄口を叩かぬようただ頷き、レムファクタは百もの質問を抱えた顔で、声をかけてよいものかどうか衛士とテュエンを見比べた。

 セリエラが、期待に満ちた眼差しをテュエンに向けた。

「では、これで、小鳥は消えずにすみまして……?」

「魔力を外部から補えるようになりました。この陶器皿――入っている液体は、風の魔力の溶かしこまれた特別なものです。錬金滴ほど濃い力はなく、液がなくならないよう常に補充しつづける必要はありますが、少なくとも崩壊寸前の状態よりは安定したかと」

 ありがとう、と口に乗せようとしたセリエラを制し、テュエンは首を振った。

「問題はこれからです。今の作業は魔術の外殻にほんのわずか手を加えるだけですみました。次はもっと根本のところに深く分け入る必要がある。致命的な損傷を与えかねない作業をします」

「…………」

「もし、ご希望であれば、ここで打ち止めにして鳥をお返しすることもできます。液を枯らさぬよう気をつければ、三年はもつはず。無論、伝言を聞くことはできませんが……」

「いいえ――いいえ。どうか、このまま作業を……、お願いします」

 掠れた声で楽師は言った。胸の前で手を組み、何事か祈りの言葉を彼女は囁いた。それからふと楽師は背後を振り返ると、壁ぎわに置いていた己の楽器鞄をじっと見つめた。

 何かしたいのだろうかと、テュエンは彼女の次の動きを待った。だがセリエラは悲しみと恐れに疲れた白っぽい顔を戻すと、お願いしますと静かに繰り返しただけだった。テュエンは鉄箸を再び手に取った。

 ――こんなに難しい作業を行うのは、久しぶりだ……。

 そう思いながら、しかし彼は改術再開の覚悟が決まらず、すこしだけ立ち尽くした。

 技術が衰えている気はしなかったが、磨かれていることは絶対になかった。なぜなら彼はこの五年間、単純な、つまらない錬成品ばかりを作っていたのだ。腕を磨こうにも、手本とすべき師もおらず、書籍もなく――いや、それも言い訳にすぎないなとテュエンは思い直した。

 苦しんで技術を磨いたところで、なんの見返りもなかったのだ。名誉、賞賛、富、約束された将来。労苦に見合う報償もなく、ただただ虚無感を抱えるだけなら、何もしないのが一番疲れずにすむ。そうして腐っていた結果が、現在の自分なのだ。

 ――とはいえ、どうしようもなかった……。

 たぶんこれが、己の限界だったのだろう。たとえこれから一人の楽師の人生に消えない傷を残すとしても、悪くすれば生きる気力さえ奪いかねない失敗をするとしても。自分のできるかぎりでやるしかないのだ。それがすべてなのだから。情けない自分の、実力のすべて……。

 絶望の涙を流すセリエラと、失望したレムファクタの悲しむ顔を心から追いやって、テュエンは静かに呼吸を整える。両手を光の円盤にかざした。

 魔術錬金は、魔術だ。乳鉢で薬草や鉱石をすり潰して調合するような錬金術は、支持体の製作までで終わる。本式の魔術師ではないテュエンは補助として多くの道具を使うから、見る者には違いがわかりにくいかもしれない。だが術者の主観からすると、経験と、そこから導かれた理論で固められた錬金術に比べれば、古来から秘伝として継承される魔術という技は、はるかに感覚的なものだった。

 どちらかといえば絵を描いたり、詩をんだりするのに近いと思う。混沌のパレット、言葉の海からよりふさわしい色や単語を探し出し、塗り重ねて、一個の秩序を組み立てていくような作業。成功に必要なのはすこしの理屈と鍛えた感性、そして訓練を積んだ技術の呼びこむわずかな幸運だけである。

 テュエンはなめらかに箸を返した。環状に巡り流れる鏡片群が、差しこまれた異物にざわめき割れる。

 星鉄の箸が感じる魔法は、鳥の――籠に囚われていた気流の小鳥、素材となった魔鳥の記憶の、好んだ、嫌った、あらゆる風の感触だった。暖かな潮風をテュエンは感じた。どんな時代の幸せだろうか、南海の午後の風を、小鳥の頬の毛が受けてそよめく。

 細かな鏡片が震えておののき、テュエンは箸を遠ざけた。くらい色の一連が視え、嵐を含んだぶ厚い風が圧力を増してこちらに迫った。いいや、これではない――箸を傾けてテュエンは避ける。すり抜けて暴風の内部へ、意を決して魔法の深奥へ。魔術を乱す異物を拒む、冷たい疾風はやてが牙を剥いて箸先をかすめた気がした。

 魔術師の全身はいつしか箸と感覚をひとつにし、形のない小鳥の気流をひとすじひとすじ泳いでいった。穏やかな上昇気流に激しい追い風、雨滴を含んだ暖流が北からの冷風と出会って雲と凍る。天の高いところの陽光――けして近づけぬはるかな気流に、魔鳥の憧れと畏れが視えた。魔法の核心が近くなっている。ひるがえって、木々を縫い地を這う湿った微風。花の香り、敵の匂い。あの振動はなんだろう? 遠い竜巻。力強い轟きは、かつて己が構成した、古代言語の響きだろうか。

 ――いや、ちがう。これは……、歌?

 テュエンの身に、一気に人間の感覚がよみがえった。冷や汗を流し、彼はさっと箸を引いた。

 ――声だ。これが伝言だ。

 輝く円環を凝視して、テュエンは動きを凍りつかせた。心臓だけが激しく拍動する。危うく鋭い箸先で、大事な伝言を切り裂いてしまうところだった。

 けれど、ほんのわずかに思えた挙動は、やはり狼狽の動きを伝えてしまっていたらしい。二拍、三拍の間を置いて魔術全体がさざめきはじめた。

 鏡片群が脈動を乱す。全体が息づくようなリズムを作っていた金の光輝は、いまやてんでばらばらの混乱状態に陥ろうとしていた。

 テュエンは唇を噛み、風の乱流をなだめようと手を伸ばした。片手に魔力の熱を広げて拡散しかける円盤を整え、光の渦から跳ね飛んだいくつかの鏡片を摘まんで戻す。

 しかし、動揺はおさまらない。魔法の術式の二、三片が、予測不能な動きに変わって別の断片にぶつかりだすと、収集がつかなくなった。衝突が衝突を呼び、円環のあちこちで大小の渦が湧きおこる。気流の編み糸が、しだいに辺縁からほどけはじめていた。

 ――駄目だ、瓦解する……。

 だがその瞬間、深くから生じた小渦に押し出される形で、テュエンは今にも途切れかけた一本の風脈を見いだした。

 風信鳥という魔風を束ねる、それがもっとも重要な魔術の本質だった。かつて焦りながら組んだ術式は粗雑で穴だらけで、今まで千切れていないのが不思議なほどだ。

 テュエンは箸を短く持った。左手で円環全体を支えながら、精妙な動きで逃げる気流を必死に絡めとった。

 捕らえた――と思った。だがそのかたわらで、パキリ、軽いが嫌な音が耳に届いた。

 どこかの大事な鏡片にひびが入った。気にする余裕もなく、テュエンは古代の音韻を吟じる。小鳥の羽根を整え、くちばしを磨き、強く命じる――声を幾重いくえにも木霊こだまさせて、風にとどめよ、季節の巡りのごとく、一歳ひととせのちまた帰り吹く風のごとくさえずれ、と。

 すると一段、二段と鏡片の群れ全体が大きく脈動して膨れあがった。平板だった円環は球体へと形を変える。すべての鏡片が震え、滲んで形を融かし、瞬きのまに優美な古代言語の文字片へと遷移せんいした。

 縦横に絡み合った術式がぱっと散開し、凝集した。意味のある文字列へ、整然とした理をあらわして。一度の大きな混沌を経て、魔術は一気に秩序を回復した――かに見えた。

 すべてが静止した一瞬。鏡の粉砕さながらに、魔術はひび割れ崩壊した。

 失敗だった。

 視界がけるのもかまわず、テュエンは目を見開いて両腕を広げる。

 鉄箸はとうに放りだし、砕けた欠片すべてを集めてなんとか抱えこむ。息継ぎも惜しむ激しい詠唱。両腕を大きく使って鏡片を丸め、撫で、縮める動作を必死に繰り返した。

 全身から噴き出す汗は、すべて冷や汗だ。最後に、改術作業を始めたときとまったく同じ姿勢になって、テュエンは両のてのひらを胸の前で包み合わせていた。

「……本当に、申し訳ない」

 呻くように囁いた。肩で息をしていたが、全身は落胆と惨めさで芯まで冷え切っていた。

「失敗です、セリエラ殿。魔術は最初の状態に戻ってしまった……」

「伝言は――伝言はどうなりましたか?」

「まだ、この手の中に」

「それなら……」

「しかし、一度きりになります――鳥を封じる術はもうありません。力の供給の糸も切れてしまった。今、解き放てば、それで最後です」

「もう、いいの。いいんです」セリエラは微笑もうとしたが、今にも倒れそうに見えた。「本当に無理なお願いをしてしまったわ。貴方を悩ませてしまってごめんなさい。すべて私が悪いのだわ。もっと早く、こうするべきだったんです。もう小鳥を――あの人の声を、放してあげて」

「しかし……」

「いいんです」

「…………」

 テュエンはなお躊躇ためらい――躊躇ったが、他にどうしようもなかった。

 彼はうつむく。絶望を解き放つように、両手を静かに広げておろした。見えない小鳥の風の尾羽が、涼やかに手のひらを撫でていった。

 それから――聞こえてきたのは、言葉ではなかった。旋律のようだった。

 途切れ途切れの男の鼻歌だ。やわらかく――ひどく呼吸が苦しげだが、奇妙なほど穏やかな、優しい歌声。

「これ――」レムファクタが呟く。「〈水の眠りのパヴァーヌ〉だ。そうでしょ? でも悲しくない……、明るい曲になってる!」

 たしかにそのとおりだった。テュエンは顔をあげる。

 風信鳥は、呆然としたふぜいでたたずむ女楽師の周囲を軽やかに飛び回っていた。魔法の劣化ゆえか、鷲獅子の巣で死に瀕した男の喘鳴ぜんめいのせいか、時々声を詰まらせて、それでも優しい、美しい旋律を歌いあげながら。

 そして小鳥は、セリエラの正面で動きを止める。彼女が片手を差し出すと、当然のようにその白い指の一本に舞い降りた。

「セーラ……」小首を傾げ、鳥はセリエラを見あげて語りかけた。「弾いておくれ、僕の曲を……。きみが、弾きつづけてくれるなら――きみがそうしてくれるかぎり、セーラ、僕はね、一緒にいるから……」

 鳥が再びくちばしを開く。歌が零れる。穏やかな音色。

 歌いながら、一本一本ほどけるように、魔法の気流が溶けていく。

 やがて微風に灰が混じると、かぼそい、だが優しい鼻歌をかすれさせて、最期の魔風がほどけていった。

 静寂だけが残っていた。気遣うような沈黙と、静かなすすり泣きと。

「――もう二度と、リュートを弾くことはないと思っていました」

 しばらくしてから、セリエラが呟いた。まだうつむいたまま、密やかな声で。

「弦を切って、ネックを折って、捨ててしまおうと思っていました。あの人が、一言でも私を責めたなら。一言でも、私を気遣ったなら……。責められるのは当然だし、気遣われる資格もないわ。だって私たち、本当は一緒にいるはずだったんですもの。一緒に死んでいるはずだった。でも港街で私たち、喧嘩をしたの」

 ウェシオは本物の芸術家だったから、と伏せたセリエラのまぶたから滴が落ちた。

「〈水の眠りのパヴァーヌ〉は、私たちの初めての人気曲でした。でも彼は気に入っていなかった。悲しみが露骨すぎる、もっと美しくなるはずだと言って。愚かにも私は二人の名をもっと売りたくて、彼に反対したわ。腹を立てて、一人で先に街を発ちました……。

 本当は、私も一緒に鷲獅子に襲われているはずだったんです。ウェシオと一緒に苦しむはずだった。一緒に痛みを、死を分かち合うはずだったのよ。なのに私だけ――」

 顔を覆い、セリエラはついに嗚咽を漏らして泣き崩れた。クルトにうながされたレムファクタが、どこからかハンカチを探してきたが、渡せずにその場をうろうろした。テュエンは何もせずに立っていた。彼はただ、批難と失望の言葉を待つのみだった。

 だからようやく顔をあげたセリエラが、ありがとうとテュエンに告げたとき、彼は何も答えられずに楽師を見返しただけだった。

「テュエン様、あなたのおかげで私、ウェシオの曲を受け取ることができました。私、演奏を続けます。世界中の街で、いつまでも、誰の耳にも残るように。私がリュートを弾くかぎり、彼は私とともに、曲の中に命を保ちつづけるのだわ。だから――本当にありがとう、あの小鳥を創ってくれて。心から感謝します」

 楽師の頬にかかった涙の数滴が、水晶のように輝いた。それ以上に美しく、彼女は微笑んでいた。テュエンは「いいえ」と返したきり、ほとんど何も言えずに困惑していた。

 依頼は失敗したのだ。セリエラが取り出した金貨の小袋も受け取るべきか迷うあいだに、彼女は「どうか」と重ねて言って、作業卓上に残していった。

 深くお辞儀して彼女は去る。夜の月蝋通りを送っていくクルトが、去りぎわテュエンを振りむいて片目をつむってみせた。友人はこうなることを知っていたのだろうかと、テュエンはただぼんやり考えた。

 二人を見送り、店の扉を閉める。鍵をかけて店内を歩き、作業部屋へ戻った。

 とりあえず卓を片付けようと掃除道具を探しかけたところで、「師匠」レムファクタが声を出した。

 少年はぎゅっと口を引き結び、頬を紅潮させてテュエンを見上げている。うまく開かない翼をせいいっぱい立てて伸ばし、決意の眼差しで養親に告げた。

「おれを弟子にしてください!」

「――レム」

「学校に入れなくたって、いいんだ! 錬金術師って免許をもらえなくたって、師匠の手伝いはできるでしょ? それにクルトさんから聞いたんだ。作った物を人に売ったり、方法を教えたりしないんなら、錬金しても違法じゃないって」

「クルト……」余計なことを、とテュエンは苦虫を噛みつぶす。「たしかに、そうだけれどね。でも……」

「おれの羽根、治らないんでしょ?」

 不覚にも、テュエンは息を止めた。いや、と否定しながら、それもクルトが教えたのだろうかと疑う。

「そんなことはない。きっと治療薬は」

「師匠。おれ、ばかじゃないよ。あんなにすごい魔術ができるんだもの、作れるなら、薬、とっくに作ってるでしょ。師匠が作れないんなら、きっと駄目なんだ」

「そんなことはない」テュエンは片膝をついて少年と目線を合わせた。「私は諦めてはいないよ、レム。とても難しい薬だが、どこかに治療薬の手がかりが……」

 あるはずだ、と断言してしまっていいのか。見込みのない偽物の希望を、再び与えて夢を見させるのは罪ではないのか。

 唇を震わせて黙ってしまったテュエンに、しかしレムファクタは微笑んだ。

「父さんと母さんに、もう会えないかもしれないのはすごく悲しいよ。でもおれ、思い出したんだ。セリエラさんが師匠にお礼を言って、微笑わらったときに。地上に来る前、父さんと母さん、家で毎日泣いてたんだ。おれが小さい頃、二人ともいつも悲しい顔しかしてなかったんだよ。でも地上に来て、師匠に会って、おれの羽根の薬を作るって約束してくれたとき、二人とも本当に嬉しそうに笑ってくれた。それでおれの頭を撫でてくれた。その顔をずっと憶えてるんだ」

「…………」

「だからおれ、師匠の錬金術が好き。お店に品物を買いに来る人も、みんな便利だって喜んでくれるし。師匠の作業を見るのが好きなんだ。だからおれも師匠を手伝いたい。父さんと母さんを笑わせたみたいに、人に喜んでもらえる物を作る手伝いをしたいんだ」

「レム……」

「それにおれ、時々師匠が夜明けまで、おれの薬の研究してるの知ってるよ。それも手伝えるようになりたいよ。おれの薬なんだもの。自分で作り方を探せるようになりたいんだ」

「そうか……。そうだね」

「自分のための錬金なら、衛兵に逮捕されないんでしょ?」

「うん……、されないね」

 くすっと笑って、テュエンはレムファクタを抱き寄せた。すこし伸びはじめた髪を軽くかき混ぜて、すまなかったねと言った。

「わかったよ、レム。おまえがそんなに言うなら、錬金術を教えよう」

「ほんとに? やった! おれ、本当に本当の弟子?」

「そう。本当の一番弟子」

「やったやった、師匠、最高! ……あれ、師匠、泣いてるの?」

「泣いてないよ」

 鼻をすすってテュエンは立ちあがった。見上げようとするレムファクタの頭を抑えながらローブの端で目をぬぐい、さあ、と仕切りなおした。

「とにかく、まずは片付けだ。ええと――おかしいな、塵取りと小箒がないぞ」

「またですかあ?」

 うろうろとテュエンが部屋を探すあいだに、レムファクタが店のほうへ飛んでいく。

「ありましたよ、師匠! なんで海精樹の保管箱の中にあるんですか、ちゃんともとの場所に戻してってば!」

「……たしかに、弟子は必要みたいだね」

 頭を掻きつつテュエンが苦笑すると、聞きつけた一番弟子は鼻の穴を広げてふんぞりかえった。

「だから、ずうっと言ってたじゃん。気づくの遅いよ!」

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