来客



 確実に忘れられない夜となったあの日を見ていただろう桜たちも、すっかり緑一色になった。それはそれで、新たな気持ちにもなるし、前へ向かって、ぼくも変わらなきゃいけないのかなと、思ってしまう。

 ゴールデンウィークも終わってしまった。これからやってくるのは中間考査だ。

 勇気くんの野球部も、来週からのテストに備え、活動停止期間へと入っていた。

 テストはユーウツだけど、二人きりの時間を多く持てるから、悪いばかりじゃない。塾へ行く計画を、夏休みには立てているし、勉強も頑張らないとなんだ。


「へえ。豪さん、免許取ったんだ」


 久しぶりに、そろって早い時間の帰路となった。

 ぼくと勇気くんは話をしながら、国道を横断し、公園脇の小路へと続く歩道をゆく。


「時間がないから、短期集中だって。ぼく、自動車学校って、一ヶ月も二ヶ月もいくイメージだったんだけど、どっか……どこって言ってたかな。なんか、合宿して取るんだって」

「おれも聞いたことある。そういうやつ。でも、相当なドライビングセンスがないと、最後の試験は、なかなかクリアできないらしいよ。やっぱ、あの人、そういうとこ器用なんだよな」

「うん。でね、なんでか、ぼくを助手席に乗せたがるんだ。最近は、ちょっとした買物でも車使うから、一清さんに怒られてる」


 勇気くんも苦笑いをしている。そして、ぱっとぼくを見た。


「てか、もう買ったの? 車」


 ぼくは慌てて手を振った。


「ううん。さすがにそれは。善之さんのか、広美さんの軽、借りてる」


 納得したように、勇気くんは何度か頷いた。それから、あっと、小さく声を上げた。


「そうだ。おれさ、このあいだ、おしゃれな喫茶店を見つけたんだ」

「喫茶店?」


 いままで、勇気くんの口から、「喫茶店」なんて言葉を聞いたことがなくて、ぼくは目を丸くした。


「まあ、ほんとのとこ、お父さんに連れてってもらったんだけどさ」


 坊主頭を掻いている。


「人夢が好きそうな雰囲気があったから、今度一緒に行かねえかなと思って」

「うん。いいよ。行ってみたい」


 そう返してから浮かんだのは、アーケード街にある喫茶店だった。前に、ゆかりさんと入って、それから、一人でも何度か行った。

 勇気くんが言ったお店が、そこなのかなと思ったけど、違うところなんだと、すぐにわかった。アーケード街の喫茶店は話したことがある。


「そのお店、どこら辺にあるの?」


 勇気くんはまた頭を掻いて、もしかしたら、と前置きした。


「人夢、知ってるかも」

「え、アーケード街のとこじゃないよね」

「違う、違う」


 だよね。と、ぼくは頷いた。


「川の向こうに霊園あるだろ。そこの近く。知る人ぞ知る、名店らしいんだ」


 ぼくは、ちょっとどきっとしてから、そんな、「知る人ぞ知る名店な喫茶店」があったかなと、巡らせた。


「おれ、ケーキとかあんま食わねえだろ。でも、フロマージュってやつ、あんじゃん」

「うん、チーズだね」

「そのケーキが美味かった」


 ふうんと返事をしつつ、ぼくは、その喫茶店のことよりも、勇気くんはチーズ系ならイケるんだと考えていた。

 すると、いきなり腕を引かれた。

 気づくと、分かれ道の前の、いつものスポットにさしかかっていた。きょろきょろしながら、勇気くんは奥へと進んだ。

 一瞬だけ、なにも聞こえなくなる。

 唇を伝う感触が、回を重ねるごとに強く、熱くなるのを感じる。それが中心へも集まる前に散らし、もとの道へと戻る背中を追った。





 勇気くんと別れて、我が家の前まで着くと、ガレージのほうから善之さんの話し声が聞こえた。広美さんもいる。

 タバコの匂いもした。ぼくは、「ただいま」の声がけは遠慮して、玄関の戸を開けた。

 その途端、廊下から鋭い声がした。お兄ちゃんだ。それに被せるような女の人の声もあった。

 靴を脱いで顔を上げれば、ぼくに背を向けているお兄ちゃんと、にっこり笑顔のゆかりさんが奥にいた。和室の雪見障子のところだ。

 どことなく不穏さがある背中とか、ゆかりさんがどうしてここにいるんだろうとか。ぼくがいろいろ考えているうちに、お兄ちゃんは振り返ることなく、二階へと上がっていった。


「人夢くん。おかえり」


 アイボリーのワンピースを揺らし、ゆかりさんは歩み寄ってきた。

 ぼくも、ゆっくりと廊下を進む。


「ただいま……です」

「おじゃましててごめんね」


 ゆかりさんは、ぼくを覗き込むように目を動かした。それから、玄関を指さし、ちらっと後ろを見た。

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