コロがかわいそうだよ

「コロがかわいそうだよ」



 ダイニングテーブルに絵本を広げていた未来さまはまるでおとなみたいに、いかにも自分はわかっているといったふうに、どこか神妙に言いました。子どもはおとなのミニチュアなのだなと思わせるほどにおとなをうまく再現しておりました。


 いまダイニングルームにいるのは、未来さまとわたくしとコロ。コロは相変わらずランニングマシンをやらせています。本日はあと四十分ぶん。四日めです。すでに午後三時になろうとしてますからきょうもずいぶん走っております。疲労も蓄積されているはず。七月ともなれば暑いですので冷房をガンガン効かせておりますが、コロの身体は赤く火照っておりました。こちらに身体の後ろが向くようにしている。小さな尻が揺れる揺れる。


 未来さまはわたくしが無視でもしたと思ったのか、わずか声を大きくして主張します。


「ねえ、飯野おばさん、コロがかわいそうだよ。歩かせすぎだよ。コロ、いつも、夜すっごくぐったりしてるよ」

「……コロはあれがお仕事なのですよ」



 わたくしはコロの小さな尻ばかり見てる。



「でもコロすごく疲れてるみたい」

「そうですねえ。疲れてはいるでしょうねえ」


 そのようになるように、絶妙に五歳児の体力やら適切な運動の負荷やら算出しているのですからね。


「なんでコロはずっと歩かなきゃいけないの?」

「犬ですからねえ。四つ足で歩くことを覚えさせないとなのですよ」


 尻の揺れるバランスが一定でなくなる。がくんと。ああ、もうすぐだったのにねえ。ダイニングテーブルに置いたデジタルタイマーを見れば十八分台前半です。もたないでしょうね。ああ、ほんとうにねえ、もうすぐだったのにねえ。



 呼吸音が大きく激しくなる。



 がっくん、と大きくその身体が崩れて、ヂリヂリヂリリン、と鈴が耳障りな音で鳴りました。リードが伸びている。コロが小さく呻いている。両手をピンと伸ばしてコンベアにべちゃっとうつぶせになっている、ほんとうになんど見ても車に轢かれた蛙のごとしだ。わたくしはパタンと書物を閉じて迅速にランニングマシンを止めてやりました。



 首輪が苦しくないようにだけ気をつけて首まわりを直してやりながら、わたくしははるか上の目線からコロに残酷な結果を告げる。



「十八分二十九秒でした」



 コンベアの上でコロは横向きになり、犬らしく両手両足を無造作に投げ出している。犬がくつろぐときのごとし動作でまあなかなか悪くもない。コロはいまも激しく大きく呼吸している。わたくしをとても暗い瞳でぎらぎらと見つめている。


 すさまじい顔をするのですよ、この子。ほんとうに。ぼさぼさの前髪からでもちゃんと認識できるほど目立つ、いまにも殺したいといった顔。じっさいいままで噛みついてもこないことがふしぎですが、そこは賢いこの子のことです、そんなことをしたら次はいよいよ口の自由でさえも奪われると予想がついているのかもしれませんね。ただ、ぎらぎら光る眼、ただひたすらにわたくしを地獄の鬼として恨み憎みいずれかならず殺すとの決心をつけている最中であるごとしこの表情は、ああ、ほんらい子どもがしてはいけないたぐいのそれなのですよ。



 殺す、殺す、ぜったい殺すと言いたいのでしょう。しかしそれはできぬ。そんなことを言ったらむしろ自分自身が殺されると、この子は賢いゆえにわかってしまう、――哀れ。



「それではいまのは、なしね。きょうはあと四十分……」

「ねえ、ねえ、待ってよ飯野おばさん」


 未来さまはするりとダイニングチェアから降りて、わたくしの割烹着の裾をちょいちょいと引っ張りました。こちらは、心底心配でもしているかのような顔をしております。


「コロ、休ませてあげよ? だってぜったい疲れてるもん、これ」

「いえしかし、これは決まりでもありましてね」



 言いかけてわたくしは、はっ、となりました。



 ……いえ。違う。違うだろうが、私。いまここでルール通り杓子定規にコロに歩かせては、それこそ犬としての教育に必要不可欠な要素のひとつの、理不尽さ、それがだんだん薄れていってしまう。じっさいコロはわたくしの恣意的な指示はもう存在するものとして受け入れたようでした。イレギュラーも法則のうちと理解する。ほんとうに呑み込みの早い子です、……犬にするには惜しいくらい。


 だから、そんな次元の話ではなく……。

 主人が、休めと言ったら、休む。



 ……そうか。それを体感させる絶好のチャンス、というわけか……。



 コロはたいそう恨めし気にわたくしたちふたりを見上げております。



「……しかし。お坊ちゃまがそうおっしゃるのであれば。コロ!」

「……わう」

「おまえのご主人さまが休めと言ってくださったので、休んでよろしい。ご主人さまによくよく感謝するのですよ」



 コロは信じられないといった感じで勢いよく未来さまを見上げました。



「だって、疲れたでしょ? ねっ、コロ。お休みしよ? 僕が絵本読んであげる。水も飲ませてあげるよ」



 コロは未来さまをじいっと強く見上げている。未来さまはしゃがみ込んで、ランニングマシンにつながるコロのリードを首輪から外してやろうとしました。たどたどしい手つきでしたがどうにか、外せた。そのままコロの頭をゆっくり、ゆっくりと撫でました。



「犬って、大変なんだね……コロも大変だねー……」



 無邪気におっしゃる未来さま。コロの目からまたしても、大粒の涙が、落ちます。



「……うぇ……う、あぅ、ううぅ……ううっ……」



 なにかをとても言いたそうだが、犬の鳴き声のごとし声以上のことはもうなにも言わなくなっている。言葉をしゃべることは固く禁じている。教育は行き届いているようです。


 ……野暮と思いつつわたくしは一点だけ言うことにしました、これも教育ですから。コロだけではなく、未来さまにとっても。


「コロ。犬のありがとうはどうやってやるんでしたっけ?」



 コロはこくんと大きくうなずきました。まあこれは人間の動作だが。いまはとりあえずよいだろう。



 そしてコロは身を乗り出して舌を突き出して未来さまの頬など一生懸命舐めようとする。必死の形相です。これをしないと死ぬのだというごとく。……まあじっさい究極的にはそうなのですけど。



 未来さまだけがこの場で無邪気で、よーしよし、あははくすぐったいよコロ、などと、コロがほんとうに種としての犬であるのならばなんら違和感のない微笑ましい反応を、展開しておりました。

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