1章 不穏な噂 その2

 アーチ型の天井から光の入る回廊を通過して、二人はシャルロットの部屋に到着した。


 壁にはタペストリーや王家の肖像画が飾られ、その中央に置かれた天蓋付きのベッドにシャルロットは仰向けに寝転んだ。支柱には豪華な彫刻が施されている。


 ベッドサイドに腰を下ろしたアンヌは、光を放つシャルロットのブロンドの髪を指ですいた。こうしてアンヌに愛撫されるのが、シャルロットは好きだった。


「妾は結婚せずとも、このままで充分幸せなんじゃがな。むしろ、このままでいたいのじゃ」


 シャルロットは、アンヌの整った顔をうっとりと見上げて呟いた。


「私も同じ気持ちですわ。ですが、子を産み育てるのも、皇族の務めです」


 シャルロットは果実のように潤った唇を窄めて首を捻る。


「シュルーズメア王の、悪い噂とやらの信憑性はいかほどなのかの? 確か先王は獅子王と呼ばれた英雄じゃ。簒奪したのだとすれば酷い男じゃぞ」


「宮廷の噂は、ただ尾ひれがつくだけとは限りませんわ」


「どういうことじゃ?」


 シャルロットははっと気がついてベッドに座り直すと、アンヌの長いまつげの奥を覗き込んだ。ブルーの瞳にシャルロットが映り込む。


「誰かが、意図的に王の悪い噂を流している、ということか?」


 満足そうに微笑んだアンヌは、シャルロットの頬に口付けた。


「詳しい者に確認されてみては?」


 シャルロットは小首を傾げた。瞳と同じ色のサファイアのピアスが揺れて、蝋燭の光に煌く。


「誰のことじゃ?」


 アンヌはニッコリと微笑む。


「シャルロット様の、唯一の騎士様ですわ」


 ※ ※ ※


 ルゼリエール宮の敷地の一角で、皇帝近衛騎兵連隊の訓練が行われていた。


「構え! 駆け足! 進め!」


 白い徽章のついた青い制服に身を包んだ数百の騎兵が隊列をなし、将軍の号令に合わせて人馬一体となって行進している。兵たちの掛け声と大地を蹴る力強い馬の蹄の音が鳴り響いていた。


 そこに、場違いな声が混ざり始める。


「マルクー! マルクマルクマルクーー!」


 この部隊で、その声の主が分からない者はいない。


「止め!」


 将軍は訓練を中断して、先頭の列にいるマルクに憐れむような眼差しを向けた。


「王女殿下がお呼びだ」


「……失礼いたします、閣下」


 眉間にしわを深く刻みながらマルクは一礼をして、周囲にも声をかけながら列を抜け出した。


「僕も、失礼しますっ」


 最後尾に整列していた、マルクの従卒であるピエール・ブローもそれに従った。彼は正式な隊員ではないので近衛隊の制服を着ていなかったが、リュゼール家の口利きで訓練に参加していた。


「お前は来なくていい」


「いいえ、マルク様と僕は一心同体ですからっ」


「……」


 真顔のピエールを見て、マルクは軽く肩をすくめた。


 シャルロット、アンヌ、マルク、ピエールの四人は、庭師たちによって数万種類の花々で彩られた、大庭園の一角にある噴水に移動した。周囲には甘い花の香りが漂っている。


 シャルロットは噴水の脇に腰掛け、アンヌもその隣に座った。マルクは二人の正面に立つ。特別背筋を伸ばそう意識せずとも、腹筋と背筋のバランスがとれた程よい筋肉が、自然と垂直に立たせる。マルクの隣に並んだピエールも鍛えてはいるものの、マルクと並ぶと華奢に見えた。


「訓練中は邪魔をしてくれるなという俺のささやかな願いを、最近はやっと理解してくれたものと思っていたんだがな」


 マルクは腕を組んでシャルロットを見下ろした。上がり気味の整った眉の下の切れ長の瞳は高い鼻梁の影が落ち、威圧感が増している。ヴァローズ帝国広しといえども、シャルロットにこのような不遜な態度をとる者は他にいない。


「相変わらず無礼な奴じゃ。妾と会えて光栄だとは言えんのか」


「お前には、一生分の気を使い切った」


 マルクは制帽をはずして、ダークブラウンの短髪をかき上げた。その様子をシャルロットはうっとりと見上げている。


「口も態度も悪いが、やはり美しいのう」


「……」


 マルクはうんざりとした表情で固まった。


「用があるなら早く言え」


「マルクは、今のシュルーズメア王を知っておるか?」


「ウォルター一世陛下か」


 脈絡もなく飛び出した名に、マルクは訝しげに眉をひそめた。しかし次の瞬間には合点がいったように顔を上げる。


「まさか、ウォルター陛下に決まったのか」


「結婚相手なら、まだ決まっておらん。今までの候補者に、シュルーズメアの王が抜けていたのじゃ」


「抜けていたのではなく、お前が陛下の眼中になかっただけだろう」


「母上が、あえて連絡をしていなかったのじゃ」


 シャルロットは口をすぼめた。


 皇族であるシャルロットへのマルクの発言は不敬だが、シャルロットは他人に対しても自分に対しても大らかだった。


「そこでな、シュルーズメア王の人となりを聞きに来たのじゃ」


 マルクは持っている帽子を再び被った。


「俺の知る限り、この大陸で二・三を争う素晴らしい王だ」


「一位はもちろん、我国のジョアシャン陛下ですね」


 ピエールが付け加える。


「王位を簒奪したのでは?」


「まさか。そんな古いホラ話をどこから?」


「母上じゃ」


「……」


 マルクは人差し指で、組んだ腕を叩いた。


「陛下が即位された二年前の噂なら聞いている。代々世襲で王位を継承する国で、継承権第一位の嫡子をさし置いて、成り上がり軍人が禅譲を受けたと、当時は話題になったからな。陰謀説やら暗殺説やらと話が膨らんで、時間を持てあますご婦人方に面白がられていた」


「楽しめる話題が出ると、噂なんて次に移って忘れ去られるものですわ。二年も前の話なら欠片も残っていないはず。それがこのところ、やはりあれは簒奪だった、無能で政治が回っていないと、シュルーズメア王の話題が再浮上していますのよ」


「なぜ今更」


「あ、あの」


 ピエールがソワソワと上目使いでマルクを見て、遠慮がちに口を挟んだ。


「確認ですけど、シュルーズメア王国って、二年前まで行っていた隣国のことで、合ってます、よね?」


 マルクは無言でピエールの頬を引っ張った。


「イタタ! 痛い、痛いですマルク様~!」


「遠征に無理矢理ついて来たくせに、シュルーズメアを忘れているとは情けない」


「うえーん、すみませんっ」


 ピエールの母はマルクの屋敷に住み込みで働く使用人で、ピエールはマルクの屋敷で生まれた。父親が戦争で殉職したこともあり、ピエールも軍人になるのが夢だった。幼少の頃から近衛に混ざって訓練している四つ上のマルクに憧れ、従卒になったのだった。

マルクはピエールに終日つきまとわれ、シャルロットに呼び出されては相手をさせられ、苦労人だと言わざるを得ない。懐かれてしまうのは、結局のところ面倒見がいいのである。


「シュルーズメア王国は、帝国と山を挟んだ隣の位置にある。今は落ち着いているが、二年前までは連合軍として共に戦っていた、友好国だ」


 元々鋭い目付きのマルクが睨むと、ピエールはその迫力に思わずのけ反った。


「ギルフォード様がいらっしゃる国ですよね、あはは」


「ギルフォードとは、誰じゃ?」


 浮いた足をブラブラとさせながら、シャルロットは訪ねた。


「シュルーズメアで親衛隊をしている俺の従兄だ。ウォルター陛下に随分惚れ込んでいる」


「人望があるのじゃな」


「ああ。俺は二年前、前線で指揮をとるウォルター陛下を見たことがある。即位する前から、国民的な英雄だった」


「あの戦か……」


 シャルロットは表情を曇らせて小さく呟いた。

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