記憶の無い男

もりくぼの小隊

さ迷う男


 1972年――――9月22日


 男は数日前の新聞を広げる。阪神甲子園球場のアルプススタンドを爆破予告する記事が載っている。その日は阪神―巨人戦があり、12分間試合が中断されたらしい。が、男にとってはこんな記事は興味の無い事だ。なぜ新聞を読んだのか。男にはまるでわからない。新聞をクシャクシャにし路上へと捨てて足下をよろけさせながら歩き始めた。男本人は気づいてもいないが彼の体臭は何日も風呂に入れずまるで食べ物が腐ったようなすえた臭いを辺りに撒き散らす。さ迷い歩くその姿は異様に映る事だろう。雨でも無いのに黒い雨合羽あまがっぱを素肌に着こみ同じ色の長靴を履く。どちらも穴が空いており下半身のねずみ色のニッカズボンも大きく穴が空き薄汚れている。どれも衣服の大きさはバラバラで男の持ち物では無いことがわかる。これは彼がどこかの土木作業現場のあばら家のような詰所つめしょから頂戴したものだ。もう、何日も前の事であるが、男の脳髄にそんな出来事なぞ記憶に無い。なにも覚えてはいない。ただ、下を向いてガタガタと震えながらどこに行くともわからず歩みを進める。







「ざけてんのかっ!」


 さ迷い続ける男の目深に被った雨合羽越しの耳に怒鳴り声が鼓膜を敏感に揺らし届く。生気無く横目を向けた。男のいる路地裏から車道越しの公園で彼とたいして変わらないみすぼらしい身形みなりではあるが体格だけは良い男達が同じくみすぼらしい身形の蹲る男を取り囲み何度も蹴りつけている姿が見えた。


「……」


 男はそんなものは見えないと目を反らした。弱い者が強い者に淘汰されるそんな馬鹿に当たり前な光景に誰が興味なぞ引かれるだろうか。


「……」


 だが、男の身体は公園へと向かっていた。正義感というものではない。ただ、蹲る男の手に持つ物が目に見えた。土に汚れた「コッペパン」だ。男の口は食べ物を求めている。空腹だ。ただ、あれが食べたいと身体が動いただけだ。自分はであるだろう。あのコッペパンを口にする身勝手な理由はある。




「あ、なんだてめーーヒェッッ!?」


 蹲っていた男は自分を殴り蹴り付けていた男達の意気がり脅す声から悲鳴のような情けない声に変わるのを聞いて傷だらけの顔を上げた。力ずくで大事な飯コッペパンを奪おうとしていた体格の良い男達が散り散りに逃げていく姿を呆け見送りながら顔を真上に見上げると汚れた雨合羽を目深に被ったひとりの男が息をあらげながらこちらを見おろしおり思わずビクリと身体を震わせた。

 その男の顔は蒼白く死人のようでその眼の血走りは異様だ。が、状況を考えるにこの男が自分を助けてくれたのは間違いないだろうと楽観的な解釈をしてよろけながら立ち上がった。


「すまねぇや。助かったよ」


 黄ばんだ歯を向けてヘコヘコと頭を下げて笑うと、蒼白い顔の男は目の前の彼の手を血走った目のまま掴む。その手の細さの割りには力は馬鹿に強く、氷でも当てられたかのようにその手は冷たい。黄ばんだ歯の男はあまりにも不気味な男の手を振りほどこうとするが放してはくれず思わずその手にしたコッペパンを地面に取りこぼすと血走った目はコッペパンへと向きその細っこい手は男の腕を放し地面に落ちたパンを転がるように掴み四つん這いになってパンを貪り始めた。


「あっ、俺の飯。いやいいよやるよっ。そんな腹減ってんならよっ」


 その獣のような様に退きながら黄ばんだ歯の男は声だけは強がり痛む手を撫でながらそこらの地面に腰をおろして不気味な男の食事を眺めた。


(ちきしょう、次のゴミ捨てまで飯はお預けか……)


 男は軽く舌を打って地面に転がった煙草の吸殻を口寂しく拾いあげた。火なぞは無いので煙を吸うことはできない。


「命あっての物種つってな」


 あのまま蹴り殴られていれば殺されていたかもしれない。それよりも幾分かはましだろうと前向きに思考した。深くは考えないそれがこの男の短所でもあり長所でもあろう。結局必死こいて守ったコッペパンは食べられてしまったのだが。


「あん?」


 男の頭上に影ができる。あの血走った目を向けてパンくずと涎だらけの蒼白い顔でまたこちらを見おろしている。


「なんだよ、おかわりっての? 冗談じゃねえよそいつで終わりだ終わり。俺だって腹減ってんだっての吸殻シケモクひとつだってやるもんかよ」


 男は反射的に手にした吸殻を口に放り込んで噛み砕きあまりの不味さに吐き出し咳き込んだ。


「ああっ~っ、げふぉっぁ……マジィ。やっぱり食えるもんじゃねぇわ。おいあんた、これ以上むさい男同士が顔をつけ会わしてもせんねえよ。おとなしくお互い飯を探しに行った方がましってもんだわ。ま、助けてくれたのは本当にありがてぇよ改めてあんがと。縁があったらまた会おうぜ」


 黄ばんだ歯の男は口に残る吸殻を手でこ削ぎ落としながら蒼白い顔の男に背を向けてヒラヒラともう片方の手をあげて別れを告げながら空腹を凌ぐために歩き始めた。


「……ィ」


 蒼白い顔の男はその背を息を荒くジッと見つめ歯をガチガチと鳴らしながらその細っこい腕を背に伸ばし……止めた。

 雨合羽越しに鼓膜を激しく揺れる。小さな小さなその音が聞こえる。それはどこかから聞こえるテレビかラジオかわからないノイズの激しいとあるニュースを伝えるものであった。


 ーーーー――――未明――――住宅にて――――遺体は身元不明の男性数名――――遺体はどれも変色し死後――――ーーーー


「ィーー」


 このニュースに男は血走った目を陸に打ち上げられた深海魚のように剥き雨合羽越しの頭に爪を立ててバリバリと掻きむしりながらもうひとつ小さくも歪な音を聞き取っていた。


ヒューヒューヒュッヒュッ。


「ィイイィイィィッッ!!?」


 男は耳をつんざかんばかりの甲高い奇声を上げた。


「な、なんだってんだよ!?」


 突然の奇声に黄ばんだ歯の男は驚き振り向くが、そこにもう蒼白い顔の男の姿は無かった。その顔が酷く脅えていたものである事を男は知ることも無い。




 先程の男をに、気配に、気づく事は無く。その微細な気配も既にこの場には無し。



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