大江戸コボルト【WEB版】

風楼

第1話 太平の江戸の世


 朝、陽の光を感じて目覚めて、目をこすり顔をこすったなら、寝惚けた頭と体を無理矢理に起こしての着替えだ。

 

 寝間着を脱ぎ捨て、鍛錬用の赤色の長襦袢に袖を通し、しっかりと腰紐を縛り、足袋は……まぁ、履かなくても良いだろう。

 

 枕元の愛刀をわっしと掴み、腰紐に差したなら蚊帳の外に出て寝室の外に出て、縁側を通って井戸へと向かう。

 井戸の側に置いてある桶へと水を汲み、顔を洗い、髭をそって、適当に伸ばした髪をただ縛っただけのちょんまげを整える。


 そうして人前に出てもまぁまぁ問題無いであろう格好になったなら、歯を磨いて口を濯いで厠を済ませてから、庭の向こうにある道場へと向かう。


 この太平の世に鍛錬をしているなどというと、笑う人も多いがそれでも俺は御庭番だ、毎朝の鍛錬を欠かす訳にはいかないだろう。


「何を言っているのですか、そんなのただの建前でしょう?

 狼月ろうがさんは体を動かすことと、刀を振るうことが大好きで仕方ないだけではないですか」


 いつの間にそこに居たのか、足元から親友の声が聞こえてくる。


「なんだなんだ、いきなり現れて人の心の内を読むんじゃねぇよ」


「……いや、普通に声に出していましたよ?

 朝から一人で何をやっているのだろうと、正直ちょっと引きました」


「……そうか」


 親友とそんな言葉を交わしながら道場へと向かい、親友が道場の隅に座って本を読み始める姿を眺めながら、腕を振って脚を振って首を振って……体を温め柔らかくし、鍛錬の為の準備を整える。


 布団の中で硬くなっていた体を十分に解したなら、朝餉が出来上がるまでの間を鍛錬に費やす。


 刀を振り、何十何百と振り、重しを持ち上げ、両足を交互に振り上げ、道場の梁で懸垂をし……今日は体調が良いので道場内を駆けて回る。


 そうやって朝餉が出来たとの報せが届くまで鍛錬を続けるのがいつものこと……だったのだが、今日はなんとも珍しいことに道場に用など無いであろう妹、十歳になるリンが顔を見せる。


「お兄ちゃん! ぽっちゃん!

 宿題するのを忘れちゃってたから手伝って……!!」


 薄青色の雪華模様の着物に身を包み、腰まである三編みを揺らしながらそう言ってくる妹に、俺が呆れ顔を返していると、ぽっちゃんと呼ばれた親友が、ぽふぽふと床を叩いて、こちらに来いと無言で示す。


 そうして妹が抱いていた宿題帳を見やった親友は、


「歴史ですか」


 と、一言呟いてから宿題帳を受け取って開き、宿題の範囲を調べ始める。


「……リンさん、アナタも江戸に住まう身なのですから、名君綱吉公のことはそらんじるくらいでないといけませんよ。

 今の真なる太平の世は、全て綱吉公の功績と言っても良い訳で―――」


 どうやらリンに出された宿題というのは第五代将軍、徳川綱吉公について調べろだとか、書き記せだとかいう、そういう内容であったようだ。


 綱吉公を好いているというか、尊敬しているというか、愛していると言っても過言でない、親友にその宿題を手伝わせようとするとは……我が妹ながらなんとも無謀というか、考えなしにも程があるぞ、と呆れ果ててしまう。


「良いですか、戦国の気風を嫌い、学問と徳を重んじた五代将軍綱吉公は―――。

 人を愛し、人以外の生命全てを愛し―――。

 そうやって綱吉公は天和の治と称えられる善政を―――」


 ああ、始まった。始まってしまった。

 アイツの綱吉公語りは一度始まると、地震や雷でも止めることが出来ねぇんだ。


 明らかに宿題の範囲を超えているだろうその語りに、リンもただただ呆然としてしまっている。


「―――そんなある日のこと、江戸城下の上空が突如ひび割れて……そこから犬の姿をした異界の住人、コボルトが降って来たのです。

 まさしく犬が二本脚で立ったような、そんな姿で粗末な麻服を身につけていたコボルト達は、突然のことに呆然とし、混乱してしまっていました。

 そしてそれは江戸の庶民達も同様で、突然目の前に現れた物の怪同然の姿をしたコボルト達を前にして呆然とし、唖然とし……そうして大混乱へと陥ったのです。

 中には刀を持ち出して斬りかかろうとする者までいましたが、そこで人々は思い出したのです……綱吉公が犬を深く愛していたことを!!」


 説明している内に感極まって来たのか、その腕を振り上げて大声を張り上げる親友。


 リンはそんな親友の大演説をうまく聞き流しながら、親友の手から取り戻した宿題帳に無心無言で鉛筆を走らせている。


「この犬に似た何かを害してしまったら、将軍の怒りに触れてしまうかもしれない!

 そう考えた庶民達は、怯えて縮こまるコボルト達に対し、何もしないで様子を見ようという判断を下したのです。

 怯えるコボルト達は訳が分からないまま縮こまり続けて、江戸の庶民達は様子を見続けて……。

 そうこうしているうちに江戸城の綱吉公の下に、コボルト達の話が届けられ……仔細を確認した綱吉公は『なんと愛い姿か』と喜び、ただちにコボルト達を保護せよとの命を発しました!!」


 くわりと目を見開き、その手についた肉球を高く掲げて、茶色い毛に覆われた尻尾を振り回しながら親友は尚も熱く語り続ける。


「そうしてコボルト達は幕府による手厚い保護を受けることになり、コボルト用の家屋敷が用意されて……そこでの生活が始まり、その中でコボルト達についての調べが進み、当初はわふわふと吠えているだけだと思われたコボルト達が、何らかの言語を発していることが判明したのです!

 そのことを知った綱吉公から直ちにその言語の解読をせよとの命が発せられ……解読が進み、言葉が通じるようになり、綱吉公とコボルト達との交流が盛んに行われるようになり……そうやって僕達コボルトは、江戸の民として受け入れられることになったのですよ! ああ、流石は名君綱吉公です!!」


 もはや綱吉公の話をしているというよりも、コボルトの話をしているだけになっているが……もう話も終盤に差し掛かっていることだし、好きにさせておこう。


「それから時が流れてコボルト達が江戸に馴染み、江戸がコボルト達に馴染んだ頃、再び江戸城下上空がひび割れました。

 二度目のひびからはエルフ達が現れて……それを見た庶民達は「なんだまたか」とコボルト達の時と同様の対応をし、三度目のドワーフが現れた際にも同様の対応をしました。

 突然こちらにやってくることになったエルフやドワーフ達は、当然のように警戒心を顕にしていましたが、異邦人を前にして全くの敵意を見せず、それどころか自分達の言葉を口にしながら、友好と交流を求めて来る人々を前にして……次第に警戒を解いていきました。

 あちらの世界ではあまり良い扱いをされていなかったコボルト達が、当たり前のように人々の隣にあり、人々と馴染みきっていたこともその警戒心を解くのに一役買ったとされています。

 そうしてエルフとドワーフという新たな友人を得た江戸の世は、彼らの技術と知識を吸収することで、異界文明開化を迎えることになったのですよ!!!」


 両手を振り上げて、尻尾をぴんと力強く立ててそう叫んだ親友……浅葱色の着流しを身にまとった茶色コボルトのポチに俺は、


「リンならもう宿題を終わらせて、母屋の方に行っちまったぞ」


 と、そんな声をかけてやるのだった。


 



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