第5節 8番目の扉

 次に出た場所は、野外だった。


 周りは蔦と木の根が絡み合っている樹木に囲まれている。

 空は見えない。


 普通の森でないことは明らかだった。

 獣の声はおろか、虫の鳴き声や風で葉がこすれる音だって聞こえない。

 完全な無音だった。


 そして、前方には葉冠をかぶった女性がいた。


 ひと目見ただけで、彼女はただの人ではないとリトには解る。


 足元にまで届くような長さの、深緑色の波打つ豊かな髪。

 その身を包むのは、翠と真白で織りなされた絹のように淡く光る衣。

 瞳のない翡翠の双眸をまっすぐリトに向け、彼女は穏やかに微笑んでいる。


 おそらく、記憶の中の自分も彼女を見つめていたのだろう。

 ぽつりと言った。


「世界樹、ユグドラシル」


 その名を聞いた途端、リトは驚愕した。


(大樹の精霊王——!?)


 大幅に記憶が欠落している状態とはいえど、魔法や精霊の知識は失われなかったらしい。


 ユグドラシルは記憶と浄化、そして再生を象徴する精霊王だ。

 なんだって過去の自分は彼女のもとを訪れているんだろう。


 普通の手段でユグドラシルに会うことなど、まず不可能だ。


 特殊な鍵がまず必要で、それは世界のいくつかの場所にある聖域で保管されている。


 しかし聖域に踏み込むことさえ、常人には不可能に近い。

 そこには獰猛な守護獣が常に見張っていて、無理やりにでも奪おうものなら相手は遠慮なく襲ってくる。


 だからただの魔術師にすぎない自分が、大樹の精霊王と会いまみえることさえ、無理な話だ。


 一体、どんな裏ワザを使って、彼女のもとに訪れることができたのだろう。


 信じられない気持ちで見つめていると、ユグドラシルはゆったりとした動作で頷いた。


『私が、ええ。来訪者は、久し振りですわ、実に。望みを、願いに、来ましたの?』


 ゆるりと首を傾げる自分に、強い調子の声が答える。


「命の織姫、ユグドラシルよ。俺の妻を返してくれ」


 決意の込められた声だった。途端に胸のあたりが苦しくなり、せつない気持ちになる。


 妻というと、先ほど金色の扉を開けた時に見た記憶——金髪の女性のことだろうか。

 彼女を失った自分は悲しみの精霊バンシーに取り憑かれたばかりか、さらには彼女を蘇らせようとするまでに、自分を追い詰めてしまったのだろうか。


 数秒の沈黙の後、大樹の精霊王は翡翠の両眼を瞬かせた。

 木の枝に似た両手を胸の前に掲げ、目を伏せて口を開く。


『宜しくて、願い、貴方のそれは? 願い星を、ここに』


 呼びかけに呼応するように、輝きをもつ星がユグドラシルの前に現れる。

 一見すると光精ウィスプに似ていたが、波打つ魔力は下位精霊を遥かに超えている。

 ラヴェール、とどこからかつぶやく声が聞こえた。 

 それは奇跡を司る上位精霊の名称だった。


 どうやら、記憶の中の自分は本気で失った妻を生き返らせようとしているらしい。


『闇の君。ですが、貴方にある、迷いは如何に?』


 星をいだくユグドラシルは、ゆっくりとまぶたを上げてリトを見る。

 すぐに答えを返すだろうと思っていたが、過去の自分はすぐに視線を逸らしてしまった。


「俺は」


 最初と違い、リトの声は何かをためらっているようだった。もしかして迷っているのだろうか。


 ここにたどり着くまで、自分がどんな手段を取ったのかまでは分からない。けれど、悪いことに手を染めたのは確かだろう。

 聖域にある鍵だって、盗み出さなければ精霊王に会うことなんてできない。

 これまで見てきた記憶から考えても、過去の自分が正当な手段を使ったとは考えにくい。


 きっと、たくさんの人を傷つけて巻き込んだ。

 なのにこの後に及んで、自分は迷っているというのか。


『解りませんの? 望み、貴方の本当は』


 優しい問いかけに対しても、沈黙を返していた。いや、なにも返せないでいるのか。


 このやり取りはいつまで続くのか、そう思った時。

 視線がぐるりと巡り、傍にいたらしい少女が映し出された。


 彼女は人間族フェルヴァーだった。

 自分の右手を小さな手でつないでいる、オレンジ色のツインテールの少女。

 まだ子供で、年は十くらいだろうか。


「リトくん。願いを叶える覚悟はありますか?」

「覚悟……?」


 少女の問いに、オウム返しに聞き返す。

 大きな茜色の両目で、少女はまっすぐリトを見上げる。それは揺らぎのない、強い意思を思わせる瞳だった。


「はい。ワガママ通すって、そういうことです」


 少女がにこりと微笑む。

 簡単な言葉だったけれど、それは深い意味が込められているように感じた。

 記憶の中の自分も同じように感じたのか、一度目を閉じて考えたらしい。一瞬だけ闇が訪れる。


「ううん。きっと、俺にはないよ」


 直後、すぐに視界が開く。


『如何しますの? 闇の君』


 答えは決まったようだった。

 優しく問いかけるユグドラシルに、まっすぐに目を向ける。


「望みの撤回を、認めてもらえるか?」

『宜しくて? 致しませんの、後悔は』

「ああ、しない」


 そう言い切った自分の声ははっきりしていて、もう迷いはなかった。




 * * *




 休憩を挟まずに記憶をたどってきたせいか、頭がぼんやりする。


 紛れもない自分の人生、これまで歩んできた記憶を見ているはずなのに面白く感じた。

 決して善人とは言えないようなこともしてきた自分だけれど、まさか大樹の精霊王と会いまみえていたとは。

 さらに自分を想ってくれるたくさんの友人もいて、色々ありつつも案外しあわせな生活を送っていたのではないだろうか。


「ただ過去をたどっているだけなのに、客観的なのもおかしな話だな」


 次に現れたのは、染みひとつない白い扉だった。

 今まで色つきの扉だっただけに、違和感を覚える。


 一体、誰に関する記憶なのだろうか。


 これまでと同じように、ノブを回して押し開ける。

 足を踏み入れた途端、記憶の映像が飛び込んできた。

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