5章 かつて氷月と呼ばれた男

第1節 氷月来たる

 今日は朝から雨だった。


 鉛のような雲が降らせるしずくはぬるくて、まだやむ気配はない。


 傘をさして前をゆく長身の背中と、彼の傘の下に身を寄せて隣を歩く娘の姿を眺めながら、いっそこの雨に濡れながら歩きたいな、とロッシェは思う。


 そういえば初めて出会ったのも、こんな雨の中だった。


 彼はあの時ひどく怒っていて、死にかけていた自分に剣を突きつけて服従を迫った。

 決して優しい人物ではなかったし、清廉な生き方をしてきたようにも思えなかった。


 けれど、死にたくないと理由だけでなく彼を放っておけなかったのがなぜなのか、実は今でもよく解らない。


「パパ、……あのひとは、リトくんを追い掛けてくると思いますか?」


 前をゆく娘が、振り返って首を傾げた。

 心配そうに揺れる大きな瞳に見つめられ、自分に中でざわりと何かが蠢くのを感じる。


「ああ、来ると思うよ。折角ことが思い通りに運びそうになった矢先に、横から掻っ攫われたんだ。看過できない事態だろうね」


 ロッシェの返答に少女は黙って眉を寄せ、それから傍らの長身を見上げた。 


「セロアさんも、そう思いますか?」

「はい、私もロッシェさんと同意見ですよ」


 穏やかで平坦な声が、肯定を上書きする。

 少女は目を伏せ、しばらくした後で目を開き、もう一度父を振り返った。


「わたしは、城内に入らず見張りをしてます。あの人が来たら、追い返さなきゃ」

「怖くありませんか、ルベル」

「はい、怖くありません」


 教師と生徒か、それとも姫と執事か。

 妙な距離感のこの二人だが、親子ほどの年齢差を物ともせずに実は相思相愛中らしい。

 けれども、恋をしても乙女にはならないというか、勇ましさが削がれない娘に複雑な気分を覚えながら、ロッシェは小さく笑って言葉をかける。


「追い返せそうかい、ルベル」


 振り返り父を見て微笑む茜色の両眼は、得意げに輝いていた。


「はい。仮にもここはライヴァン国王の住むお城です。力ずくで来るようなら、わたしはゼオくんを喚びます!」


 昔から侮れないのは、その聡明さだ。

 まだ子どもだし施政者を目指しているわけでもないのに、彼女は駆け引きに使える材料をきちんと把握している。

 これは娘の師であるルウィーニの影響か、それとも無意識に自分が教え込んだのだろうか。


 いずれにしても、無謀なことはしないだろう。

 ルベルは中位精霊である灼虎のゼオとは親好が深いし、剣も魔法も使えないセロアや、魔法の発動にムラがある自分よりも、ずっと安定した戦力になる。


 ここはルベルに任せようと思い、そしてふと思い出して、口元を緩める。


 絶対の庇護対象だった娘の存在が、共助可能な仲間という位置づけに変わったのも、彼がきっかけだった。

 特に何かをしてくれたというわけではないものの、忘れられない大切な想い出の一つであるのは確かであって。


「……覚悟したまえよ」


 胸の内で蠢く闇が、つい、外へはみ出してしまった。

 怪訝そうに眉を寄せる娘には笑顔で誤魔化して、ロッシェは穏やかならざる心中を隠すために傘を目深に下げる。


 消されてしまったものは仕方ない。

 ルウィーニは魔術の天才だし、きっとありとあらゆる手段を駆使して呪いを覆すだろうから、心配はしていない。


 だが、もしも、自分の縄張りテリトリーであるこのライヴァン国内で、リトやルベル、国王その他の諸々に危害を加えようとするのなら——。


 その時は、容赦する理由もない。



 * * *



 王城の客間に入ると、彼は背筋を伸ばして大人しくソファに座っていた。

 じいっと見つめる黒い瞳と、長めの黒髪に縁取られた隙だらけの表情は、知った顔ではあるが別人にも思える変わりようだ。


 まるで、迷子の小ガラスのような。

 飛べるくせに逃げ方を知らず、拾われるままについてゆく、巣から落とされた雛鳥だ。


「やぁ、来てやったよルウィーニ」

「早かったじゃないか。では、早速任せるよ。俺は出来るだけ急いで、儀式の準備をしようと思う」


 リトと共に三人を出迎えた壮年の魔術師は、そう言いつつも皆にコーヒーを出してくれた。


 ロッシェはまっすぐリトに近づき、ソファに手をついて彼の顔を覗き込むように身を屈める。

 至近に顔を近づけられて戸惑ったのか、黒い瞳が緊張を映し揺らいだ。


「久し振りだね、リト君」


 出会った時から、なぜかずっと自分との関係ではいつも彼が優位だった。

 そういう記憶も真っ新になった今のリトに、自分という人間はどんな風に映っているのだろうか。


「おまえがロッシェ?」


 怯えてはいないものの、動揺しているらしい。

 なんとなく立場が逆転したような錯覚を覚えて、悪戯心に火がついた。


「どう思う?」


 人の悪い笑顔で問いを投げ返してやると、彼は戸惑うように瞬きをして、顔を俯かせる。


「よく解らない」


 それは、そうだろう。


 さらに畳み掛けてやろうと思ったが、背中に呆れたような視線を二人分も感じたのでやめておくことにする。

 これ以上虐めて逃げ出されでもしたら大変だ。


「人違いだったら大変だね。さて、代わるよルウィーニ」


 ルウィーニは腕を組んだまま睨んでいたが、あえて見ない振りして、立ち上がる。


 膝の上に置いた拳を握りしめているリトの手を掴み、引っ張って立ち上がらせた。

 怯えるようなすがるような双眸を見返し、ロッシェは笑う。


「リト君、僕と一緒に積もる話をしようか?」

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