第43話 あれ、もしかしたら山口さんだったんじゃないかな

 カナが生まれた年。それは、沙希さんがイチゴちゃんを生んだ年であり、共同事務所をはじめた年であった。

 ぼくはなにを血迷ったか、沙希さんがイチゴちゃんを生んで間もない、祥子がお腹を大きくして動けないという、この年の十月に個展を開いた。たしかに血迷っていたと自分でも思うんだけど、ぼくなりに理由があって、赤ちゃんが生まれる前に祥子と出会ってからプロポーズするまでの写真で個展を開いて一区切りとしたいと、新しい気持ちでぼくの赤ちゃんのいる世界を迎えたいと、そう思ったのだ。

 祥子の本の表紙になった記念すべき出会いの写真の別カットで個展は始まる。祥子が撮影に同行してくれた仕事のみで構成してある。終わりは、プロポーズをしたとき星空とダム湖を撮ったもので、車のボンネットにすわってキスしているシルエットが写りこんでいる。この一枚だけ、現像で全体をすこし藍色っぽく表現した。

 沙希さんが個展の手伝いをしてくれるというので、お願いした。仕事がはいってなくて、赤ちゃんと二人きりで留守番は寂しいのかもしれない。

 会場は、独立直前に個展を開催したときと同じ会場にした。こじんまりしていていいかと思った。でも、やっぱり写真雑誌のインフォメーションに案内を載せてしまった。

 気候は過ごしやすくてよかった。独立直前の個展は陽炎が立つほどの猛暑だった。

 昼休憩で沙希さんと赤ちゃんと一緒に懐かしのかつ丼を食べにでた。空は高く、晴れわたっていて、さわやかな風が吹いている。お昼寝日和だ。沙希さんは親子丼にして、ぼくはかつ丼を食べてやっぱり胃がもたれ気味になった。店をでると、かつ丼を食べて汗をかいた体に、風が気持ちよかった。

 ぼくは遠まわりだけどコンビニでコーヒーを買って戻ることにして、沙希さんには先にもどってもらうことにした。コンビニでは新作のお菓子をチェックし、沙希さんにグレープフルーツジュース、自分にコンビニでいれるコーヒーを買った。コーヒーは奮発して大きいサイズにした。この大きいサイズのカップが曲者で、油断するとカップのふたの内側にコーヒーがはねてきて、ふたにかけた指が熱くなる。あちちあちちなんていいながら、手を持ち替えたりグレープフルーツジュースで指を冷やしたりして持ち帰らなくてはならなかった。

 会場近くまでたどりついたとき、人とすれちがって焦ってしまった。コーヒーのカップにばかり気をとられていて、まわりが見えていなかった。

「あっちー」

 受付のテーブルまでガマンして運んだ手が限界を迎えた。手を振って冷ます。指先が赤くなっている。やけどまではしてないけど、ああ熱かった。アメリカなら訴訟ものかもしれない。

「ちょうどいま出ていっちゃったんだけど。あれ、もしかしたら山口さんだったんじゃないかな」

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