第37話 もしカナが今日死んでしまってたとしても、祥子は悪くないし、カナだって悪くない。

「そういえば、はじめてスイスきたとき、電車でおばあさんに話しかけられて、日本の風景を外国に紹介しろって言われたんだ。そのおかげで賞をもらえたようなものなんだけど、あのおばあさんはどっかでまた会わないかな。連絡先交換すればよかった。もう、顔も覚えてないや」

「アドレスも交換しないなんて、ドジだね。いまは名刺持ち歩いてるんでしょ?」

「もちろん。あれ?」

 財布の中を探したけど、名刺が見当たらなかった。切らしているらしい。

「あはは。名刺切らしてた」

「カナじゃないけど、カズキは世話の焼ける子ね」

「面目ない」

 毎回ぼくが出かけるときは、名刺もったか確認してくれることになった。


 おじいさんと再会を約してホテルにもどった。カナを寝かしつけて、祥子とぼくもベッドにはいろうとしていた。祥子はベッドの端にすわっている。

「今日はごめんなさい」

「なにが?」

「カナから目を離して、迷子にしてしまって」

「祥子は悪くないよ。誰も悪くない。子供が小さいときにはよくあることだよ、注意してたってほんの少しのあいだ目が離れてしまうことくらいあるものなんだし」

「でも、もしかしたらあのままカナが戻らないことだってありえた」

「それでもだよ。もしカナが今日死んでしまってたとしても、祥子は悪くないし、カナだって悪くない。ぼくたちは夫婦なんだよ。ふたりでカナを育てなくちゃいけない。祥子が悪かったら、ぼくも悪い。でもね」

 ぼくは祥子のとなりにすわって肩を抱いた。

「偶然なんだよ。本当に事故が起きてしまって子供が死んでしまう、そんな不幸な夫婦だっている。ぼくたちは、今回そんなことにはならなかった。でも、子供を死なせてしまう夫婦が悪くて、ぼくたちが悪くなかったってことじゃない。偶然、不幸が重なって子供が死んでしまったということなんだ。そのことで夫婦がうまくいかなくなったら、悲しいじゃない。死んでしまった子供にすまないと、ぼくは思う。だから、今回は運が良かったということをよろこべばいいんだよ。もし、これからできることがあれば、それをやればいい」

「うん。きみはすごいね」

「すごいかな。祥子にいってもらえると、自分がすごいって気分になれるよ」

「じゃあ、どんどんいっていかないとね」

「うん。よろしく」

 カナの人生が今日で終わらなくてよかった。

「カナはどんな人間になるかな」

「ちょっとかわったところがあるかも」

「ちょっとかわった人物になるかな」

「なるよ、きっと」

「そうだね。ちょっとかわったまま生きていけるように、ぼくたちが守ってあげなくちゃね」

「うん。イチゴちゃんが一緒だから助け合っていけるね」

「みんなでカナとイチゴちゃんを守っていこうね」

「もちろん」

「でも、カナのかわったところって、あの口調じゃない?あれって、祥子のお母さんから伝染したみたいだよ。ときどきだけど、お母さんカナみたいな口調になるよね」

「うちのお母さんが犯人か」

「カナのどこかにひっかかったんだろうね。明日はジュネーブでミカンちゃんと合流だっけ」

「その予定だよ。ちゃんと来るかあやしいところだけど」

 祥子の妹のミカンちゃんは大学四年生で、八月に公務員試験の合格通知を受け取っている。必修のセミナーを落としたら卒業できなくて就職もパーになってしまうというのに、長い夏休みを利用して海外旅行しているのだ。十月になればすぐに授業がはじまるはずなんだけど、帰国の予定も決めずにまだヨーロッパにいる。もう二箇月近くになると思う。

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