9−2「焼失劇場」

「まず、劇場に向かう前に、小菅くんの個人を特定できそうなものはすべてここにしまっておいて。名札や財布や…あと私用と社用のスマートフォンも。」


移動中の車を一旦止め、主任は頑丈そうなハザードボックスを出してくる。


「社用のスマホも?」尋ねる僕、「そう、スマホも。」と返す主任。


「事前情報として言っておくけれど、これから数日仕事をする劇場は清掃場所の中でもヤバイ部類に入るから常に専属のエージェント数人と撤去班が週ごとに交代しながら管理をしなければならない場所なの…そして。」


主任はそう言うとスッと自分の口元に指をさす。


「決して自分の名前を知られてはいけない…それだけは覚えておいて。」


(…なんで知られちゃダメなんだろう。)


僕は清掃モップで女子トイレの床の水を拭き取りながらそんなことを考えていた。主任が買い換えたという最新式の機械モップは吸水性抜群で床の水たまりはスイッチ一つでみるみるうちに消えていく。


ここで死んだ女優は生前舞台のいざこざに巻き込まれ自室の風呂場で入水自殺した後に縁あってこの劇場に来たというが…最近になって自殺理由を思い出したようで二度目の入水自殺でようやく永眠したのだそうだ。


(なんで舞台が嫌で自殺したのに、また劇場ここに来るのか…女優ってそんなものなのかな?)


トイレの中はどこもかしこも水浸しで、主任は女優が自殺した奥の清掃用具入れの深めの手洗いに手を突っ込むと「ちょっとここは午後にもつれ込むかもね」とぼやきながら排水溝に詰まっていた髪の塊をずるりと引き抜いて見せる。


主任の話では、この建物はもともと市が運営管理していた劇場であり市の財政が苦しくなったため指定管理者制度で民間委託をすることになった際、名乗りを上げたイベント関連会社こそが大賀見誠の経営する大賀見興行だったのだという。


「…で、そこから先は社長のワンマンプレイでね。自分が主催の劇団を立ちあげて格安で公演を行ったり、大規模な建物の改修工事を行ったり、市営の頃からの会員にタダ同然でチケットを配ったり…1年の間にあまりに金に頓着しない経営ぶりに委託していた市が危ぶみ始めた頃、大賀見が主催した劇団の公演中に大規模な建物火災が起きたの。」


昼休み、主任は市民劇場から少し離れたパン屋に車を停めて昼食を購入する。


買ったのはエージェント・カサンドラがオススメする食パンにカスタードクリームだけを挟んだシンプルなサンドイッチであり、近くの公園の端に車を止めると一緒に買ったひじきの惣菜パンとともに主任はパクつく。


「建物はあっという間に炎上して中に人も残っていたことから多数の死傷者を出したかに思われたんだけれど、翌日なぜか建物は再建していた。中の観客も劇団員も全員無事…一般的には建物火災は一時的なものであり被害は最小限であったと報告されているわ。まあ、ここをうちの会社が管理している時点で、すでにお察しの状態だったのだけれど。」


その言葉に助手席に座ったエージェント・カサンドラも干しぶどうの入ったレーズンクリームデニッシュを平らげて「あれはねえ」と言いながらお茶を飲む。


「…後で調べてわかったことだけど、大賀見は劇場を委託経営する直前まで、単身イギリスに渡ってオカルト研究していたんだ。そこで何を学んで実行しようとしていたのかはわからない。ただ、結果的に物理的に破壊することのできない建物の中で死んだ人間がうろつくような危ない場所になっちまったのは確かだよ。」


そうしてお茶を半分ほど飲むとカサンドラは大きなため息をついた。


「…こっちも、数年かかってようやく死者の規模を40人までに減らせたんだ。最初なんか生焼けの焼死体が場内をうろついていたんだからね…苦労したよ。」


「大変よねえー、少なすぎると大賀見が勧誘してくるし」と主任は相槌を打ちつつ、カサンドラに目配せする。


「…で、昼食時に話をするってことはうちの新人に念押しってこと?」


「ま、そういうことだね」とカサンドラはそういうと、僕の顔をじっと見る。


「いいか大賀見には気をつけな。劇場はあいつの縄張りでどこに耳があるかわかりゃあしない。もし場内でおかしなことがあったら、すぐにでも主任と私に連絡するんだよ。私も彼女と無線でなるべくやりとりするから、万一の時にはすぐに動けるように。」


そこに主任が「小菅くんなら大丈夫よ」と付け加える。


「うっかり撤去班3人の本名を言っちゃったジェームズとは違うから。」


それにカサンドラは「あー、アイツは出禁だね」と首を振る。


「…ともかく、自分の名前を知られることだけはあっちゃあならない。それに、他の社員の名前も聞くことがあったらすぐに知らせること。劇団員との接触や場内での会話にも注意をするんだよ…うっかりボロを出せば命はないからね。」


怖い顔で僕に忠告するカサンドラさん。

彼女の目はかなり充血していて現場がいかに大変かを物語っていた。


僕はハンバーグの惣菜パンの最後のひとかけらを食べながらコクコク頷く。


でも、まさか。その1時間後に忠告された場面にぶち当たるとは…

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