第5話 深淵、もしくは暗黒 2

 扉を開くとそこは自室から出た自宅の廊下だった。

現実に帰るとは、こちらのことだったのか?


 驚きと喜びで踊りだしそうになったところ、ぎゅっと右手が強く握られたのを感じた。

見ると右手には相変わらずサリィの手が握られており、その手は腕の途中で消えていた。

オトハがギョッとするとサリィが話しかけてくる。


「まだ深淵からは抜け出られていないわ。手を話してはダメよ。ここはね、たちの悪い幻影を見せてくるの。自分が馴染み深い場所にそっくりの幻影。でも出るのは簡単よ、その馴染みの場所は必ず屋内になっていて、出口から出れば良いだけ。けれど、注意してもらいたいことがあるの。必ずすべての部屋の扉を開けること、もし人影を見てもそれには触れないこと。あと、こちらを向いている人影は敵意を持った澱人だから絶対に目を合わせないこと、殺されたくなかったらね。」


「殺される……。わかったわ、気をつける。それでサリィちゃんは何処にいるの?」


「私も馴染みの家の幻影を見ているわ。大丈夫、手を離さず一緒に歩きましょう。」


 そう言って二人は同時に歩き始めた。


 ここは二階だからまずは物置になっている兄の部屋を開ける。

死んだ兄の部屋。

ここには兄のものは何もなく、両親と私のものが詰め込まれているだけだ。

数年来、彼の面影は家の中にはなかった、本当に絶縁状態で、誰も彼のことを気にかけていなかった、それはオトハも例外ではない。


 次に両親の寝室を開ける。

綺麗に整えられたベッドが一つ、大きめだが細かい光の調節ができる間接照明がぼうと点いており、壁にはバウハウスのポスターが貼られている。

最後にトイレの扉を開ける、どうやら二階には特に誰もいないようだ。


 ほっとして階下へ進もうと思いハッと留まった。


「サリィちゃん、これから階段を降りるけれど大丈夫?」


「大丈夫よ、私は今階段を上がっているもの。ここはあくまで幻覚なの。私達の手が引き離されることはないわ。だから安心して進んで。」


 その言葉に安心してオトハは一階へ降りた。


 一階は居間、ダイニングキッチン、父と母のそれぞれの仕事部屋、風呂場、トイレがある。

まだ6箇所も回らなくてはならないにも関わらず、オトハの恐怖心は膨れ上がるばかりで、足が竦んでしまう。

その気配に気付いたのかサリィは手を強く握ると安心させるように話しかけてくる。


「ふふ、大丈夫よ。ここの澱人は目を合わせなければ何もして来ないわ。私も手を離さないようにするから。」


「ありがとうサリィちゃん。私は年上なのにだらしないなぁ。頑張らなくちゃいけないね。」


 オトハはそう言うと自分を奮い立たせて歩き始める。

廊下を奥まで進むと風呂場だ。

少しの躊躇のあとに風呂場を開けると、視界の隅、部屋の隅に人影がいてオトハは叫びだしそうになった。

しかしその人影は顔の向きなどもわからないもので、不気味だが敵意がないものだとわかる。


 呼吸を整えて次はトイレを開ける、特に何もない。


 次はデザイナーをしている父の仕事部屋、豪華なオーディオ機器と一台のMac Pro。本棚には資料が整頓されて並んでいる。

几帳面な父の性格を表すような埃一つない部屋。

対して母の仕事部屋は物が散乱している。

大量のドッグイヤーをした文庫本、開いたままのペットボトル、食べかけのお菓子など、全くちょっとは片付けて欲しい。

これで一応は家事をこなせるのだから不思議である。


 ダイニングキッチンを開けると人影が2つ、少し驚いたが、これも敵意がないことがわかるのでホッとした。


 居間には何もなかった。


 それにしても薄暗くて奇妙な人影がいるだけで自分の家がこれほど不気味に感じるとは。

自分の家に恐怖を抱いたのは初めてだ。

この気持はなるべく何処かに捨てて帰りたい。


 いよいよあとは玄関を開けるだけ。敵意を持った澱人は一人もいなかった。

殆どクリアしたも同然でオトハは少し安心した。


 居間から目を離して、玄関の方へ一歩踏み出したところでピタっと動きが止まってしまった。

血の気が引くのを感じる。

玄関のノブにめり込むように澱人がこちらを向いている。


「こんなの、無理じゃない……。」


 そう言うと一生懸命澱人の方に視線が行かないようにする。


「どうしたの?お姉ちゃん?」


「澱人が、出口にいて出られない。」


「それは意地が悪いわね。」


 サリィは少し考えると、仕方がないといった風に言った。


「澱人に近づいて。そしてそのまま私と握っている方の手でそいつに触って欲しいの。」


「あ、あいつに近づくの?」


「きょっと強引な手段だけれどね。私があいつを殺すわ。」


 あの恐ろしい澱人を殺す?

耳を疑うような少女の言葉にはしかし奇妙な説得力があった。


「殺す……。そんなことができるの?」


「私にはできるわ。だから信じて進んで。」


 恐怖心で腰が引けていたが、年下の女の子にここまで言われては引き下がるわけにはいかない。

オトハは目をグッと強く閉じて開くと気合を入れ直して言う。


「畜生!怖いけど、やってやる!わかったわ!信じる!サリィちゃん、お願いね!」


「ふふ、大丈夫よ。私は強いもの。」


 澱人と目を合わせないように視界を逸しながらゆっくりと玄関へ近づいていく。

オトハの緊張を感じてサリィは安心させるために左手で強く握る。

それに鼓舞されるように一歩また一歩と進む。

そしていよいよ玄関までたどり着き、手を澱人へと近づけた。


 サリィがニヤリと笑うとオトハの右手が激しく発火した。

いや、これはサリィの左手が発火しているのだ。

オトハは驚いて手を振りほどきそうになったが、グッと堪えた。

不思議とその炎はオトハには熱くなかったのだ。


「さあ、お姉ちゃん、澱人に触れて。焼き尽くすわ。」


 これが魔法なのだろうか、サリィが魔法使いだというのは本当らしい。

オトハは意を決して澱人へ右手を近づける。

すると澱人へ炎が燃え移り、全身へ広がった。


「ギィエエエエッ!」


 澱人は複数の男女が混ざったような耳障りな声で叫ぶ。

苦しんでいるのだろう、体を揺さぶるように動いたが、その端から溶けていった。

そうしているうちにサリィの火はまたたく間に澱人の全身を溶かしきって消えてしまった。


「さあ行きましょう。」


 サリィがそう言うとオトハは頷き、玄関のドアを開けた。

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