第15話 握手と悪手。

 それは、触れてはいけない、禁断の果実のように感じた。

 伊月康介の大ファンである公香は、当然ながら、彼がSNSを使用している事は、知っている。公香もフォローをしているけれど、丁度よい距離感を保っていた。憧れの人を身近に感じられる利点もあれば、距離感を誤ってしまう欠点もある。直接、やりとりをする事は、踏み越えてはいけない境界線の向こう側にあると、公香は自分の中にルールを作っていた。

 伊月に直接確認を取るといっていたフォロワーは、何が目的なのだろうか? 他にも同じような事をしようとしている人は、いるのだろうか? つながる事が手軽になった分、その弊害がある。

 確認して、どうするのだろうか? そして、仮に相手にしてもらったとして、伊月の言葉を信用するのだろうか? もし、言葉一つで信用するのならば、わざわざ確認する必要はないのではないだろうか?

 では、なんの為に?

 公香は頭の中で巡る疑問に、船酔いのような嫌悪感が生まれてくる。

 どうして、私が作品を引っ込める事で、全てなかった事にしてくれないのだろうか?

 伊月康介の事をもっと知りたくて、同じ作業をして、同じ苦楽を味わいたいと始めた小説執筆。その事によって、伊月康介に不快感を与えてしまったり、面倒をかけてしまったり、貴重な時間を奪ってしまったら、それは本末転倒だ。

 そんな事になるくらいなら、もう二度と小説を書かない方がましだ。そう考えた直後、暗闇で一人、俯く優の姿が脳裏に過った。公香は、懸命に頭を振ると、立ち眩みに襲われ、ベッドに倒れこんだ。

 もう、何が正しくて、何が間違っているのか分からない。どの選択肢が、正解なのだろう。しかしながら、伊月康介と関わりを持ちたいのは、偽りようのない事実だ。これまでは、理性で己を戒めてきた。

 もしかしたら、フォロワーは、正義感や公香の為といったものを大義名分にして、伊月康介と接しようと企んでいるのではないか?

 そんな、歪んだ感情さえも生まれてしまう、歪んだ自分が酷く醜く感じた。

 なにか弁明でもあるかもしれない。公香はスマホを手に取り、伊月康介のSNSを閲覧する。しかし、何も発信されてはいなかった。その後、適当に流してみたが、誰かが騒ぎ立てている様子もなかった。その事で、胸を撫で下ろした公香は、溜息にも似た息を吐く。冷静になって考えてみたら、それはそうだ。

 たいして閲覧されていない、弱小アマチュア作家の作品が盗作された。と、誰かが騒いだところで、そんな事誰も相手にしないだろうし、興味もないだろう。きっと、誰かがDMで真意のほどを確認したからといって、伊月康介が見ず知らずの人をわざわざ相手にするとも思えない。

 それならばと、公香は上体を起こして、スマホを見つめる。

 この機に、メッセージを送ってみてはどうだろうか?

 返信なんかなくてもいいし、読まれなくても構わない。ただ、本人にメッセージを送ったという事実が、あればそれでいい。

 迷惑をかけたくない。馬鹿だと思われたくない。嫌われたくない。なによりも、傷つきたくない。思いやりや常識を盾に、何もしなかったのは、ただ逃げていただけではないのか?

 自問自答を繰り返す。少しだけ、少しだけだから。

 公香は、スマホを額に当てて、思考をフル回転させている。小説を書く時ですら、ここまで思い悩んでいなかった気がする。深呼吸を繰り返し、スマホの画面を叩いた。

『初めまして、本田公香と申します。私は伊月蜜柑というペンネームで小説を書いています。私の事なんか、知らないですよね?』

 勢いのまま、公香はメッセージを送った。その直後、後悔の念に苛まれた。やっぱり、止めておけばよかった。キャンセルができないか、あたふたしている。すると、一通のメッセージが届いた。驚きのあまり、スマホが手から滑り落ちる。ベッドにうつ伏せになるスマホを拾い上げ、画面を見た途端、息の根を止められたかと思った。体が呼吸の仕方を忘れたみたいだ。

『初めまして、伊月康介と申します。突然、不躾なお願いで恐縮なのですが、一度お会いできませんか? できれば、二人だけで』

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