23. 空々しき賢者の歩方

 懐中羅針盤を取りだし、とりあえず南西を目指して水路を進んだ。

 当たりをつけるといっても、僕がいま把握できるのは地下の大まかな方角だけに限られている。


 頭の中で、地上にある3つのランドマークを思い描きながら歩いた。

 東のホテル・エルドラード。

 西のピースホール。

 そして南西のデッドシティ庁舎。

 これらをつないだ三角形のほぼ中央に、目的の場所と物がある。

 とはいえ、地下では地上のように最短の道を行くことはできない。

 それ以前に空間転移でこの場所に来た僕にとっては、現在地を把握することがさしあたっての課題といえた。

 そのためには、まず目印を見つける必要がある。


 手袋を左手だけはずし、壁にそっと指を這わせた。

 氷のような感触があった。

 なめらかな石の表面がわずかにくもり、指の体温が石の冷たさに同化していく。

 そのまま手のひらを押しつけた。

 大切なのはイメージだ。

 僕の存在は今、温度において周囲の空間から突出している。

 その熱源の輪郭が、冷えていく手のひらから溶けだし、融和し、やがて石造の水路全体に広がっていく。

 イメージの中で、真っ暗な壁の内側に自分の意識が光の粒として生まれ、流体となって弧を描く――。

 瞬間、僕は壁につけていた左手の甲を、右手の拳で強く叩いた。


「――相見て奮えマグノ 深処の光フオノン


 短い詠唱とともに、大量の魔力を壁の中に流しこんだ。

 同時に音がした。

 広いホールの石の床に、スイカ大の鉄球を高所から落としたような音だった。


 空間を震わせ、長く尾を引く澄んだ音が、壁の向こうの物質を文字通り連鎖的に叩き起こしていく。

 物質が強力な魔力によって応答した励起状態。

 その状態は、目を閉じた僕のイメージの中で、光り輝く粒子の乱れとなって知覚される。


 石、木、水、空気。

 密度と性質の違うそれぞれの物質は、それぞれの特性に合わせてふるまいを変える。


 そのうちの一つ、金属を表す粒子の集団を見つけた僕は、もう一度、壁につけた左手の甲を叩いた。

 今度は二本指で軽く、探るように指先で。

 すると、指向性を持たせた微弱な魔力の波動が、壁の中を駆け抜けた。

 金属の粒子にまっすぐ向かい、途中で二度細くなり、粒子にぶつかる前に減衰し、消滅した。

 これで、おおよその距離も把握できた。


「直線で400メートル。交差する水路が二つ」


 強く叩いて反響を読む。

 山彦の応用版といった魔術が、今使った深処ふかみの光だった。

 もちろん凄まじく目立つ行為なので、緊急時の索敵などにはまったく使えない。

 この魔術は古い時代、鉱山の開拓事業に使われていた。


「方角は、北西か」


 はじめに南西に進んだのは、自分がホテル・エルドラードの近場にいると仮定した場合の進路だった。

 僕は羅針盤を見ながら、水路の分岐を左に進んだ。

 それからは早足で五分ほど歩いた。

 立ち止まり、声をあげた。


「あった……」


 つぶやいた声が、薄闇の中で冷たく響いた。

 左右に分かれた水路の向こう。その壁面に打ちこまれた金属のプレートには、七桁の文字列が刻まれていた。


  EC1A 9PS


 ポストコードだ。

 あの文字列は、地上にある建物の正確な位置を示している。


 地図を広げた。

 観光名所や古い建築物など、目立つ場所にはあらかじめコードを走り書きしてある。

 EC1A 9PS……。

 口中でつぶやきながら紙面をなぞっていた指が、地図の一点で停止した。

 スミスフィールドマーケット。


「スミスフィールド……食肉市場か。よかった。方向的には間違ってない」


 僕の直上には今、市場がある。

 ホテル・エルドーラドからは西に1キロほどの場所だった。

 つまり、地下水路に来てから今までの移動もさほど無駄にはなっていない。


 時間を見た。

 シンシャたちと別れてから17分たっている。

 ロスペインは、なるべくもったいつける、と言っていたが、それでどの程度時間が稼げるのかは分からない。状況にもよる。


「手段は選んでいられない、か。しょうがない。走ろう」


 つぶやいたとき、頭上で遠雷のような音がした。

 壁越しに届いた低い音は、よく聞くと爆発音のようでもあった。

 シュナイダーの兵器か、ロスペインがまた何かを投げたのか。

 いずれにしても戦闘はもう始まっている。


 薄闇に、目は完全に慣れていた。

 次の中継地点を地図でざっと確認すると、僕は右手の指を三本立て、額に当てて目を閉じた。


「巡礼者よ。風聲おとずれきて人音ひとおとあぶせ。く、はやく、吹く如く。ぶれ、ばれ、しかじかと。は、さばしることの碧落へきらくの果て」


 ――空々しき賢者の歩方イダ・ウルトレイア


 目を開き、輝きを放つ指先を、自分の足に向かって振りおろした。

 紺碧の風が吹き荒れ、きらめく糸のような流線とともに、風が両足の膝下にまとわりついた。


 賢者の歩方は、言うなれば速く走るための自己暗示である。

 風のエレメンタルを全身にまとい、同時に筋力も増幅させる。

 ただ、それは魔術によって無理やり肉体を動かしているだけなので、賢者の歩方とうそぶきながらも使用後には大きな反動がある。

 代償と呼んでもいいだろう。

 ようするに、使用後はすごい筋肉痛になる。


「まあ、何度も死んでるのに今さらか……」


 あとは気絶にだけ注意すればいい。

 たとえば調子に乗って走りすぎて気絶、水路に落下、冷水でショック死、もしくは溺死、という迂闊にすぎる展開だけは回避したい。


 軽く手足を振りながら、僕は方角と経路をイメージした。

 スミスフィールドから目的地までは、地図でもまだ2キロはある。たぶん水路を行くなら倍はかかる。


 深く息を吸い、最初の一歩を踏みだした。

 直後、10メートル先に見えていたはずの壁が鼻先にあった。

 身をひねり、壁を蹴って水路の反対に転がり落ちた。

 顔をあげる前に、かがんだ姿勢から地面を蹴った。凄まじい勢いで景色が流れた。

 体が嘘のように軽くなっている。

 肉体が意識に従って動くのではなく、ここに行く、と考えたときには、すでに体が移動しているような感覚だった。


  WC2R 1LA

  W1D 3QP

  W1G 0PR


 吹き飛ぶように流れていく視界に、いくつかの文字列が現れては消えた。

 地図は見なかった。見る必要を感じなかったからだ。

 僕の脳裏には今、地上の街路と、地下水路の流れが完璧な形で重なって見えている。

 肉体の発火するような熱とは逆に、頭だけが妙に冷えていた。

 冷静、とは少し違った。

 五感から得られる情報が異様な速度で流れ、それを他人ひと事のように見おろしている自分がいる。

 危ない状態だった。

 頭が異常に冴えているのに何も感じないのは、火に触れている指が焦げているのに痛みを感じていないのとたぶん同じだ。


  W1B 3DA


 何度目かのコードを目にしたとき、僕は自分がかなり前から呼吸をしていないことに気づいた。足が止まらない。息ができない。意識が、遠のく。

 もしかしたら、そのとき僕は叫んだのかもしれない。

 正常な判断を捨てるために声をあげ、死ぬかもしれない選択にあえて肉体を従わせたのかもしれない。


 通路の端を蹴りあげ、大きく跳んだ僕は、顔面から壁に激突した。


 受け身は取らなかった。

 弾かれた体が水路に落ち、水を飲んだ肺が焼けるように鋭く痛んだ。

 呼吸ができない。

 ただ、今の僕の体は呼吸をしたいと思っている。

 水面に顔を出し、激しく咳きこみながら僕は息をした。


「はあ、は……っ、ぐ、つ……。だから、強化系の魔術は嫌いなんだ」


 悪態をつきながら、水から這いでた。

 体が重いのは服が水を吸ったせいだけではないだろう。

 壁に手をついたが、立ちあがれなかった。

 そのまま背を預けて、足を放り出して床に座った。

 足を見た。

 陸に上がった魚のように、太ももやふくらはぎが小刻みに痙攣している。


「キモ……」


 自分の足に言う感想ではないが、素直に気持ち悪いので仕方がなかった。

 痙攣が治まるまで少し休もう。

 考えて、足から目を離し、時計を見た。


 走り始めてから3分しかたっていない。

 迂回を含めた地下水路の道のりは4キロほどだ。

 つまり僕は、時速80キロ程度で地下を走っていたらしい。

 数値が分かると、よけいに足が重くなった気がした。

 ため息をつくと、懐中時計の表面に、ぽたり、と赤い水滴が落ちた。


「あれ……? そうか。さっきぶつけたんだった」


 額から血が流れていた。

 反射的に触ろうとして思いとどまった。手袋をしている。

 潔癖と言ったバルブロの話を信じるならば、この毛皮は純白であることにきっと意味があるのだろう。

 そこで、ふと思った。


「そういえば、匂いは……」


 言いかけて、僕は息を呑んだ。

 誰もいなかったはずの地下水路に、人型の何かが立っていた。

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