第三十八話 武陽攻略戦

 愈々いよいよ、張石軍の大軍勢が、武陽に向かって進軍した。その数は総勢二十万。武陽の周辺の城塞都市は全て張石軍に降伏している。

 武陽の宮廷は騒然としていた。左右を忙しく往来する文武百官は、皆等しく焦燥の色を浮かべている。ただ、奇妙なことに、その真っ只中に、ある男の姿がなかった。

「李丞相がお見えにならない」

「あのお方がいなければ何も決まらぬぞ」

 丞相、つまり李建の姿が、何処にもないのである。


 実はこの時、李建は密かに宮殿を抜け出し、私邸へと戻っていた。そして、密使を張石の元へと送っていたのである。

「李建……」

 書簡を受け取った張石は、そこに書かれている名前を見て目を疑った。

 李建、普の宮廷に巣食う奸臣にして、実質的な最高権力者である。先に戦った李沈の父親であるともいう。張石軍は、以前、強敵であった王敖を排除する際に、李建を利用したことがある。公孫業の口添えで、武陽に噂話を流し、内心王敖を恐れているであろう李建の猜疑心を焚きつけてこの老将を解任させたのである。その後王敖が死を賜ったという所まで、張石は把握していた。

 書簡の内容は、端的に言ってしまえば、投降と命乞いである。

「この後に及んで、さんざん食い物にしてきた帝室を裏切るのか」

 張石も、傍らにいた張舜でさえも、乾いた笑いを発さずにはいられなかった。対照的に、公孫業は眉根に皺を寄せて難しい表情をしている。今、この場に田管はいないが、同じ普将であった田管がこれを見たら、どのような反応をするであろうか。張舜はそれが気になった。

「城壁の内に内通者を作っておけば、少ない犠牲で制圧できるかも知れない。武陽内部の情報にも詳しいだろうから、利用価値はあると思う」

 張舜は、そう主張した。かつて彼は自分たちに降った公孫業を留め置くことを進言し、彼がもたらした情報を活かして王敖を排除した実績がある。

 斯くして、李建の送った使者は張石の書簡を持たされて送り返された。

 その後、張石軍は二十万の軍勢で、そのまま武陽を包囲した。武陽の城壁の上には帯甲した守備隊の兵士たちがずらりと立ち並んで張石軍を睨みつけている。国都というだけあって、その堅牢さは往時の梁の国都であった成梁以上であろう。まともに力攻めなどを行えば、多大な犠牲を強いられるのは火を見るよりも明らかである。

 だが、その城壁は、夜間、こっそりと開かれた。

 李建の息がかかった者の中には、城門の鍵を管理する役人も存在していた。彼を使って鍵を持ち出させ、城門を開かせたのである。城塞の内部に内通者がいては、どんな城壁も用を成すことはない。さながら象の体が内部の寄生虫に食われるが如きである。

「よし、突入!」

 張石軍の兵士が、城内にどっと侵入した。歩哨に当たっていた僅かな兵たちは、ろくな抵抗もできずすぐに斬り殺された。

「目指すは普王の首ぞ!」

 一番槍の官卒将が、普の二世皇帝のことを敢えて「普王」と呼称した。それは、支配地域の大部分を失い、最早海内かいだいに号令することも叶わない二世皇帝に「皇帝」なる号は過ぎたものだ、と侮る意味合いを含んでいる。そも「皇帝」なる号は、先代の初代皇帝が、天の神である「皇」と、伝説の聖賢君主である「帝」を合わせて作ったものである。今の二世皇帝が名乗るには、滑稽にも程があろう。

 突入する張石軍に対して、武陽の守備隊はろくな抵抗もできずに蹴散らされた。夜にひとりでに城門が開くなど、誰が予想しただろうか。

 そうしてとうとう、張石軍が宮殿になだれ込んだ。僅かな近衛兵は、濁流のような張石軍に押し流されるように殺された。公孫業などの中央の事情に詳しい者たちによって、軍は皇帝の居場所を正確に把握している。


「な、何だ!? どうしたのだ!?」

 外の騒がしさに、流石の二世皇帝も跳ね起きた。この時、皇帝は後宮で、寵愛する美姫としとねを共にしていた。慌てて起きた皇帝は、美姫に命じて服を着させた。

「だが大丈夫だ。朕にはがある」

 服を身につけた二世皇帝はそう言うと、机上に置いてある銅製の杖を掴んだ。

「これだ……これがあれば朕に敵なしなのだ」

 二世皇帝は、この杖を振るえば百万の軍隊も自分の前にひれ伏すというのを、未だに信じている。それを見た美姫は、危うく失笑するところであった。

 その頃、すでに張石軍は後宮に突入を果たしていた。女以外には宦官と皇帝しか入れない後宮の廊下を、兵士たちが鎧の音を鳴らしながら走る。先鋒の部隊は精鋭であり、皇帝の首のみ唯一の目標としている。そのため彼らは女たちの部屋を調べはしても、中の女に手を出すようなことはなかった。女たちは、事態の異様さをすぐに察知して足早に遁走していった。

 皇帝のいる部屋の扉が、乱暴に開かれた。

「来たか、賊軍共」

 兵士たちの予想に反して、二世皇帝は落ち着き払っていた。二世皇帝は、にやり、と笑みすら見せた。一瞬、皇帝の意図が分からず、兵士たちの体が石のように固まった。その隙を見計らって、美姫は兵士たちの脇を通り抜けて部屋を脱出してしまった。

「これを見よ。天、我に徳を与えり。賊軍れ我を如何いかんせん」

 二世皇帝は、右手に握った銅製の杖を、おもむろに振りかざした。

 暫しの間、その場には静寂が流れた。

「ほっほっほっ。さぁお前たち、そのまま後ろを向いて、賊共を鎮討せよ」

 どうやら自分たちは、二世皇帝に命令されているらしい。そのことを兵士たちが理解するまでには、少しの時間を要した。二世皇帝の一連の言行は、兵士たちにとって全く理解の及ばないものであった。

「何をしたいのかは分からぬが、我々もこれ以上待ってやれる程気が長くはない。覚悟せよ!」

 兵士たちが、一斉に戟を構える。今度こそ、二世皇帝をしいするつもりである。

「朕の命令が聞けぬのか!」

「何を言うか! 我々は貴様の首を貰い受けに来たのだ!」

 もう一度、二世皇帝は杖を振りかざした。しかし、それも虚しく、兵士たちの戟で、その丸々と太った体は串刺しにされたのであった。杖に何の効力もないことを、その時、この暗愚な二世皇帝はようやく理解したのであったが、それはあまりにも遅かったのである。

 中原を統一した普の国の、終焉であった。

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